mark 【口語訳遠野古事記】八戸御家御系図の事

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 その詳細は、当身延山より出版されている「身延小鑑」という書物に、実長様から2代目の波木井弥六郎長義が身延山へ納めたという証文の写しがあります。
 身延山の事は、故入道殿(※実長)が境界を決めて寄進した上は、別の子細があるべきではありません。子供等はこの旨を承知し、決して緩め怠るべきではなく、末末まで境界を変更することは禁ずるところです。
 正和元壬亥年正月十六日      日教 在判
この御本書は、実長様が御寄進した御証文と一緒に御宝物入の長持に納め置かれたものを、私が身延山に行ったとき拝見しております。
 「身延小鑑」に長義様の御子孫10代余りの御名前があります。この御嫡流の御子孫として、身延の町に波木井氏の浪人が、代々久遠寺からわずかな御扶持米を下されていました。身延山の絵図と「身延小鏡」の出版を久遠寺から許可されていましたので、この商売と傘・灯燈(※提灯)等の張替えを仕事にしておりました。ひそやかな身分でしたが、久遠寺方丈のもとへ、五節句並びに大事な行事の惣目見には、この方が最初にお出でになったそうです。
 御当家御系図に、実長様の御子は彦次郎実継様の他に弥六郎長義と申す名前は見られないと承っております。ある古説に、弥三郎様という実長様の御二男がいると申伝えられているという老人の話を承りましたが、これも御系図には無いと聞いております。
 両説とも御系図にない御人を存在する様に決めつけており、口に出すのは恐れを知らず無遠慮な妄言であると世間の批判を招いてしまうことを知らないわけではありませんが、我慢出来ないのは老耄の癖病として、このいたずら話を耳に止めず聞き捨て、決して他言しないでいただきたい。こちらで伝えられている弥三郎様は「身延小鏡」の弥六郎様を呼び間違えたものであろうか。また、あちらで三の字を六の字に書き間違えたのであろうか。
 5代政長様の御代、年始の御祝儀の座席図に、実長様二男後裔・左近実重とあることから考えますと、古説に言う弥三郎様の御子孫であると思われます。「身延小鏡」にある弥六郎様も御二男ということは疑いようがありません。しかし、久遠寺にある御証文の紙面には確かに御嫡子とあり、御二男とは見えないと言う人もおります。
 私がじっくり考えてみますに、実長様が境を定めて付け置いた御寺領の御証文を久遠寺に納め置いたのですから、御嫡流の御子孫が代替わりに改めて証文を出すということは無いでしょう。実長様から御二男の弥六郎様へ御分与・御譲りの御知行である身延山の境近くで、今後、境界がどこであるかという争いが無い様にと、御子孫へ禁止する遺書を後代の証拠とするために久遠寺に納め置かれたとみえるので、御二男ということは疑いないのであります。
 御嫡家8代政光様が奥州へお引越しの時、弥六郎様のご子孫は止むを得ない理由があり奥州へ御下向されませんでした。甲州に残り御浪人になられましたのを、身延では実長様の御嫡流と申し伝えられたのではないかと思われます。

【日蓮聖人から実長様への御礼御書簡の事】
一 その後、日裕聖人から御当家の御家柄は実長様の後裔でありますかと由緒をお尋ねになられたので、享保4年8月、西村吉左衛門(後に中舘金右衛門と改称、現在の金右衛門の祖父である)を身延山へお登りになられた。その時に遣わされた覚書の略書をここに記します。実長様が久遠寺御草創の普請を終えて、聖人から実長様にお礼の書簡が遣わされました。これは「地引の御書」と申伝えられております。御当家にも身延にも相伝えられているそうで、その書面の写しは以下の通りです。

