mark 【口語訳遠野古事記】御花畠・御屋敷鎮守稲荷の事

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一 御屋敷に御花畠と称されている場所があります。古説によると、南部家26代大膳太夫信直様の御代、志和郡を御手に入れられる前に御所(※志和御所のこと)の斯波氏を討伐する計略として、岩手郡中野舘に高田吉兵衛(後に中野氏と改める)が砦を構えさせ、そこに福師慶膳(※福士伊豫入道慶膳。南部信長公の命で不来方城に入る)を差し置かれました。そのため世の人はこの砦を「慶膳舘」と呼んでいると申し伝えられています。
一 御屋敷の鎮守稲荷は、昔から御風呂屋の傍井戸の端にありました。狐崎村を領した人の子孫は、今なお狐崎氏と称し、盛岡の御家中におられます。その家は言うに及ばず、この近辺にいる人の子孫は先祖の産社(※ウブスナ 守り神・鎮守の神)を信仰しており、時々参詣するそうです。
 盛岡御城の御普請が始まる時(※諸説あるが、慶長三年説が有力)、この稲荷社がある辺りを内丸として御縄を張り左近様の御屋敷として割り出され、稲荷社を直々に御屋敷の鎮守として置かれました。
 直栄様の時代の事です。手明き(※非番)の御小者が一人、夕暮れ時に戯言を口走り、踊り跳ね身を悶えさせ、まるで狂ったようであったため、占い師に占わせたところ狐に憑かれていると申し渡されました。その頃は真言三ヶ寺(※東善寺・妙泉寺・善応寺)が交代で御屋敷に詰めており、その時当番だった東善寺へ直栄様はこう仰せられました。「屋敷の鎮守に崇敬し奉っていたにも関わらず、仕官の下僕を悩ませるとはその信仰を無視した行いである。よって鎮守の神として奉る志はない。明朝に御堂を破壊するので今夜中に御立ち退かれるように、とお断り申し上げよ」と仰せになりました。
 早速東善寺の僧が御堂へ参詣してこの御意を申し伝え帰ったその夜中、衣冠を正した男が夢枕に立ちこう言いました。「我は稲荷の神の使いです。あなたの下僕に憑いているのはこちらの狐ではなく志和から追放された悪戯狐で、彷徨って昨夜この屋敷に来たようです。我儘な振る舞いを以て、自分が仕えていた狐共々追い出された無念とその仇討ちのために私は身を忍んで戻ってきました。このような悪戯で地頭がご立腹になるのはごもっともです。このお詫びの証は明朝お目にかけましょう」という言葉を残し、神の使いは形を失って目が覚めました。
 僧がこの奇異な霊夢を一刻も早く直栄様のお耳に入れなくてはと長屋を出発すると、直栄様の使いが「早々に御城へ参られるように」と訪ねて来ました。僧が御前へ参上すると直栄様は「たった今不思議な夢をみた。その夢は斯く斯く云々」と御語りになられました。なんとその内容は、僧がみたものと少しも違わないではありませんか。「拙僧もご同然の夢をみました。そのことを申し上げるべく坊主長屋を出たところ、ちょうど御使いの方がいらっしゃいました。この霊夢の虚実は明朝になればおわかりになると存じます」と、僧が一つ二つお話を申し上げ、白々と夜が明けた頃、手明長屋の屋根の上に大きな古狐が身体を八つ裂きにされ死んでいるのが発見されました。このことを直栄様にお伝えすると、稲荷神への御信仰心をますます深められ、稲荷の官位を上げる願い出を京都へ仰せ出されました。
 こうして稲荷に正一位大明神の官位を授ける宣命(※天皇の勅命)が到来したという古い話は聞きましたが、宣命はいつ紛失してしまったのか、今は見ることができないとのことです。
 以前からある稲荷の社は、奥の座敷とは塀一つ隔てて間近にありました。そのため、女中達がお稲荷様の神威を穢す過ちを犯してしまうことを恐れ、信有様の御代である享保13年5月18日に、御花畠に新しく御遷宮されました。旧社地へは丸い切石を据え置かれたそうです。義顔様の時代である寛延2巳年に、正一位大明神への御昇進のお願いが京都に遣わされ、同年2月21日、御願いの通り官位の宣命がご到着し、御堂へ奉納されたそうです。

