mark 【口語訳遠野古事記】御治世久敷打続き、商売物出来候事

Pocket

○元禄六、七年の頃まで、御家中や在町の婦人は、麻布・藤布紬などは自分で作っていましたが、木綿を織る女性はいませんでした。同十年以後からは自分で木綿を織る人が出てきましたが、相変わらず絹糸を取る様子は一向に見受けられなかったので、手先が器用な御家中の婦人が細い麻糸の島袴地へ絹糸を交えて織ったようです。その絹糸は、盛岡へ上方から下された商糸を調えたものですが、高値のため幸便(※コウビン 都合の良い時に人に手紙を託すこと)で福島から買いくだして用いていました。
 江戸から来た御尋ね者の武兵衛・吉兵衛と申す者がおり、武兵衛は綾織村に田地家屋敷を持って百姓に紛れ、吉兵衛は家屋敷を持ち妻子をも越させて住み着いていました。両人はどこへ行くのか、時々家を出て十四、五日から二十日ほど経ってから帰宅するようでした。その時には色々な商物を持参していて、それを安い値段で売り、十年ばかりここへ留まっていました。元禄元年の春、盛岡から御物頭御目付・御徒目付が遣わされ、二人の取り調べが改めてなされました。両人を江戸へ登らせ取り調べたところ、御尋ね者の二人が有罪であることがわかり、南部藩へ引き下して死罪を申しつけられ、妻子はどこへ住もうと構わない旨を言い渡されました。武兵衛・吉兵衛は、盛岡の殺生場において死罪に処されました。吉兵衛の妻子はどこへも立ち退かず、そのまま穀町に住みつづけたそうです。福島の者だったので、絹糸取りもその織り方も知っていたため、御家中の婦人はこれを習い、同八、九年の頃からは遠野でも自家製の絹織が始まりました。糸の取り方は、繭から糸を引き出しながら左右の掌で捻り、太い竹へ巻きつけるようにするのだそうです。享保の中ごろから菊池道仲の内儀(※妻)が仕懸取という手法を始め、以前の取り方よりことのほか捗るようになったので、段々世間へ広まり、近年は御家中や町のいたるところで手前の絹が上手にたくさん出来るようになりました。そのため商売には絹が多く出回ったといいます。
 絹、木綿の汎織物(※ウケオリモノ 浮織物のこと)は、正徳年中に新田藤蔵の内儀が上方で織り出された汎織地の物を解(ほご)したのを見て、綾の掛け方を思案して織り始めたのだそうです。その後、縫い物が得意な女中が針配りを工夫して汎織を発明して紋柄を織り出しましたが、遠野で汎織物を始めたのは新田氏の内儀なのです。

【細物屋の事】
○六十四、五年前まではこの町に細物店(※コマモノヤ 小間物屋に同じ。化粧用品、楊枝といった日用品を扱う店)は一軒もなかったため、筆・墨・扇子・伽羅油・鬠・白粉等は言うに及ばず、櫛、針等も盛岡への幸便を待って買い求めていました。そのため水引などはなく、特別な贈り物などは包みの表結いに「すわら染」の赤紙を細く裁って結いつけていました。通常の贈り物は、白い紙を捻って表包みの上を結い留めたところに紅か黒を少し付けて贈りました。すわら染の紙も一日市町金十郎(後、常宇と称す)の他、ここで売っている者はおりませんでした。元禄の初め、新田殿は贈り物の包みが急遽必要になり、赤紙の調達に人を遣わせた時、金十郎は作業場へ出ていたので家内の者達は紙を置いてある場所がわかりませんでした。その使いの者が帰って間もなく再度来て、どうしても入用だということで金十郎がいる作業場へ人を遣わし、紙がある場所を聞いて売るようにと仰せられたので、自宅から人を向かわせたところに金十郎が帰宅し無事赤紙を売ってくれたという話を私が幼年の頃聞きました。

