mark 【口語訳遠野古事記】大慈寺法事の事

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○元禄十年前後までは、大慈寺での御法事や御家中の法事共に諸宗三十五日の法事にも酒を出していました。とりわけ父母の三十三回忌の法事には、導師の和尚が帰られてからも親戚を留めおき、焼香を済ませて位牌を寺へ送り、仏参りをした後、親類を我が家へ伴って帰りました。吊し上げ(※トムライアゲ 「吊」は「弔」の俗字。三十三回忌の事)の祝儀と言って魚物の吸い物・肴物を出し、小唄や三味線で乱舞する酒宴を行っていました。元禄の中頃、曹洞宗の惣録(※曹洞宗の最上位にある者)から一宗の寺院へ酒禁制の掟が申し渡され、門外の柱へ「葷酒(※クンシュ においの強い野菜と酒)門内へ入るべからず」と書いた板札を打ち付けてからは、檀家の法事に酒が出ることはありませんでした。三十三回忌の酒宴も取りやめになり、他宗の法事は前々と変わらず酒は出ますが三十三回忌を祝う酒宴はなくなったと聞きます。この通り、古今の風俗は大いに変わりました。

 

【菓子、菓子屋の事】

○八十年ほど前(※元禄の始め頃)までは、盛岡にも菓子屋はありませんでした。義長様御代の末頃まで御屋敷での御饗応の時、お客衆がお座りになられると御手懸け菓子(※おつまみ用の菓子)と称して高腰の菓子盆へ御手前で作った煎餅か、或いは糯米に小粒の黒豆を混ぜて炒ったものを盛るか、或いは季節に合った木の実などを御出ししていました。御膳後、お客の自宅へのお土産である銘々菓子は、おさすり・吹たおれ餅・とりくるみ餅・割くるみ・栗・ハシバミなどを盛りあわせたものでした。御次の間のお客へはきんとん・火打袋・ひらたなどを出されました。

  (おさすりというのは今の柏餅である。吹たおれというのは餅を卵型にして炒り大  豆の粉を表に包んだものである。とりくるみ餅とは卵型の餅にこしあんを表に塗り付けたもの。火打袋とは大団子の中に小豆を入れ、表面にも小豆を包んだもの。ひらたとは火打袋を押し伸ばしたものをいう。いずれも八戸のお菓子である。当世の菓子に比べれば質は粗末だが、その時代は大白砂糖百匁(※約375g)入った曲げ物が七、八十文(※2500~3000円)程で調えたので、お菓子の味は今の菓子屋の蒸し菓子よりも旨かったといいます。)

 義長様の時代、常々気安く出入りしていたお客がふとお出でになった時、義長様は御下戸であられたため、御高知衆へも麦粉・そば粉の串焼き餅に砂糖味噌をたくさん入れて御出しになられたそうです。貞享の初め頃、京都から笹屋という菓子屋が盛岡へ下り、京町で干菓子・蒸し菓子を作って売っておりました。上干菓子の袋へは落雁・松風・巻煎餅などを入れ、中・下級の袋にはそれらを入れませんでした。蒸し菓子も饅頭・羊羹・鯨餅・雪餅の他はなかったので、当家の御屋敷にて振舞った御馳走、お菓子も利戡様の御代まではこれら以外ありませんでした。その後段々菓子屋の数も出てきましたが、享保年中、六日町に菊屋という京都下りの菓子屋が来て、干菓子・蒸し菓子共に色々見事な手際で菓子を作り出したのです。菓子屋がない時代には常設のけんとん屋(※立ち食いそば屋のようなもの)もなかったため、お振舞の軽食や昼食には切麦・そば切を自分が抱えている御料理衆が作っていましたが、そば切は引抜粉のない時期だったので、色も黒くて出来もよくありませんでした。太守様の御成り、或いは重客等へは薯蕷麺を御出しし、御次のお客へは切麦・そば切・そくしん・うきうきをお進めしたのです。

  (そくしんというものは小さい団子の真ん中を指で少し窪めて小豆を入れたものをいう。今の世では啜り団子と称す。直栄様の御息女様がご幼少であられ、呂律が御廻りかねていた頃、「そくしんこ」と仰せられていたのを女中衆が愛らしく思い、いずれもそくしんと唱えていた言葉が御家中に流布して、盛岡御屋敷・遠野共に皆そくしんと唱えてきたのである。うきうきとは、そくしんを味噌汁へ入れ煮たものをいう。今はそくしんをうきうきと称している。)

 盛岡さえこの通りだったので、なおさら遠野は昔から菓子屋はありませんでしたが、どこから習ったのか、元禄の中頃から色が黒く皺びた饅頭・雪餅・かま焼などの振り売り菓子を重箱へ入れて町の子供たちに呼び回っていました。その後、あげ焼と称して甲(※カブト)の鉢形・七宝形の鎔鋳で焼いた菓子も売っておりました。また、岩谷堂町で作った「でんちゅうおこし」と称す四角い切おこしの縁へ、覆輪鍔のように大豆おこしを薄く巻いたものを仕入れていましたが、遠野で実際に菓子を作っている者はいなかったそうです。