【邸内、泓(※フチ)に棲む毒蛇の事】
一 今の稲荷堂へ行く左の傍らに漆戸殿の御屋敷が建っており、その境に縦横が大きい割石がありました。この大石の下にはかつて水草が深く生い茂る淵があり、その中に毒蛇が棲んでいたと言い伝えられています。
 直栄様の時代、小姓を勤めていた坂本氏(善助の先祖)の二男が、その近辺へ遊びに行き水に浮かぶ雑魚を眺めていました。その時、恐ろしい毒蛇が淵の端で大きな鎌首をもたげて覗き出てきたのです。きっと睨む妖しい眼の光でたちまち気絶してしまいました。ようやく正気を取り戻しましたが、両目が潰れて小姓が盲人となってしまいました。直栄様は大変ご立腹され、御屋敷の在番である善応寺へこう仰せつけられました。「私の屋敷地内にある淵を住処として生命を保ち子孫を養っているという恩を受けながら、私に召し仕える小姓に仇をなして盲人にしたこの悪行は、龍であろうと蛇であろうと軽く済む罪ではない。住処の淵を埋めるので早々に立ち退かれよ。長居して私を恨むなよ。もしこれに違背するのならば、その理由を僧に見せるように」と仰せ渡し、蛇の言い分を聞かせよと言い含められました。
 僧は淵の岸へ直栄様の御意を蛇に申し渡し、しばらく様子を伺いましたが一向に現れませんでした。その旨を直栄様に申し上げ、その僧はまた淵へ行き、これ以降災いが起こらないようにと修法の加持勤行を行いました。翌朝、勤行を終えた後大石・土砂・塵芥を持ち運ばせ、それらを淵へ入れ平地のように埋め立ててしまいました。
 その後、直栄様は盲人となった小姓を不憫に思い、検校(※盲人が持つ高い位)を頼って小姓を弟子にしてもらい、芸事を習わせました。そして直栄様のお子様方のお相手役にされ、小姓は成長後「城久(名元は失念)」と称し、直栄様が四分の坊官(※盲人が持つ位の一つ。初心の上位にある)に取り立ててくださったと、私が幼い頃祖母が語っておりました。その大石の背後にある漆戸殿の屋敷では、今でも小さい池のような湿地を見ることができます。

【三ヶ寺、御屋敷御詰め御免の事】
 御当家の8代当主政光様(※南部師行公の弟)の御代、甲州から八戸へ御引き移りして以降は、南部家代々の根城にお住まいでした。御曲輪は東善寺の寺場にあり御本城へ近いため、東善寺の住持は朝夕の勤行は言うに及ばず、毎日お子様方の御加持にも参上しました。そのほか御夢違い(※ユメタガイ 悪夢が正夢とならないよう祈祷すること)の御用にも呼ばれていたそうです。それに倣い直栄様が盛岡の御屋敷に御引越しされてからも、三ヶ寺の住持が交代で御屋敷に差し置かれ、その住居を坊長屋と称しました。それは今の御鑓稽古所の辺りですが、信有様の時代である享保年中に三ヶ寺から御屋敷詰めをご容赦いただきたいとの申し出がありました。信有様はその願い出の通り、御屋敷でご祈祷の御用がある時は住持を盛岡までお呼出しすると仰せ渡らせたそうです。