 御堂は十間四面で、またひさし(※孫庇 寝殿造りの建物で母屋の外側をとりまく庇のさらに外側に出た庇のこと)が作られ、11月24日に大師講(※天台宗の開祖・智頭の命日に行われる講)、並びに延年の舞いを心ゆくまで演じ、更に乾の時(※午後9時)に御堂に参会して30人以上の人で一日経(※法華経を一日で写すこと)を行いました。申酉の刻(※午後5時)には、御堂完成の供養が無事終了しました。
御堂は地ならし・土台を作ったところ、身延山に24日は少しも雨の降ることはありませんでした。11月1日は小坊と厩を作り、8日は大坊の柱を建て、9日・10日に屋根を葺き終わりました。ところが、7日は大雨、8日・9日・10日は曇りで、しかも暖かく春の終りのようでした。11日から14日までは大雨が降り、その後大雪になって、今もって里でも消えておりません。山には一丈(※約3メートル)二丈の雪が凍って鉄のように固くなりました。23日・24日になるとまた空は晴れて寒くなく、人々の賑わいは京都・鎌倉の申酉の時(※午後5時頃)のようでありました。
なにか訳があるのか、次郎殿(※実長嫡男・実継)等の若様たちは、親の仰せを心に留めていらっしゃいますので、先に立って地ならしをし、柱を建て、家来の藤兵衛・右馬入道・三郎兵衛尉以下その他の者も一人もいい加減なところがありませんでした。御堂は鎌倉では一千貫かけても難しいと言われております。
ただし、一日経については供養を止めさせました。その理由は実長殿の思った御堂が建ってから供養なさるだろうと思ったからです。御祈念が叶わないのであれば言葉のみで実が無く、花が咲いても木の実がないようなものです。今もご覧ください。これが叶わないのであれば、今、法華経をあげても仏になることが出来ないと思われます。叶いましたら2人一緒に供養いたしましょう。「神習わすは禰宜から」と申しますように。この願いが叶わないのであれば法華経を信じて何になるでしょう。
様々なことを申し上げましたが、機会のある時また申し上げるつもりです。あなかしこ。
    11月25日         日蓮  在御判
     南部六郎殿

【西村氏身延え登山の節口上覚書の略記の事】
是より西村氏が身延へお登りになった節の口上覚書の略記
  覚
一 日蓮聖人が身延山を建て替えられた節、南部六郎実長へ遣わされた書状の写し一通をこちらの家が所持しております。則ち「地引の御書」と名付けられたものです。いつの時代に写したものを所持しているかは伝えられておりません。身延山に真筆か、写しかはわかりませんが存在すると承っております。いずれにしても拝見し紹介されて自分の目で見たいと若狭が思い、それを写すために身延へ登りました。
 但し、この御書の内「次郎殿等の御公達」とあるのは、彦次郎実継の事で、南部家の2代目でございます。さらに御書の藤兵衛・右馬入道・三郎兵衛尉等以下の人々とあるのは、実長の家士、三上藤兵衛長富・福士右馬入道長忠・橘三郎兵衛光朝のことで、この時の御普請総奉行をつかまつったそうです。とりわけ橘三郎兵衛は老体でございました。そのため身延山中では小脇指がふさわしいと実長様が仰せられ、小脇指(是行)を下されました。御普請が終了した後、神仏の前に奉納したそうです。その後、光朝の孫・民部行広という者が、当時の聖人様に、神の御心に背きませんので祖父の奉納した小脇指を下されば代々の家宝にしたいのですがと願い出ましたところ、聖人様から承諾されこの小脇指を頂戴し、数代にわたり所持していたと伝えられております。
 ところが、康正年中(※1455~56年)、奥州田名部という所に反抗するものがあり、御当家13代河内守政経様が討伐のため出立しました。その際、風が非常に強く、船中で軍士が祈祷の為にそれぞれ身に付けていた大切な宝物を海中へ投げ入れました。その時、橘民部行広の末孫・橘豊後行末という者が、あの代々伝わってきた小脇指を海中へ投げ入れたそうです。そうしたところ、激しい風は止み、敵城へ押し寄せ早速攻め落とすことが出来ました。その帰陣の際、先日激しい風に遇ったところで海面が急に揺れたので、皆が怪しく思い見たところ、鰐魚(※ガクギョ 鮫)があの小脇指を口にくわえ、豊後が乗る船中へと落し入れたと伝えられています。この小脇指は行末の末孫、橘甚兵衛と申す者が今は持っており、御当家家臣です。
 さて、身延山御普請奉行をつかまつった三上藤兵衛の末孫は、ただ今は三上藤右衛門と申し、この者もまた御当家家臣です。福士右馬入道子孫は12、3代続きましたが、事情があり断絶してしまいました。
 この次に代々の家系の拠り所になるものが書付の巻末に以下の通り記されています。
一 実長御子息は当家(※遠野南部氏)の先祖彦次郎実継二男は弥三郎とだけ伝えられております。二男の末孫であるという左近実重と申す者が、南部家5代遠江守政長の時代、正月元日の祝儀列座の記録に見ることができます。但し二男の惣領筋か、またはその家とは別の筋であるかはわかりません。実長様血筋の御子孫がこの世にいらっしゃるとは承っておりますが、その由緒については存じていないので、もし知っているのならお聞きしたいと思っています。

