mark 【口語訳遠野古事記】義論様御遠行、利戡様御家督相続の事

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 一、義論様が生まれ持った御性格、御容貌は大変優れており、御姿も品があって御愛想もよく、御心は温和で御短慮な方ではありませんでした。御幼少から一生涯、自分の御小姓、御次衆が義論様のご機嫌に障るような粗相をしても、御立腹し打擲なさる(※打ち叩く)ことは一度もなかったそうです。御年の頃より万事大人びておられ、御高知衆、御役人、御諸士衆へ、殿中や通りがけに出会った人々への御挨拶に、飽きる御様子もなく、御成長の行く末は親御様の義長様にも劣られない御器量をお持ちになるだろうと家中を挙げて大いに喜ぶ日々を送りました。

 芸事・御稽古事をされる御年になられると、鑓は法蔵院流(御師匠は大谷作右衛門殿)、兵法は三徳流(御師匠は中居林茂太夫重常)、馬術は一和流(御師匠は佐羽内仁兵衛殿)を怠ることなく修行されました。夜は詩作・漢和御香会を嗜まれ、御囃子の御寄会には御自身が大蔵流の大鞁(※オオツヅミ 大太鼓)を打たれました。このような御趣味が夜更けまで続くこともあり、御稽古が終わってからも表の居間でお眠りになられるため、御屋敷の諸役所も義論様がお床へ入られたことを知らされない間は持ち場に詰め続けました。

 元禄十一年の秋、御家老と御役人の内談で、おけい様は生まれつき気力・体力が弱く御年齢より幼くあらせられるが、来年は十四歳になられるので四、五月の頃に御婚礼の手筈を調えさせるようにと、御祝儀に入用な物の支度を段々申しつけていました。ところが翌十二年二月中旬、義論様は水痘を患われ、一度は御快復なされたものの打ち続き病気に罹られました。針・薬といった御養生をされたのは言うまでもなく、寺社への御祈祷、神社仏閣へ立願・参拝しました。甲州身延山へも御使者(鳥屋部六右衛門)を遣わしましたがその効果もなく、五月二十一日、御年十八歳にして御遠行されました。お袋様はお力を落し御嘆き悲しまれ、家中の諸士はお別れの愁傷のみならず、義論様の御末期に跡継ぎのお願いを太守様に仰せ上げていましたが、後日その御沙汰がどうなるのだろうかと諸士達の心は常闇の物思いに耽る月日を送っておりました。七月十二日、山田大学様(重信様の御舎弟で主水様の御子)の第一子、山田彦市利戡様が当家の御相続を仰せつけられ、こちらの御屋敷へ御引き移りになられたので家中の者は安堵しました。宝永三年四月、江戸において太守備後守様に護持院の火消番を仰せつけられたので、利戡様に兵を召し連れ江戸へ登るように命じられました。お供の騎馬十騎、総人数二百七十人あまりで五月二日盛岡を御出立し、翌年四月中旬まで何事もなく江戸で御勤めになられ、四月下旬、盛岡へお戻りになられたのです。この御勤めにつき、終始生じた御入用金は元禄判三千両ほどお遣いになったとその頃風の便りでお聞きしました。

○利戡様が江戸におられた時は、中屋敷(愛宕の下)の御本屋にお住まいでした。この節、身延山久遠寺の聖人が江戸へお出でになられ、谷中の瑞林寺に一時的に御身を寄せられていたので、利戡様は訪問し、礼儀正しくお会いになったそうです。その後聖人様も利戡様の御屋敷へ御見廻りになられました。御屋敷の御近所にてこれを見聞きした人は、この聖人は御城の御三家様、老中のほかにはどこへも御見舞なさらないが、南部殿の中屋敷へお出でになるとはどういうことだろうと不審に思っていました。その後、こちらへ御見廻りなさるのは身延山開基の大旦那・波木井殿の後胤である八戸勘解由(※利戡様)と申すお方が、護持院火消の御用にてあの屋敷に詰めていたから御見回りなさったと、段々世間に知れ渡り、諸人の疑問は晴れたのでした。

 正徳二年、盛岡御屋敷の奥座敷を御修復する御普請があったので、御夫婦様は遠野へお出でになられました。六月初旬、利戡様は御病気の御養生も叶わず大病になられ、御家を相続する男子様もおられなかったので、御遺跡についての御願い書を太守様に差し上げ、同月二十一日御遠去なされました。以後、常穏院様(奥様の事)からの御内々の御願いによって、南部織部様(重信様の御末子 ※おけい様の弟)の子である善之助様に御当家の相続を仰せられたので、御成長に至って若狭様と御名を改められました。

 享保三年十一月十五日、太守様より、公方様(※八代将軍吉宗)に年始の御祝儀の御名代御使者を仰せられました。極月十三日に盛岡をご出発し、江戸表で首尾よく御勤めになり、翌年の二月中旬に盛岡へ到着されました。

○同五年、盛岡城の御用席に御出座を命じられ(文書に判を押す御加判役としてではない)、登城お勤め中に弥六郎と名を改めるようにと仰せつけられ、御名を改められたのです。同十年、太守修理太夫(※盛岡藩八代利視公)の御代が始まり、御用席の出座を免じられました。

