mark 【口語訳遠野古事記】遠野町、荷役銭取立ての事

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一、遠野町に入ってくる商い荷物から町で荷振り銭(※商人が自他領から来る商人の物資にかけた税金)を取り立て、七月・十二月の湯屋の修繕用に木戸銭(※市への入場税)を徴収し、十二月の市日に荷の十分の一の荷役銭を取り上げる慣習は、遠野の先領主阿曽沼下野権守殿の時代、建武元年の秋から始まり、今もって断絶することなく続いてきました。 (建武元年より宝暦十三年まで四三〇年です)このほかに遠野の町で荷役銭を取り立てる事はありませんでしたが、宝永年中に盛岡の御町人が、正月朔日から11月晦日限り入ってくる荷物の荷役銭を取り立てる許可を運上金(※荷役銭を徴収するための税)を払うことを条件に御勘定所へ願い上げ始めたそうです。その後、出る荷物の荷役銭取り立ての運上金も願う人が出て取り立てました。近頃に至って入役出役共に合わせて徴収をお願いするようになりました。

【子踊・獅子踊・けんばい踊等の事】
一、老人の昔話に、我らが年若い頃、自他領共に子踊りと称して十二、三歳の子供が十四、五人で笠・扇子・綾織竹(※赤、青の紙を細かく切り、竹に螺旋状に巻いて貼り、両端に色紙の房をつけたもの)・作り花などを持って流行り小唄を笛・太鼓・小鼓で囃す踊りが大変流行り、遠野でも御家中在町共に踊ったそうです。その踊りは楽屋から出る時、踊り子の前後に年若い男が作り髭をして異様ないでたちになり、先に立つ人が「さあさあふくろう踊りが始まるぞ始まるぞ」と声高らかに言いながら登場し、後の人はそれに乗り付け「おっほおっほおっほ」と出てきました。あるいは「狐踊りが始まるぞ始まるぞ」と出てくれば、後の人は「こんこん、くわいくわい」と尻尾を振りおかしげな面構えで登場すると見物人が笑いどよめくのでした。今の世の扮戯踊り(カブキオドリ ※仮装して粋がること)などと並べると誰も見る人はいないでしょうが、この時代、これより面白い見物は世の中にはないだろうと、老若男女は踊りの場に押し合いへし合いし、あぶれた人々は木の枝や家屋の棟に登ってで見物したそうです。
 そのころ盛岡屋敷で藩主様が御成りの時、おもてなしとして遠野の御家中在町から上手いと評判の踊り子と拍子方(※ハヤシカタ)の人達を呼びお見せすると、盛岡の踊り子より上手で面白いと御思いになられたので格別にご褒美をくだされたそうです。その後も藩主様の御所望があって遠野から盛岡にお呼びになり御城へ伺わせたそうだ、と私が幼い頃に聞きました。
 それから時代が移り、太守行信様は歌舞伎がお好きだったので、今村権六という歌舞伎役者へ八幡丁に屋敷を与え、常設の芝居をお許しになったので江戸ならびに他領から役者を召し集め毎日狂言尽くしでありました。それを見習い盛岡・遠野の御家中の年若の衆は歌舞伎を始めて以来、御家中の子踊りを止めたため自然と在町でもやらなくなっていきました。村々では獅子踊り・けんばい踊り(※念仏踊りの一種)は今を以って絶えることはありませんでした。この踊りも古くからこの地にあったものではありません。何十年も前のことでありましょうか、駒木村海上の覚助という者が熊野参詣に上った時、京都の町角で獅子踊りが行われており大勢の群集が行きがかりに見物していました。面白く思った覚助は、その踊りを習って国元に帰り、村の若者たちに教えて七月の盆中、休日の慰みに踊ったのを、他村の者たちも見習い聞き習ったと伝えられています。当世の心で考えれば、京都の人がこのような踊りをするとは思えず、これは洛外の山家に住む若者たちか、丹波辺りの者達が鹿が数多く集まって遊び戯れているのを見て踊りを作り、鹿の頭も形も異国の獅子のように飾り頭に角を付けて鹿の証とし、洛中へ出て踊っていたのではないだろうかと思います。洛中の人々は、最も静かで温和な管絃の音曲舞楽などばかり見慣れ聞き慣れていたので、音が騒がしく卑しい農民の踊りは見聞きしないものでした。そのためあの場で行きがかった京都の人も旅人も段々集まって見物する様子を、覚助は京都で流行している踊りだと思って遠野へ土産にと習ってきたのでしょう。けんばい踊りは元禄の初め頃、気仙で流行っていたのを細越村・佐比内村の若者たちが習って踊り始めたそうです。