【直栄様、御隠居屋作事の事】
 直栄様はお若い頃から、盛岡藩太守利直様の御意向で盛岡城へ家老職として出座しておりました。さらに重直様(山城守)、重信様(大膳太夫)と3代の太守様に齢70余りまでこれをお勤めになられましたが、直栄様が御隠居の許可を仰せつかることはありませんでした。
 遠野南部家では義長様が御成長された際、内々に御政務を御譲りになられると御屋敷裏へ御隠居屋と称した住居を建て、直栄様はそこに御移りになりました。外出時には下御門から出入りされ、直栄様の御客も同様に下御門からおいでになったそうです。
 延宝2年の正月、直栄様が御遠行される病で重体となった頃、信濃守行信様(重信様の御嫡子)が屋敷にお見舞いにみえた時も、下御門から御隠居屋へお入りになりました。

【花巻城主、正直様御女子様・妙寿院様の事】
 南部家27代利直様の御二男である彦九郎様は、御知行2万石、御居城は花巻を下賜されました。奥様は八戸左近様(※八戸南部20代。清心尼公の夫)の御二女(直栄様の奥様の妹)で、花巻へ御輿入れされました。そちらで御女子様を御生みになりましたが奥様は亡くなられてしまいました。続いて彦九郎様が御逝去され、御家を相続する御男子がおらず、その女のお子様は盛岡城へお引き取られました。しかし、遠野南部家で御引取したいとお願いし、直栄様のもとで御成長されました。後に毛馬内権之助殿との御縁組を仰せつけられ、御身にご入り用の物は全て盛岡の殿様がご準備し、御輿入れは遠野南部家からということになりました。しかし、権之助殿が早世してしまい、再びこちらで御引取する運びとなりました。御屋敷の裏に御庵室を建設し、御女子様は剃髪されました。御妙号を妙寿院と称され、その御生涯の内で殿様から20人扶持、遠野南部家からは10人扶持を与えられたのです。
 また、妙寿院様は南部家領の町から家出してきた女子達を保護し、差し出された御礼金を受け取ってよいと仰せつけられました。家出女を1か月に5人から7人ずつ妙寿院様のもとへ参らせ、親元へ送り返していただきたいと願い上げたのです。そのため、御屋敷の当番となった御目付は長屋へ家出女を呼び、今の状況やなぜ里に帰らないかを尋ね、その次第を聞き届けたそうです。親兄弟を呼び、女を引き渡すと分限相応の御礼金が妙寿院様に差し上げられました。そのため、御屋敷当番の御目付は家出女の詮議を行わざるをえなかったという話を老人から聞きました。
 直栄様の御隠居屋は、妙寿院様が住まう御庵室の屋体裏にあるとは聞いていましたが、正確な場所は私が若いせいで気が回らず、老人に尋ねなかったためはっきりしません。

【御屋敷、諸御蔵の事】
一 御納戸御蔵・御武具御蔵は、奥の御屋体と塀一枚を隔てた間近にあります。信有様の時代である享保年中に今の場所へ御引き移したそうです。もし、前々からの場所にそのまま差し置いていたならば、延享の火事の際に二つの御蔵に入れられていた大切な御道具らは、みんな残らず焼失していたでしょう。火災の前に引き移していたことは御家にとって幸いでした。
一 義長様の時代まで、志和佐比内村ならびに奥筋の知行の御成米は、盛岡屋敷に運ばせ、御蔵奉行と御台所頭が立ち会い、受け取り蔵へ納めていました。御蔵は、今の御破損長屋の背後にあり、御蔵奉行は御破損長屋に詰めて御米の出し入れを行います。その頃は御蔵奉行と御破損方とが同じ長屋におりましたが、御蔵長屋と称したそうです。
 義論様の時代に、奥筋の盛岡本家から御預りしていた知行地をお返しして以降は、御蔵奉行は差し置かれませんでした。佐比内の御物成米は御台所頭が受け取るよう仰せつけられ、勤めてきました。
 正徳年中の頃だったでしょうか。盛岡の町人が、御台所の御用米のつきあげは自分たちにさせていただきたいとお願い申し上げてきました。さらに、佐比内の御物成米を佐比内の御蔵で我々に御渡しくださる際は、米を現金に換えていただきたいとのことです。そこで願い上げの通りにしたところ、御米蔵の業務がなくなったため、盛岡の御蔵は取り壊しとなりました。
一 御末(※下級の奥女中。またはその部屋)の御玄関前から裏へ行き来する違塀の右側には、かつて御鷹部屋という柾葺屋根の御蔵がありました。御鷹を御取りやめて以降は御納戸から預かった様々な御道具を入れていましたが、蔵の修復も手間となったため享保年中に取り壊してしまいました。