【木綿売りの事】
○木綿は、他領・他郷の商人たちが市の日には町の真ん中(これ以前は左右の小店前に用水堰がありました)に中店と称し、日除けの仮小屋を懸けて売っておりました。その頃は上染木綿一反の値段が五百文、前後中下の値段もこれに準じ、上々の白木綿は三百六十文位、中の下の値段もこれに準じました。その後、当所の一日市町金十郎・孫兵衛は関東へ上り、木綿を仕入れ毎年買い下して商売をしていたそうです。

【細物店出店の事】
○当所の町に細物店が出始めたのは、元禄十年の頃、仙台から境屋儀兵衛という商人が、新町上横丁の角に屋敷を借宅し、様々な細物・薬種・木綿等の出店を出しました。御家中や町の人々への詰め払い(※まとめ払いか)の貸商も行ったそうです。それゆえ世間からは仙台店と称されことのほか繁盛していましたが、ここ八、九年の間に年々買懸かり(※掛けで品物を買うこと)の代金がかさみ、内々で色々と返済するよう責め立てても代金は返ってきませんでした。また、諸々の商いが手薄になり、店を仕舞い江戸へ上ってこの件を御評定所へ願い上げました。そして公儀御役人様方から返済の御下知の十判(※10人の役人の判子)という御判物を申請し下り、遠野の御町奉行へ差出しました。そして早々に返済するようにと厳しく仰せ渡すと、日数十日ばかりの間に残さず返済されたそうです。その後儀兵衛は本所の仙台へ帰り、借人たちが返済したという公儀への報告を名代として新町の検断理左衛門が江戸に上りました。それ以後盛岡から志田屋又兵衛という者が、一日市町へ細物店を出して商売をしましたが、七、八年ほど留まって本所へ帰ってしまいました。享保年中には又兵衛がいた家へ盛岡美濃屋の出店、新町に盛岡大塚屋の出店、同町上横丁に槌屋という者が木綿細物の店をそれぞれ出したところ、いずれも十年ほどで店を仕舞い、本所へ戻ってしまったのです。しかしその後、新町、六日町に古舘屋の両店が出て、金銭さえあれば様々な買い物が差支えなく出来、用事も済ませられるようになりました。こうして遠野の様子は昔とは大いに変わったのです。

【蝋燭の事】
○売蝋燭も当地には無く、盛岡で調達しておりました。元禄の初め頃、水沢から「あかし懸け久三郎」という者が妻子を召し連れ当所新町へ引っ越してきました。蝋燭を作り、御前がご使用されるのを売ったほか、町の者相手にも商売をしました。その頃仙台領から牛の膏(あぶら)を蝋にして懸けたものを牛燭と称し、一丁を三、四文ほどで売っていた灯りを持ってきて売ったため、もってのほか流行り人々はこれを求めました。本蝋燭は、神前・仏前へのみ用い、牛燭ばかり灯していました。盛岡屋敷御用でもお買い上げになられていましたが、四十年ほど前から御家中・町ともに牛燭を忌み嫌う世の中の風俗に変わり、用いなくなったので仙台領から商売をしに来なくなったのです。
その後、鰯の油を蝋にして魚蝋燭というあかし売りが参上し、当所でも作る者が出始めました。また、脂あかしといって、松脂を蝋燭の形にした灯りも商売に出てきたそうです。
○昔は盛岡でも蝋燭は自由に手に入れられる物ではなかったのでしょう。盛岡御屋敷では御居間にだけ行燈があり、そのほかは割松に火を灯していたので「御松あかし」と称し、十四、五歳の男の子、女の子に取り替えさせていたそうです。割松の御用を勤めた老女の話を私が幼年の頃に聞きました。その頃は魚油も商品にない時代だったので、御前でも御家中でも知行取りは百姓から粒荏(※ツブエ 荏胡麻の一種)を取り上げて灯していましたが、閉伊の筋から商売のあかし松が多くやってきて、一駄の値段が百二三十文ほどだったので粒荏をそちらに売り、その売り上げであかし松を調達し灯したと聞きます。なおさら小身の諸士・御町人共は、夜中の用事には割松ばかり使用していたようです。天和年中の頃より売り物の魚油を浜通りの者が持参し、三十盃入り一樽三百文ほどで取引していましたが、行燈を当てている家は身分が高い人々と町の富裕層より他ありませんでした。その後、鮫腸が出回ったとき、それを自分で煎じて灯していましたが、元禄の中ごろまでも大方の人は松を灯していました。しかし、これまた値段が高くなり、加えて近年に至って魚油の振り売りが五文、三文分でも売ってくれるので御家中御町の小借家の者までみんなこれを灯りにしたそうです。