○同二十年五月下旬、御病気により六月四日に御遠去なされました。

 【御治世久敷打続きき、商売物出来候事】

一、直栄様が八戸より御引越されて以後も乱世の遺風は未だ失われず、ことさら遠野は山深き田舎であるため思い上がった贅沢を知らず、無益な物を買い求める人はいないため、現在の様に色々な商売物はありませんでした。平和な治世が久しく続いたので、貴賤を問わず衣食住に無駄な贅沢をすることは言うに及ばず、無くても事欠かない余計な物まで買い求める奢った風俗になったそうです。商売物も色々買い求めるのに不自由ない世と変わりましたが、これによって身分の上下を問わず困窮するようになったのは当然のことでしょう。私が見聞きした遠野の有り様を以下に記します。

○昔、鬠(※モトユイ 髪を結び束ねる糸・紐)や伽羅油がない時代には、布海苔の煎じ、水・児手柏(※コノテガシワ)の葉を水に浸し鬢水として用い、鬠には細い糸を芯にして紙を捻って髪を結ったのです。そして下々の者は藤のつる・あけびつるなどを細く裂いて鬠に用いて、村々の人は藁で髪を束ねました。伽羅は江戸にも正保・慶安の頃から(当年より百二十年ほど前)出始めたのですが、その頃の事か、御当家の当主様が小姓衆への江戸土産に「髪につける伽羅油というものだ」と匂伽羅一曲(※ヒトマゲ 「曲」は伽羅油を入れる容器のこと)が贈られました。幸いその翌日に見物ごとがあったので町方へ招かれたので、これを髪につけて行こうかと思っておりましたが、つけ方を知っている人がいなかったため、前髪を結った鬠のその結び目へ大豆程に丸めてつけ参上したそうです。

 その後、盛岡へ上方から伽羅や鬠が段々売られるようになったものの、売り始めのため値段が高く、勝手不如意の人は欲しくても手に入れかねたため、蝋と松脂に女用のつけ油を加え自分で煉った物を用いていたそうです。遠野でもそれを見聞きして脂伽羅をつけていましたが、脂臭く髪がくっついてしまい、翌朝櫛でけずると髪の毛が抜けてしまうけれども、布海苔水より髪に締まりが出てよいと使っていたと言います。

 元禄の初めの頃から盛岡に現在のように大白伽羅はありませんが、地元の煉り売り伽羅や地元の売り鬠が出てきて値段も安いため、諸士は手煉り・手捻りの伽羅鬠をやめ、盛岡から買い求めるようになったのです。その風俗は段々身分が低い者へも移り、今の五十歳以下の人は、やに伽羅(※脂伽羅)を知らない者もいたでしょう。しかし、女性は伽羅をつけないものといって貴賤ともに蕪の油ばかり用いていましたところ、享保年中の頃より油ばかり付けていては髪に締まりがなく結いにくいとして、下女・端下に至るまで伽羅油を用いる世の中に変わり、女中伽羅として品々の伽羅を煉り出し売っていたため、蝋の消費は昔より多くなり、蝋燭の値段が上がるのはもっともなことです。

○元禄の末頃まで遠野の村々には瓜・藍・煙草などを作って売り出してはいましたが、そのほかの商売用の野菜を作っている者はいませんでした。そのため、夏大根・人参・ごぼう・ねぶか(※ネギの異名)・にんにくなども余所から買い受け商いする以外なかったのですが、近年にいたってはこの地の村々に色々な作物を作り出す者が多くなり、野菜の商いも大分出できました。その頃には八百屋も出始め、急用でも差支えない世の中に変わったのです。

○梨の木は前々から御家中の屋敷にばかりあって町屋敷にはなかったため、御家中より町方へ贈り物として遣わすと珍しがって賞味し、有り難いと厚く礼を申したものです。梨の木を数本所持している諸士に梨を所望する人がいても、売り出すような真似は侍に似合わない賎しいことのように心得ていたので相手にはせず喰い捨てていました。小御扶持人などの中に梨の商売をする人がたまにいても、買った人に他言を制し忍んで売っていましたが、堂々と売ることを恥ずかしく思う昔の風俗は当世とは大きく変わりました。

 宝永年中になって、六日町佐左衛門という者が屋敷裏へ接ぎ木した梨の木を四、五本植えその実を商売に出したところ、その頃は村々から売りに持ってくるのは山梨ばかりだったため、佐左衛門の梨は思いのほか売れたといいます。また、冬囲いを行い、翌年の春に望んで買う者がいるので犬ころし(※梨の品種。大きいもので周囲50cmある)などは一個十文前後の値段で捌けたそうです。そのため佐左衛門が財を成したことを見聞きした町の者も段々接ぎ木した梨を栽培するようになりました。今は売り梨の捌けは以前より鈍くなり値段が安くなったため家計の潤いにもならず、とりわけ町屋敷では野菜が梨の木陰になってよろしくないので、梨が入用になれば買うことにし段々薪にしてしまう者もあるそうです。

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