【聖人より御答書之略記の事】
聖人より御答書之略記
一 彦二郎実継公は2代目と仰せられていますが、この度あなたにお見せしたこちらの「身延類聚」に実長公以下の系図書には一向に見当りません。彼の書(「身延類聚」)にあるのはこちらの御子孫であると思われます。この度、実継公よりの御系譜を知ることが出来、ことさら実長公から代々続いている御嫡流こそが、身延山・日蓮を支えた御家の御子孫であることを初めて得心致しました。最近の年末年始ごとの訪問の真意、特に今回の御使者について、大変嬉しく感無量でございます。
一 御家士の三上氏長富・福士氏長忠・橘氏光朝、この3人の方が実長公から普請総奉行を仰せ付けられ、中でも橘氏は老臣であったので是行の小脇指を給わり、この普請が終了すると、これを身延山に奉納したのであります。その孫・行広が小脇指をお返しいただきたいとのことで返されました。また行末の時には、よんどころ無い理由で海中に投げ入れました。帰陣の際、鰐魚がこの小脇指を口から船中に吹き出し、今はその子孫の甚兵衛と申す方が所持しているという驚くことを承り、有難いと存じております。
 三上氏は今、藤右衛門と申す代まで相続が数百年続いていることは、誠に珍しいことであります。福士家は12、3代で訳あって断絶しました。
一 その御家(※遠野南部家)が甲州から奥州へ御下向のこと、並びにその間の事件の次第、また八戸で一万石賜ったこと、その後、重ねて国司顕家卿から忠義の恩賞として七戸を政長公に給わったこと。
一 将軍義満公の前で、政光殿・守行殿の取り成しをもって、甲州の所領を幕府へ差し出し八戸へ永く引移り、降参もせず2万石を維持したことは誠に褒め称え感心するばかりです。これらの隠れた業績は子孫が末永く続く基礎であると考えます。
一 政経公の御代より「八戸」と呼称し、「南部」と呼ぶのは止めました。また但馬守信長公は横笛の名手である事、また清心尼から将軍の直臣ではなく陪臣の列になったこと、また南部利直の領内で遠野と申す所に、直栄公の代より今に至るまで居住している次第、皆、身延山の由緒をお考えになって仰せられたことであります。
 後々の身延山に於ける実長公からの知らなかったことを知ることが出来、この重要な書付を身延山の文庫に実長公の書(「地引の御書」)と一緒に納め置くことは非常に喜ばしいことであります。
 また身延における実長公の嫡流の末孫については、類聚書の中にある諸太夫までです。その他の者は身分の低い者たちの類で、今は子孫が途絶えているため御使者へも語らず、対面にも及ばないということです。以上でご納得を。

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