【遠野にて囃子の寄会の事】
一、遠野での囃子の寄合は古くからあったものではありません。天和・貞享年中の公方様(綱吉公)は御能がお好きで、自ら仕手役(シテヤク ※能楽における主役)をなされ、諸大名たちにも見るように仰せつけました。古今共に上を学ぶ下の風儀は世の中の常なので、諸家でも御家中の諸士は四座の能役者から稽古をつけてもらうよう仰せつけられ、舞・拍子方の内、御自分がお好きな方をされる方もいました。江戸のお城において、御能を催す時は御老中・御側用人を始め、諸大名衆は得意な能の役を仰せつけられ御舞台へ上がり演じていたそうです。その頃の御番付に(※南部の藩主様の)御名前があります。この時代、南部の太守信濃守行信様が御新丸に御舞台を建て置かれ、度々御能を催されましたので、此方様(義論様の御代)も御自分の御囃子稽古の相手に、御次衆へ御能役者から稽古を習うよう仰せ付けました。その他好きで自分から稽古する人もあったそうです。遠野でも囃子が流行り、利戡様・信有様御両代共にお好きであったため、段々稽古の笛・鼓・謡の声があちこちから聞こえるようになりました。しかし、当時の太守である利雄様(※トシカズサマ)の御代の始めには度々御能の御興行をなされましたが、その後お止めになり、御舞台の破損部分も修復されることはありませんでした。春日の御能舞台も御壊しになったので、盛岡も遠野も囃子の寄会が絶えていたところ、近年になって太守様が御能を再興し、また江戸において若殿様が御能を御興行され、当家でも御子様による舞いの稽古の御寄会が度々行われたので、盛岡・遠野共に囃子が再び賑やかに聞こえるようになりました。
 この囃子の話をしているうちにふと昔のことを思い出したので語りましょう。元禄十三、四年の頃、当家に親しく御出入りする能役者が御屋敷へ参られ、当番の家老衆へ次のように申し出ました。御能の地謡が段々老年になって役を務めかねる者もいて、人数が不足しているので、御城下は言うに及ばず、村々の御前様は遠野や横田の年若い御給人を呼び声色を吟味するよう仰せつけられました。その為当家御家中の若者の中に高吟の者がいるかもしれないので、呼び上げて吟味いたしましょう、と。御家老衆は武芸の御用などとは違い、趣味事の御用を表立って仰せになるのは何事かと思いましたが、能役者である私が考えるように話せと御内々の御意を承ってこちらへ参りましたと言われました。御家老衆はその返事として承知しましたが、当家中にはかねてより謡を稽古した者が二、三人しかおらず、その他の者は不得意であるため役に立つ者はいません、と言うと、謡が苦手でも小唄で声色さえよければ吟味できる旨が書かれた書状が来たため遠野へ申し伝え、それを囃子方の心得がある者達に仰せ付け、御城で御家中の若者の声色を聞き、その良し悪しを御家老衆へ申し上げ、盛岡へ遣わされたのは次の者達です。

  中居林藤八(二代目の茂太夫粂助の祖父)
  中舘忠次郎(後に福田小座衛門と称す。当小左衛門の父)

この両人は義論様の時代から御囃子相手の謡稽古を務めていました。

  小笠原八助(後に権右衛門と称す。甚作の父)