 

【切おこし・挽割・せんべい】

○切おこしも他の地から仕入れていたところ、元禄の中頃、穀町の源右衛門という者が始めて作って売り始めました。自他領の旅人が自宅への土産に買い求めたので、遠野のおこし屋源右衛門と名を広め、この商売によって財を成したそうです。それから段々菓子を作って売る者が多く出てきました。

○挽割米のおこしを御家中では八戸にいた先祖から伝えられたので、身分の高い者は、正月に礼者への銘々菓子に、挽割米を鍋で炒り、飴と練り合わせ、三角形にして厚さを二、三分(※約1cm)程に切った物を「駒の膝」と称し出していました。その後、型へ盛ったおこしも作りましたが、これは売り物ではありませんでした。享保の初めから、六日町の八兵衛という者が柏葉をかたどった菓子を売り始め、自他領へ大いに売りさばいたため世間でも段々と自分で菓子を作って売る者が多く出てきたそうです。

○煎餅も遠野において売物ではなく、御家中では八戸にいた先祖から伝えられてきました。年始の礼者へ出す煎餅は自分で作り、身分の低い者は盛岡で調達していましたが、享保年中からは遠野でも売り煎餅をする者は所々にいます。

 

【年始、礼者へ出す菓子】

○昔は、年始に諸士の礼者へ出す菓子は煎餅・おこし・粉取大豆・干し栗・豆柿・切昆布を、腰高の菓子盆へ盛り交ぜて置き、在所から来る礼者へはこれらの菓子を一人一人に出していました。端午の節句に粽を作らない家では、煎餅・ほど・薯蕷・切こんぶを交ぜて出していました。法事菓子は煎餅・おこし・きんとん・ひらた・雪餅油揚げ・ハシバミ・豆柿などを盛り交ぜて出し、その後、あん餅・けんひ餅などを稀に出す家もありましたが、蒸し菓子は一向にありませんでした。盛岡の菓子屋の菓子作りに見習い、蒸し菓子も段々と作りだしましたが、今世のように見事な形の菓子はありませんでした。宝永年中の頃まで御家中から町方への進め物に遣わせた菓子は、赤飯か火打袋をしげ盆という器物へ入れて渡したといいます。しげ盆というのは飯次(※飯鉢)より大きく行器(※ホッカイ 弁当箱の一種)の足が無い物です。それを紅染の戻子袋(※モジブクロ 麻糸で荒く織った袋)か、麻の染糸を投網のように丸く敷いた網の口にかがりを付け緒を引き通したもの、或いは絹以上の小切れ物を色々集めて縫い合わせたものを表にし、裏は絹の無地の物を縫い付け袋の口へかがりをつけて緒を引き通したものを小袋と称し、しげ盆を包みました。その頃まで遠野では、今のように木綿の染風呂敷を使う人は稀にいましたが、今はしげ盆を用いず重菓子になり、召使の下人、村々の人達まで唐風呂敷を待たない人はいません。これによって昔の表包袋は捨てられ、世間の風俗は大いに変化しました。

 

【豆腐屋・ところてん・常けんとん屋・きたひそば粉】

○元禄の末までは豆腐屋は三、四軒あり、いずれも当世に比べて堅い豆腐でしたが、その中に新町の代太と一日市町十文字の丹波の豆腐はよいと御城下の人々が争って買い求めていました。

○前々からところてんは売り物としてなかったので、盆前の市に浜辺から天草を売りに来た物を自ら煎じて施餓鬼会(※セガキエ お盆の法要の一つ)用にところてんを作りましたが、色は赤黒く堅いのを包丁で切っていました。元禄年中、一日市町へ他領から来た者は暑気の時期に、白く柔らかいところてんを切麦のように突出し、摺り味噌をかがせて皿、茶碗、箸をも天秤に乗せ、市日は言うに及ばず毎日御城下を呼び回っていたのを人々が珍しがって買い求めたので、もってのほか売れたといいます。その者が病死して以降しばらくそれは途絶えていました。享保の中頃、新町上横丁の橋際にいた弥七が、表の小店を茶屋構えにして突出しの白ところてんを往来の旅人に売り始め、市日には振り売りに出してよく売りさばきました。それを見習って店脇にもところてんを売る者が出てきました。

○前々から盆前には売り素麺を作った者がおりましたが、常設のけんとん屋がなかった所に、享保の中頃新町の弥七が初めて切麦・そば切の売りけんとんを、四季に渡って客の希望に沿うよう滞りなく売りました。売れ行きが良いのを見て、段々と常設のけんとん屋が出てきました。