【御数寄屋蔵の事】
一 以前から表の御庭の右側、石間(※イシアイ 八戸弥六郎屋敷から西本御蔵のあたり)の丁(※チョウ 町のこと)に面したところに御蔵がありました。御数寄屋(※スキヤ 茶の湯のための建物)の御道具を入れていたため、御数寄屋蔵と称されてきました。御数寄屋は御成座敷の背後にあったそうです。義論様は御幼年のころ家督を継がれたため、当分茶の湯はたしなまれないことから茶室を取り壊し、茶道具は御納戸蔵へ御移しになりました。御数寄屋蔵へは御料理人用の御道具が差し置かれていましたが、数年来の古い御蔵で傷んでいたため、近頃になって御取壊しになったそうです。

【寿量院様、御隠居屋の事】
一 義論様の御袋様は北古九兵衛殿の御息女です。義論様が御逝行された時に剃髪なさり、寿量院様と称されました。坊長屋を御駕籠屋の方へ移し、その跡を御隠居屋に建て御移りになられたそうです。御玄関は、奥の御末の玄関の向いとなっています。

【常穏院様、御隠居屋敷と馬場の事】
一 御屋敷裏の石間の御菜園場は、以前から下田覚座衛門殿の屋敷でした。享保3年に常穏院様(南部大膳太夫重信様の娘御で、後におけい様となられる。八戸利戡様の奥様で、利戡様が御逝行の際御剃髪)の御隠居屋敷を調えました。翌年御移りになりましたが、同年10月に亡くなられてから建物は取り壊されたそうです。
 前々から御馬の稽古は、御鑓の間の玄関前から厩の前までを馬場としてそこで行われていました。御台所の脇、違板塀の左に御馬をご覧になる御仮屋がありましたが、信有様の時代に石間の御屋敷跡へ新しい馬場が整備されたそうです。

【直栄様・義長様御代の御下屋敷】
一 直栄様の時代以前から、御下屋敷は下小路丁(入り口の右側)にありました。寛文11年に、御用地に御取り上げされた代地として、新城舘の下の表口が103間・幅62間の土地を与えられました。義長様の時代である延宝6年、下屋敷に八幡宮を勧請なさったそうです。
一 義長様の御代の元禄11年(当宝暦13年から66年前)、御下屋敷の御用地が御取り上げとなり、代地として天神下鼻子を遣わされました。この時、元御下屋敷にあった八幡宮を当て、御下屋敷の御山へ御引渡しになったそうです。この屋敷の御普請始めに御山に植林しました。木を片手に2、3本持っても手が疲れない小さい木でしたが、数年の間に段々成木となり、延享年中には御屋敷の御作事でこれらの木も多数用いられるようになりました。

