mark 『遠野学』創刊に寄せて

東日本大震災が起こった日から、ちょうど三週間後の四月はじめに、遠野文化研究センターはひっそりと産声をあげました。

『遠野物語』の発刊百周年のさまざまな動きのなかから、遠野の歴史や文化、風土などを糧として、あすの遠野を内発的に創ってゆくための拠点がほしい、という声が生まれ、それは静かに、ゆるやかに広がっていきました。その、ささやかな結晶として、遠野文化研究センターは誕生へといたったのです。

そこには多くの人々の思いが寄せられ、また託されていることを忘れるわけにはいきません。このセンターは小さく生まれながら、きっと大きな仕事をなすべき宿命を背負わされているのだと感じています。それがわたしたちのひそかな自負でもあることを、あえて隠す必要はないでしょう。

わたしたちは何より、遠野文化研究センターが東日本大震災という巨大な災厄のさなかに帆をあげ、船出したことを、深く記憶に留めねばなりません。

思えば、遠野は全市をあげて、津波による甚大な被害をこうむった三陸の村や町にたいする、緊急支援と復興のための拠点となって働き、その役割をみごとに果たしてきました。自他ともに認めるところでしょう。地図を眺めれば、遠野が内陸の盛岡や花巻・北上と、三陸の宮古・釜石・陸前高田などとを結ぶ交通の結節点に位置を占めていることは、ただちに知られるはずです。扇の要のような土地なのです。

そのために、遠野は明治二十九年、昭和八年の三陸大津波に際しても、同じような役割を担ったと語り継がれています。いま遠野の人々は、遠野という土地が秘めている地政学的な意味合いを、痛いほどに再確認しているのかもしれません。

だから、遠野文化研究センターははじまりの仕事として、三陸文化復興支援プロジェクトを迷わず選び取ることになったのです。いわば、三陸の被災地とともに歩み続けることを、みずからの社会的な使命として掲げたのです。

それは同時に、このセンターが遠野という地域を越えて、広く三陸の村や町と繋がりながら、みずからの文化的なアイデンティティを問いかけてゆくことを選んだということでもあるはずです。遠野の歴史・文化・風土を、山のみならず、海に向けて開かれたかたちで紡ぎ直してみたいのです。

 

さて、遠野文化研究センターでは、遠野の文化的なアイデンティティを問いかけ、学んでゆくための活動をさまざまに展開しています。

その活動の一環として、『遠野学』という雑誌を定期刊行する準備を進めてきました。この雑誌は当面は年に一冊、つまり年報のかたちで刊行されることになります。センターの内外に執筆者を求めつつ、開かれた調査と研究の媒体となってゆくことでしょう。

『遠野物語』の刊行から百年を経て、遠野はいま、柳田国男と『遠野物語』の遠野から、『遠野物語』を産んだ遠野へと、自画像の転換を模索しはじめています。むろん、『遠野物語』のもたらした恩恵はかぎりなく大きなものです。とりわけ、遠野の美しい風景のある部分は、疑いもなく『遠野物語』の力によって守られ、残されてきたものではなかったかと、わたし自身は想像しています。

それでも、遠野はどうしても、『遠野物語』以後へと足を踏み出さざるをえないのです。『遠野物語』を大切にいだき、その呪縛をやわらかくほどきながら、『遠野物語』というテクストを『遠野物語』を産み落とした遠野へと還してやることが求められているのです。まったくもって、アクロバットじみた振る舞いです。しかし、それこそが『遠野物語』の次の百年にとって、核心的なテーマとなることでしょう。

だから、この『遠野学』は、柳田国男や『遠野物語』の研究のための雑誌ではありません。それはあくまで、遠野という地域に根差しつつ、地域からの知を編み直すための雑誌なのです。

なぜ、『遠野物語』はこの遠野という土地から生まれたのか。それはたしかに、柳田と佐々木喜善、二人がほんの偶然のように出会うことによって誕生しました。しかし、いまにして思えば、そこには何本もの必然の糸が絡まり合っていたのです。

喜善はそのとき、いまだ二十代なかばの、怪異なるものに強く惹かれる文学青年でした。おそらく、そうした夢想家タイプの、柳田の言葉を使ってみれば、「神隠しに遭いやすき」気質をもった若者は、遠野という精神の風土こそが母胎となって生まれているのかもしれません。

そして、『遠野物語』の背後に見え隠れしているのは、実は佐々木喜善ばかりではありません。『遠野物語』にもわずかに姿を見せる、『台湾文化誌』という大著を著わした人類学者の伊能嘉矩の名前を忘れるわけにはいかないでしょう。この人の業績の再評価は、わたしたちが総力をあげて取り組むべき大切な仕事になるでしょう。

ほかにも『遠野物語』以前/以後に、明治の三陸大津波の実地踏査をおこない記録を残した山名宗真から、わたし自身の遠野学の師であった歴史家の荻野馨にいたるまで、遠野という知的風土は不思議なほどにたくさんの野にある学者たちを輩出してきた土地なのです。しかも、かれらはみな忘却の縁へと追いやられてきました。

ともあれ、佐々木喜善や伊能嘉矩らが復権を果たすとき、『遠野物語』は民俗学という狭いテリトリーから解放されることになるでしょう。

『遠野物語』はこの百年のあいだ、なぜ、これほどに多くの読者に熱く迎えられたのか。その理由のもっとも大きなひとつは、まちがいなく、それが圧倒的にすぐれた文学作品であったことです。その意味では、まさに『遠野物語』は柳田その人の作品であったことを否定することはむずかしい、いや、否定する必要もないのです。

それにもかかわらず、逆に、文学作品であるがゆえに、それは生きもののように、時代とともに異なった解釈を附加されてメタモルフォーゼを遂げてきたし、これからも新たなメタモルフォーゼを遂げてゆくのです。おそらく、佐々木喜善の復権とは、「死と共同体」(三島由紀夫)を抱いた近代以前であると同時に/近代以後へと繋がってゆく文学テクストとして、『遠野物語』の評価を大胆に組み換えてゆくことへと道を拓くことになるでしょう。

 

こうして『遠野物語』に縛られながら、あすの遠野への道筋を探らねばならないところに、遠野のいまが凝縮されているのかもしれません。それははっきりと確認しておきましょう。

だから、遠野は『遠野物語』を抱いて、しかも呪縛をほどきながら、『遠野物語』というテクストの底に埋もれている遠野の掘り起こしへと向かわざるをえないのです。幸いにも、この逆説を愉しむだけの余裕のようなものが、いまの遠野には生まれています。時はまさに熟しているのです。そうして、すでに『遠野物語』の新たな百年は始まっているのだと感じています。

さて、ゆるゆると幕は上がったようです。

どうぞ、『遠野学』の行く末に眼を凝らしていてください。きっと、誰も見たことがない知の風景が、そこに顕われ、開かれてゆくことでしょう。

やはり、遠野は幾重にも特権的な土地であったのです。

あらためて、ようこそ、遠野へ。

(『遠野学』創刊号より)

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