○挽抜のきたひそば粉(※混じり気のない上質な乾燥蕎麦)は、元禄年中に遠野の一日市町に大師田の仁左衛門という町人がいて、商いを生業とせず田地を多く持ち専ら農業をしていました。そば切が好物だったので、寒漬の蕎と挽抜の精粉を作り、それが段々と世へ広がりました。それ以前は末秋から三月までの食物で、四、五月以降は細そば切にはならない物と考え、太はっとう(※そば粉をこねて切り餅の大きさに切り茹でたもの)ばかり作っていたので、なおさら冷蕎は一向にありませんでした。

 

【酒屋・質屋・鋳匠・薬種・紺屋・紙・瓦・旅人昼支度】

一、元禄十年の頃まで、酒屋は一年の造酒御礼金箒(※酒醸造を許可されたことに対する御礼金。「箒」は酒屋を意味する)を、上箒は五両、下箒は二歩ずつ盛岡の御勘定所に納めていました。上箒は一日市町又助(今の作右衛門酒店)のみで、そのほかはみんな下級の箒でありました。酒の値段は大体、並酒一盃六、七文、諸白(※モロハク 現在の清酒に近い酒)は十文前後で売っていたところに、元禄十年江戸、幕府から諸国の酒屋へ五割増しの御役銭を仰せつけられたのです。御料(※幕府の直轄地、御領)は幕府、大名領は御領主の収入になるため、遠野酒屋から上納する御役銭は毎月御町奉行の自宅に酒屋が持参し、売り立ての勘定と支出の目録を添えて盛岡御勘定所に差し上げていました。その頃の酒の値段は、十七・八文、諸白は二十文前後で売っていました。正徳年中に至ってこの御役銭は免除され、値段も下値で売っていたところ、近年、御領内全ての酒屋へ一軒につき一年の造酒高を三百石ずつとするお定めが、御勘定所から仰せ渡されました。この御礼金銭も上納していたので、酒の値段は以前よりも高くなったのです。

 

一、前々から遠野に質屋は一軒もなく、元禄の末に至って一日市町の善十郎が初めて質屋経営を仰せつけられ、その後だんだんと経営を願い出る人がいて数軒あります。

 

一、前々から遠野には鍋や釜などの鋳匠(※イモジ)がいなかったのですが、元禄の中頃、新町の四郎左衛門が、橋野(※大槌通橋野村)の鉄山の経営許可を願い上げ、鉄を掘って切子(※鉄の材料か)で商売をしていました。また、他所から鋳匠を呼んで抱え置き、住宅の裏へどう屋(※鋳物工場)を建てて色々な鋳物を鋳造して売りました。これが遠野での鋳物屋の始まりです。

 

一、以前は当地に薬種店(※漢方の原料を調剤して売る店)はなく、医者衆は盛岡や仙台、或いは船便で上方から買い下して使用していました。元禄の中頃、新町四郎左衛門が一日市町に薬種店を出して売っていました。これが遠野での薬屋の始まりです。

 

一、宝永年中まで紺屋(※染物屋)は一日市町の市兵衛・新町上横丁の市十郎・六日町の角右衛門・御同心の筋兵衛の四軒以外なく、いずれも手際があまりよくなかったため、御家中では盛岡へ遣いを出して染めていました。その後、段々在町に数軒出始め、とりわけ近年は盛岡にも手際の劣らない紺屋となったのです。

 

一、元禄の初め頃、御抱えの紙漉き職人与右衛門という老人がおりました。御用の間での御証文紙などの漉き返し紙(※古い和紙を漉き直した中古の紙)は作っていましたが、商売用の紙は漉いていなかったため仙台領から東山紙がたくさん入ってきました。丈幅が広く、当世の白石中大芳(※仙台領白石城下の和紙)ほどの紙が一束七十文くらいで買うことができ、白石大芳も稀には来ましたが、多くは東山紙ばかり用いていました。杉原紙は遠野へは入ってこなかったため、どうしても入用の時は盛岡で買い求めたのです。

 

一、前々から当所で瓦を焼く細工人はいませんでしたが、元禄年中に穀町の藤吉が、他所で習ってきた火鉢灯篭などを初めて焼き出し商売をしました。しかし藤吉が病死して以降この細工は絶えました。

 

一、以前から砂場丁へ新町から行く横丁と、本町へ六日町から行き抜く横丁には、蔀(※シトミ 板戸)も違い塀がなく、町の往来に諸士屋敷が見えました。六日町・新町の市日には、諸士屋敷の垣際まで簾囲い(※スガコイ)の仮小屋を懸け、他領他郷から来る旅人へ昼支度の食物・吸い物・酒を売っていましたが、享保年中に停止するようにとの仰せがあり、両所の横丁へ違い塀が建て置かれることになったのです。以来六日町から穀町まで旅人の昼支度をする宿は数軒となりました。

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