これはさして稽古をしていませんでしたが、囃子の寄会の時に地謡の声次をしておりました。

菊池忠三郎(後に五郎右衛門と称す。円太夫の祖父)
男沢三八(後に 半右衛門と称す。石左衛門の父)
水越喜太夫(後に小沼八郎兵衛と称す。仁右衛門の父)

この三人の謡は稽古をしていませんが高吟であるので人数に加えました。

 以上六人が盛岡へ参り、先だって太守様の御内意を申した人(※能役者)にこの旨が知らされました。翌日、舞台に呼び上げ地謡衆立会いのもと一人一人の声色を聞き届け、藤八の石高を尋ねると、百石と答えたところ、いずれも声色はわかったので先に御屋敷へ帰るようにと申されました。帰って二、三日後に例の能役者が参り、先日御舞台へ呼び上げました皆さんはいずれも本所である遠野へ返すようにと御前は御内々に仰せられましたと、御家老衆に伝えられたので遠野へ帰したそうです。

【遠野にてあやつり・かぶき見物芝居立の事】
一、遠野であやつり(※操芝居。三味線に併せて操り人形を演技させる浄瑠璃)・かぶきを見物する芝居が始まったのは延宝年中の頃でしょうか。江戸のあやつり太夫である虎屋永閑を、太守様は御子様に御見物させるために度々御屋敷へお呼びになっていました。また、隼人正様(行信様の御嫡子)は御幼年ゆえ御慰みにあやつりをなさりたいとお思いになり、御相手に御家中衆を永閑座の役者たちと人形の稽古をするよう仰せつけられました。そんなことから永閑は、御屋敷へ気安く御出入りするようになったことで御役人にこう願い上げました。御領内の南部へ下り、御国の御子様方に人形の芸事を御目にかけたく思っております。そのついでに御領分を廻って芝居を立てたいとの申し出でした。その願い通りお許しになられたので永閑は南部へ下り御領内のいたるところで芝居を立て、その時遠野でも三日間芝居を許されましたが、二月初めの事だったので野間は深雪が未だに消えず、芝居をする場所がないことから、新町の検断太左衛門宅の裏と左右隣りの屋敷裏に芝居を構え、あやつりを演じました。伊勢・熊野へ参詣に上り、江戸・京で見物した人以外は初めて見る芝居であったので大勢の人が集まりましたが、三日間喧嘩・火事といったこともなく無事終えたそうです。そう老人から聞きましたが今の時代で考えると、例え太守様から場所の御指図があったとしても家の建てこむ町屋敷の裏に芝居を立てるようお請けすることはないように思いますが、古今の風俗とは大いに変わったものです。
○天和年中以前の頃でしょうか。篠塚半兵衛というかぶき役者が中伴を四、五人召し連れて遠野へやってきました。その頃義長様御夫婦が遠野へ御成りになっていて、東善寺へその役者をお呼びになり奥様がご覧になったので御家中の高知行の御役人の妻子も見物を仰せつけられ、私の母も幼い時に参ったそうです。役者は少人数だったので実方・悪方・女方・丹前方・どうけ方を一人で二役、三役も演じました。その日の狂言は小栗(※常陸の小栗判官助重とその妻照手姫の伝説を脚色した浄瑠璃)でした。照手姫が引く小栗の餓鬼は枕に腰結い綱に付けて引いていました。これは、今のかぶきを見ている目には中々見られないものでしょうが、初めて見ることですから老長の女中たちも面白い見物だといずれも褒め称えていたそうです。当日かぶきを見なかった御家中や町の人々はその評判を聞き及び、見物したいと願い上げると二、三日許され、狂言尽くしで過ごしました。その役者がどこから来たのかということも芝居の場所も、幼かったため知らないと母は語っています。
 その後、遠野にあやつり・かぶきの芝居は絶えてしまいましたが、元禄末の八幡御祭礼の時、盛岡のかぶき権六座の役者たちが来て芝居を立てました。その次にあやつり四郎兵衛座の役者も八幡宮で芝居を立て、その他他領の役者が来たこともあり芝居は絶えることがありませんでした。

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