【御茶の事】
○貞享年中の頃より盛岡で美濃茶の商いが出始めましたが、遠野は前々から人々は仙台領の柳津茶(世間では町中茶という)ばかり飲んでいました。そのお茶の中に真切という青色で葉が細かいものを上茶として、珍しい客への御馳走として出したのだそうです。その頃はどこでも茶の湯が流行り、遠野でも茶会の主催者が毎年宇治より茶壺を買い下して楽しんでいました。その子孫で茶臼・茶壺は今もって持ち伝えている家があります。しかし、朝夕の煎茶は柳津ばかり用いていたため、盛岡土産に美茶を貰っても腹へ障るとして嫌う人が多かったのです。一日市町の金十郎(後に常宇と称す)、六日町の十兵衛(後に兵右衛門と称す)は毎年柳津茶を仕入れ、市にて出店し客の要望に沿って量り売りし、大儲けしたそうです。その後、美濃茶(遠野では久喜長茶という)を五文・十文分の小袋へ入れて振り売りが町々を廻り、希望があれば貸し売りも行ったので人々も徐々に慣れて飲み始めたといいます。近年は村の者まで美濃茶ばかり好み柳津茶を嫌ってきたため、当所に美濃茶を仕入れる商人も出て、柳津茶を置く人はいなくなりました。この頃は一向に柳津茶を商売する人はいないと聞いています。