【御上屋敷焼失の事】
一 延享元甲子年の8月23日卯の下刻(※午前7時半頃)に、数寄屋御蔵前の番屋から出火しました。西寄りの風が激しく御成座敷へ吹き付け、火勢も強く表奥の御屋体は残らず焼失してしまいました。御長屋も隅の二階から上下の御門、御目付長屋まで、御台所・御駕籠部屋・奥御役人長屋も午の中刻までの間に焼き尽くされてしまいました。この後東風に変わり、焼け跡に吹き返しましたが下火になった方へ吹いたため、楢山殿の御屋敷へも、さらにはご近所の御屋体へも火埃が飛び散りました。危険に見えましたが類焼には至らず、屋敷、御数寄屋蔵・御武具蔵・御納戸蔵・御風呂長屋の破損、長屋・御馬屋・春木小屋から手明長屋までは不思議なことに焼けずに残ったのでした。
 当家は盛岡御城下で御新丸の御屋体に引き続く重臣の大家です。類焼とは違い、不意の出火でした。御屋敷に詰めていた人数で消し留めようと思いましたが、大河の洪水を手で止めようとするが如く、勢いづいた大火を消せる様子はありませんでした。平日から御近所で出火を想定しての訓練で仰せつけられていたのは、主な物品を持ち出すよりもまず御前様方々の避難を一刻も早くとされていました。ああ非常に惜しくはありますが、御本屋御用に置かれている諸道具や牡丹の間・御納戸にある義長様時代に御求めになった和漢の儒書・軍書、将軍家の御記録・諸家の雑書、その他色々な板行書本が入った数十の御箱は出す間もなくことごとく焼失してしまいました。火事前に、武備誌という大部の軍書は余所へ貸出し中で、通鑑網目という大部の儒書は御次衆へ下されていたため、この二つの書物は火災を逃れて残っております。焼失した御道具・御書籍は、ぜひともと御求めになった物ではないため致し方ないところではあります。御用入りであれば、器物の物柄や書籍などは以前の物より粗末であっても代金を遣わせて御求めになるでしょうから、気が楽ではあります。義長様が御生存中に御手に取られた御書物と、左近直政様が植えられ御形見として残る庭木の古木は、万金を以てしても御求めできない物です。
 上記の通りのおびただしい損失は言葉を失うほどの不幸でした。その中で幸いだったことが5つあります。
 第1に、不慮の出火ではありましたが、御前様は恙なく御下屋敷へ御立ち退きになられ、御屋敷に詰めている諸士や女中、下々の男女に至るまで焼死人や傷を負うものは1人もいなかったことです。
 第2に、数万両の御金でも御求め難い、御当家随一の御宝物である御什代の御太刀が入った箱についてです。これは以前から御居間脇の納戸へ置かれており、かねてから仰せつけられていた訓練時の優先順位に違反し救出に来る人がいなかったため、御勝手方の是河助右衛門と御納戸方の末崎歌見が火埃の中へ飛び込み、ようやっと太刀箱を担ぎ出して無事でした。
 第3は御納戸蔵・御武具へ火が燃え移らなかったことです。牛車に積んで引っ張るほどの御金でも求めることができない御家の系図、御先祖様方から頂戴した綸旨・口宣・御教書・補任状並びに数十通の御文証、御軍用の御武具などは焼失することはありませんでした。
 第4に近所への類焼がなかったことです。もし隣家に延焼していれば、御新宅の作事の間2、3年は仮小屋同然の所にお住まいにならなければないことは言うに及びません。例え、御屋体が半分焼け残っても早速修復ということにはならず、御当家ばかりが作事するというのも異常、気の毒であります。それだけでなく、八戸殿が火元で当家に類焼して大いに迷惑を被ったとその家が申し伝えれば、永く火元として御名が残ってしまいます。他に類焼しなかったことは不幸中の幸いの一つとして挙げられるでしょう。
 第5に、出火が夜更けではなかったことです。もしこれが夜中であれば、御屋敷に詰めていた人は貴賎を問わず焼死人も半死半生の傷を負う者も数多く出るところでした。昼の火事であったためいずれも無事でした。
 おおよそ天地の間に生きる万物は、みな始まりと終わりがあり、限りがないということはありません。勢州の両宮・諸国の神社・仏閣も内裏も将軍の御殿も有限です。況や卑しい家柄をや。此度の御家焼失もその通り終わりの時が到来したという時運であり、あながち悔やむことでもないのかもしれません。しかし、こうして上記の5つの御大幸を得たのは偏に御屋敷鎮守の御稲荷様、遠野の諸神諸仏の加護、冥力です。憚りながら、御信仰への御厚志に怠りが無いことを願うのみです。
一 出火の始まりは風が激しかったことだけではなく、地をすり付けるように吹いていたため煙も火先も一向に見えなかったことが原因でした。御屋敷でも余所での出火かと疑っている間に大火となってしまったのです。御火消衆・御役人衆・御町人足らが火勢盛んな所へ走り着くも、火を防ぐ手立てはなく、いずれも見ているだけとなってしまいました。午の刻に自然と火は鎮まり下火となって、御町人足が焼け炭に水を汲み掛け続けましたがなかなか消し終わらず、焼けた御長屋跡の前に鹿料板を立て並べて、表から見入られないように囲い表小路の掃除までは申の刻には済ませたそうです。
一 火が鎮まった後、信彦様は御差し控え(※蟄居)の件を太守様に申し上げようとしましたが、殿様は江戸に御成りになられていたため江戸へ直接申し上げるべく、御家老衆から御挨拶に伺わせることにしました。江戸からの御返事がない間は、御下屋敷の御門並びに遠野城御門々などの小門は、人ひとりが往来できる程度に寄せて(※開けて)おきました。9月中旬、江戸から御差し控御免の御挨拶があったことが御家老中から仰せ渡され、信彦様は御風呂屋へ御移り、奥様は遠野の御城へ御引越になりました。

