mark 三陸文化復興プロジェクトについて


 わたしたちが遠野文化研究センターを旗揚げしたとき、最初の事業として取り組んだのは「三陸文化復興プロジェクト」であった。三陸の被災地に向けて文化による復興支援を行なうことは、遠野市とそこに暮らす人々にとってはあまりに当然な、なすべき仕事にすぎなかった。それから、三年の歳月を経て、なしえたことはあまりにわずかなものではあった。遠野文化研究センターはしだいに、本来の目的へと回帰しようとしている。遠野を起点として、その歴史や民俗文化を掘り起こしながら、文化によって地域の活性化を進めてゆくシンクタンクになることである。
 さて、先日、わたしは「三陸文化復興プロジェクト」の中間報告として、『古書通信』2014年3月号に「震災・文化・復興」という文章を寄稿している。ここに、その全文を掲載して、プロジェクトに御協力をいただいた多くの方々にたいする、とりあえずの報告とさせていただきたいと思う。この年度末には、あらためて詳細な総括のための報告をさせていただく予定である。

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 わたしにはいま、震災復興のために働く拠点がいくつかある。そのひとつが岩手県遠野市にある遠野文化研究センターであり、わたしはその所長をつとめている。震災の前から準備は進めていたが、このセンターが創設されたのは震災から間もない四月半ばだった。遠野市はその当時、三陸の被災地の復興支援のための中継拠点として、多くの人が集まり賑わっていた。まさに非常時であった。起ち上がったばかりの小さな研究センターがなすべき仕事は、おのずと、震災からの復興というテーマに絞られていった。議論の末に、まずはじめに三陸の文化復興支援に取り組むことに決めた。
 震災の三カ月後の六月十二日に、文化復興をテーマとするシンポジウムを開催した。被災した沿岸の市や町から文化施設の担当者を招いて、現状報告をしてもらった。言葉を失うことばかりだった。文化に携わる人々のなかにも、犠牲になられた方が少なくなかった。役場も施設も跡形もなく流されていて、文化の復興など考える余裕はまったくない、と聞かされて、逆に、だからこそ遠野のわれわれに出来ることがあると感じた。
 すでに、遠野文化研究センターの女性スタッフの一人は、陸前高田市の壊滅した博物館のレスキュー活動にかかわっていた。彼女は瓦礫の山と化していた博物館の入り口あたりで、一枚の貼り紙を見つけた。そこには「これは市民の宝物です。持ち去らないでください」と書かれてあった。その写真が涙を誘った。この博物館のスタッフはみな犠牲になっており、誰が書いたものか、いまだに定かではない。あるいは、大槌町の教育委員会のスタッフは、「町はすべてが流されました。近代はおろか、近世まで丸ごと津波に奪われました」と語った。とても生々しい言葉だった。問い返すこともできなかったが、路傍の石碑や石仏まで根こそぎ流されたのではなかったか。ともあれ、文化財レスキューと呼ばれることになる復興支援は、すでに手探りに始まっていたのだった。
 シンポジウムのなかでは、「三陸文化復興プロジェクト」を始めることをとりあえず宣言した。のちに、以下のようなマニフェストらしきものを遠野文化研究センターのウェブに掲載している。

 このたびの東日本大震災においては、多くの村や町が想像を絶する被害を蒙りました。とりわけ遠野との関わりが深い三陸海岸の村や町が、大津波に呑み込まれ、たくさんの犠牲者を出しました。それぞれの地域に大切に受け継がれてきた歴史や文化もまた、大きな被災を受けています。いま、亡くなられた方々に向けての鎮魂と供養をおこないながら、ようやく復興と再生へのはるかな道行きが始まろうとしています。
 あらたな地域に生きる絆を結びなおすためには、地域文化の復興を欠かすことができません。だから、三陸の文化復興支援が求められているのです。遠野文化研究センターがそのために力を尽くして働くのです。それを、わたしたちは遠野文化研究センターのはじまりの仕事と位置づけました。たくさんの志をともにする方々にたいして、それぞれに可能な形での参加を呼びかけます。