【饗応款待の事】
一、饗応の款待(※にこやかにもてなすこと)は元禄年中の頃までと当世の様子とでは大いに変化しています。私が若い頃は、御家老衆の御招集や婚姻の御祝儀の振る舞いで、御客が座るとすぐに身分の高い家では長熨斗を出すように、腰高の菓子盆へ焼米か青大豆か栗・榛(はしばみ)・桃・梨の類といったその時の季節に合った物へ切昆布を添えて出し、これらの菓子がない時期は、糯米に小粒の黒豆を混ぜて炒ったものを盛って出しました。これを御手懸菓子(※オテガケガシ 手作りの菓子)と呼んでいます(今もって農村では突然の来客へもありあわせの手懸菓子を出すのは昔の名残です)。次に、煮染めの茶請けと柳津の真切茶を出し、次に二の膳で引菜の料理を出し、飯の後に鰭の吸い物銚子を出しますが肴物は五種類以上出さず、現在のように膳の前後に数々の吸い物・肴物を出しました。特別な御馳走には魚や鳥、精進料理の調菜(※前もって作っておいた惣菜)を共に笋羹(※ジュンカン)と呼んでおり、通常の平器の倍大きい平器へ大筍を輪切りにしてそれ相応の取合わせ物を加えて二の膳に据えて出したそうです。食事中は遠来の珍味か、あるいは旬の時期より早い珍物へ相応の物を取り合わせ、台のある煎盤鍋(※センバンナベ 煮たり炒ったりする平たい器)へ入れ、箸と杓子を台へ載せ亭主が座敷へ持ち出します。そして正客から相伴衆へ一人一人に盛って進めることを鍋物と称しました。末座まで盛り終わらない間は、客衆は箸を持ち直し、主人が台所へ下がってから飯を食べます。そのため寒冷の時期は飯・汁・菜物の冷え塩梅も違い、夏から秋の末までは膳へ蠅が集まり穢らわしくなっていたところ、宝永の始め頃よりこの鍋物はなくなり、その代わりに蓋付き茶碗へ盛り出すのが流行りました。煎盤鍋は物置の隅に隠居して人前には出てこなくなり、油揚げの豆腐料理の時ばかり用いられました。昔、ハレの席へ出て褒め称えられた鍋物がその美名を失ったことを、もし器物に心があればさぞ不本意に蓋碗を羨むとでしょう。笋(※タケノコ)・羹(※アツモノ 肉と野菜を入れて煮た御吸い物)の大平物は私が生まれる以前に廃れていたため、その器物を見て何に用いるのかを知らず、不思議に思って老人に尋ねて知りました。
このほか昔特別な振る舞いに、菜物の組み合わせには鰊(にしん)の昆布巻き・かまぼこ・精進料理に打豆汁・韲交(※アエマゼ 魚介類や野菜を混ぜ合わせて調理したもの)・膾・巾着豆腐を出さなければ疎略の馳走と認識され、全て魚や鳥の料理、精進料理共に、切り塩梅や取り合わせ等が昔とは大いに変わりました。
 天和年中の頃まで財に余裕がある人は、宇治から茶壺を寄合に下し、重客・珍客へは夕飯以降、軽い茶菓子を出し、座に着いている人数を見積もって茶碗一つへ濃茶を調え紫の袱紗を添えて、亭主自身が持ち出し正客へ進めた後亭主は退き、濃茶の席が終わると次は薄茶を銘々茶碗に調えて出していました。その後に濃茶を銘々茶碗へ出すことを各服と称し広まったとの概略を御老人から聞きました。貞享の末頃から遠野で宇治の茶壺を買い求める人はなく、濃茶の馳走は絶えたといいます。
 昔の後段(※軽食)は当世のような挽抜粉(※上等のそば粉)のそば切を知らず、色が黒く見た目もよくなかったので、薯蕷麺(※ジョヨメン)か卵麺を出していました。薯蕷麺とは薯蕷(※山芋)を摺り、粳米粉に水を加えて固めに捏ねて麦そばのように薄くのして切ったものです。卵麺とは、切麦へ鶏卵を盛り混ぜて出したもので、いずれも好みのものを食べたのです。
 後段の膳の後に吸い物一度と肴物三種、銚子を出し、亭主の座敷へ出て酒をすすめ、銚子を入れ酒を進めるも客衆へ袖土産の菓子も出しませんでした。お客は座を立ち帰りますが、これに準ずる普通の席のもてなしの軽さも推察できるでしょう。近世、挽抜粉がきれいであるそば切が出回って以来、後段は多くそのそば切を用いたので薯蕷麺・卵麺は廃り物となりました。この二つを当世の人が見るのは稀なことです。
 元禄年中の頃まで、軽い宴会の御馳走で飾飯という食物が流行していました。御椀へ盛った飯の上へ花鰹・打のり・大根・人参皮懸け(※皮をむかない人参か)・豆腐の皮を千切りにし、青菜・くるみ・陣皮などを盛り(この盛り方に式法の伝えあり)、本膳へもこれらの色数を皿へ盛りました。坪物か、平器物か、香の物で汁なし膳を出し、寒冷の時期は温かいすまし汁を、夏は冷えたすまし汁を、切っ立てという口のある器物へ入れて出しました。お客が飯を食べている間に、引菜の色数は亭主の心次第で出すものでした。昔、客に恥をかかせようとした意地の悪い亭主が、甑(こしき)飾飯として茶碗の底へ柾・竹などを細く削って縦横に格子状に入れ、その上へ飯を盛って出しました。客はそれを知らずに通常の汁かけ飯のように食べると、色々なものを盛った飯が零れ、衣服の襟・袴に落ち散り、座敷を乱して面目を大いに失う迷惑を被っていました。そのため、小笠原流の躾け方に飾飯の食べ方が伝えられています。この振る舞いも段々と廃れ、当世の人で飾飯を知っているのは稀になりました。

カテゴリー 口語訳遠野古事記