【上屋敷御作事御普請の事】
御作事御普請
一 お差し控御免を仰せ渡され、表の御長屋・仮御台所の御作事、御普請を御取付けになられました。冬も近い時節のため随分急ぎとなる御作事ではありますが、盛岡の大工は1人も雇わず、遠野在住の惣大工を残らず詰めさせ昼夜細工して仮御台所、御屋敷上下の御門を霜月中旬までには完成させました。
一 延享2丑年、御本屋の内奥通りは残らず御料理の間・御用の間・御居間・御納戸・御次・御配膳の間・御廣座敷・雁の間・台子の間・靱の間・御茶の間・御用の間・御小姓部屋は、御作事が霜月下旬に済み、奥様(野田源五座衛門様の御娘)が遠野から御帰りになり、同月晦日に御移りになられました。
一 寛延2巳年、表書院・小書院の石炉の間・桐の間・使者の間・花頭の間・色紙の間・御式台・御鑓の間の御作事は、2月から9月上旬までに済ませ、同月5日に引き移られました。
一 宝暦4戌年、御成書院・鍍(くさり)の間・菊の間の御作事は8月中に済まされました。
 上記の3度の御作事は、表奥の御座敷も残らず以前の御家と比べて不足なく済んだそうです。ただし牡丹の間はありませんが、今度の御作事以前には設けていなかった花頭の間・色紙の間という2間の御座敷ができたため、牡丹の間ほど結構な部屋ではありませんが御客対応は可能で、御座敷の数に不足はありません。
 南部26代の太守・大膳太夫信直様の御代である天正年中に、御一族の九戸殿が謀叛した時、御当家18代薩摩守政栄様は信直様の御一味に付かれました。三戸から八戸への急な御相談事が遅れないようこの騒乱が鎮まるまで、政栄様を三戸御城に差し置きたいと強く御頼みになられたのです。御城下の御仮屋の普請も全て信直様がお進めになりました。その例により信濃守利直様の時代は、盛岡城へ御引き移る際左近直政様にも御屋敷を割り出し、御作事も利直様によって建設が進められたそうです。
 その後の直栄様・義長様御両代の御作事は、利戡様時代の表御長屋の御修理、奥通りの御修理、常穏院様御隠居屋の御作事に入用の諸材木は、その都度御願いして殿様からいただいておりました。そのため今度の御作事用にも御願いしましたが、御差支えの儀があるということで材木がいただけませんでした。志和佐比内村や遠野の御山から諸材木を切り出して川に流し、盛岡まで引き運んで不足分の材木を調えたのです。以前の御作事に使用した諸材木のような良材ではありませんが、御当家御屋敷の普請は残らず済み、以前と異なるのは御台所の本御作事がまだ残っているということです。

 

カテゴリー 口語訳遠野古事記