 大きな活動は二つだった。ひとつは、文化財レスキューにかかわるものだ。沿岸の多くの役場や図書館が被災していた。行政文書や本・雑誌なども流されたり、海水に浸かっていた。遠野市との関係がたいへん深い大槌町に絞りこむことになった。大槌町立図書館から救出した議会資料や新聞スクラップなどが遠野に運び込まれ、ボランティアの人々とともに、クリーニングや修復を進めていった。  いくつかの教訓めいたことがある。たとえば、文化財のレスキューや修復にあたっては、可能なかぎり、たやすく手に入る物や道具を利用して、誰でもできる簡易な方法を考案することが必要だ。こうした巨大な震災のあとには、文化にたいする支援はほとんど予算措置を期待することができない。立派な機械や施設が用意されることなど、まずありえない。今回、現場でボランティア・スタッフが編みだした修復の方法といったものは、どのように継承されてゆくのか。そこにどれほどの汎用性があるのかと問われると、いささか心もとなくはある。災害は実に多様なのだ。神戸市と山古志村と三陸の村や町とは、まるで被災状況が異なっている。求められる文化財レスキューもまた異なっているのである。  いまひとつ、記憶されるべきなのは、文化財とはその市町村にとっては、その地に生きてあることのアイデンティティを紡ぐためのまさに「宝物」であるということだ。肝に銘じておかねばならない。こんなことを幾度となく耳にした。被災地はどこも混乱の極みにあった。外部からの支援の申し出は多かったが、担当者たちは思い悩みながらたいてい断ることになった。相手の善意を疑うわけではなかったが、大事な「宝物」が混乱状態のなかで所在不明にでもなって、戻ってこない事態は避けねばならない。だからこそ、顔を見知った付き合いのある仲間が仲立ちしてくれるときには、安心して委ねることができて、ありがたかった、という。  逆にいえば、文化財レスキューがスムーズに行なわれるためには、震災の以前に、対面関係に根ざしたネットワークを作っておく必要があるということかもしれない。近隣だけではない、あえて遠く隔たった地域にも、繋がっておいたほうがいい。日常的に交流を持っていた姉妹都市からの支援が心強かったという声を、幾度となく耳にした。山と海が結ばれるような広域の災害支援ネットワークの必要性は、誰もが感じたことではなかったか。  大きな、いまひとつの活動は、被災地の小中学校などへの献本プロジェクトである。あの六月のシンポジウムのなかで、わたしは夢物語のように語っていた。全国の人々に呼びかけて、百万冊の本を集めよう、そして、それを被災地の小中学校や公民館などに寄贈しよう、と。百万冊はたしかに妄想じみているが、それだけの本があれば、被災地を越えて、きちんとした蔵書のない辺地の学校や、図書館を持たない地区にまで本を行き渡らせることができるのではないか、とわたしは考えた。何十年も前に買い揃えられたにちがいない、黒ずんだ本の並んでいる小学校の図書室からは、本の好きな子どもは育たないだろう。  献本活動は早くからあちこちで始まっていたが、多くは失敗しているように思われた。避難所の片隅に、送られてきた本が段ボール箱から出されることもなく積み上げられているのを、何度も見かけた。手入れや仕分けがなされずに、ただ闇雲に箱詰めされた本は、被災者のもとには届かなかった。小学校に届いた段ボール箱を開けると、大人向けの本や雑誌が詰まっていた、といった話ばかりを耳にした。そのとき、善意はゴミになる。だから、われわれの献本プロジェクトは、たとえ時間はかかっても、相手側との関係をきちんと作ったうえで、必要とされる本を必要なだけ、必要とされるときに寄贈するということを方針としたのだった。  いくつものメディアが報じてくれた。全国から続々と本が送られてきた。凄まじい量だった。遠野市は、使われていない役所の一角や工場跡地などを確保してくれた。結局、およそ一年間で三十万冊の本が集まったところで、受け入れは休止することになった。この膨大な本は、緊急雇用のスタッフや、たくさんのボランティアの方々の手で整理された。仕分けされ、ラベルを貼られ、一冊ごとにパソコンに登録された。献本するときには、そうした電子データを付けて引き渡すから、そのまま配架して利用してもらうことができる。高校の授業で使う辞典を二十冊ほしいとか、小学校低学年向けの本が二千冊ほしいとか、といったリクエストにも丁寧に応じながら、すでに二十万冊近い本が届けられている。  はじめに描いていた段階には辿り着けなかったが、とりあえずは、これでよしとせざるをえないと感じている。献本活動と限らず、あらゆる文化支援は、被災者が主人公であるという当たり前の原則が忘れられるとき、たちまち善意という名のゴミの山を築くことになる。こうした、ささやかな教訓や知恵こそが継承されねばならないものだ。  文化による復興支援は、すでに次のステップに入ろうとしている。むろん、ここでも手探りに。

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