mark 【口語訳遠野古事記】 義論様無事家督相続の事

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一、義論様は、父上義長様の御忌中を終えると、太守である重信様は、義論様に八戸家(※遠野南部家)の家督を相続させ、名前も弥六郎と改めるよう命じられました。重ね重ね守備がうまく運んだので、家中の者はみな安堵し大いに喜びました。何事もなく幼君義論様が御成長されますようにと朝夕神や仏へ丹精込めて祈願をし、家臣たちはわが身がどんどん年老いていくことを惜しむ心は聊かもなく、年月が早く過ぎて義論様が二十歳になられるのを今か今かと待ちわびておりました。また、義論様のお伝臣(※お守り役)は御養育のあり方については、義長様がご臨終なさる前に書き置かれた御養育の御指図を十分に守るよう勤めておりました。心を尽くす御家老衆や御役人は、今は幼君義論様に代替わりしたときですから、御領内の政事や御屋敷の家風が先代と変わらないよう気を付けておりましたので、昼夜心を落ち着かせる暇もなかったそうです。
 義論様は御幼少であられるため、毎晩お休みになられる時間やお遊びなさる御座敷は、ご機嫌次第で奥の私室であったり表の政務室であったりと定まっておらず、時には四つ時(※午後十時)以降も表におられることもありましたが、御就寝の規則は義長様と同様に決めて、気詰まりになり御病気などにかかられてはと心配していました。義論様御自身、政務の采配を執られるようになるまでは、心のままになさるのが当たり前で、遅い時間に奥へ入られたのです。夜は、お茶の間詰めの御家老や御目付役を始め、諸々の役所はいずれも義論様の御就寝をお待ちになり、勤務を終わらせなかったのでした。規則における先代との違いは、四つ時で政務が終わらないことを除き、その他の御家風は義長様と変わりありませんでした。

【義論様、御預知行差上げの事】

一、義論様がご家督を継いだ年の秋、母方の祖父である北古九兵衛殿がお出でになり奥座敷へ入られました。そして、盛岡御屋敷の当番であった御家老である中舘勘兵衛を奥へお呼びになり同席させ、お袋様(※義長様の正室。北九兵衛の娘。)へ次のように仰せられました。「弥六郎殿は御幼少であられますが、大禄のまま八戸家の家督を相続され真に有り難いことであります。これにつきましては、石高にふさわしい御奉公をされるべきですが、御成長されるまではまだしばらく時間があります。ですので、先代の御預け知行(※管理のみを任された土地)を太守様にお返ししたい旨を申し出たほうがよろしいでしょう。本知外の御預け高ですので、太守様に命じられてから返上するのでは弥六郎様の外聞が大変悪くなります。早々に願い上げられますように。」と。それに対し中舘勘兵衛は、「他の預かり地とは異なり、こちらの知行は義長様の弟・頼母様を附馬牛八戸家へ分家する際分地の願いがあり、その時の検地によって新たに打ち出した石高増しであり、預かり地によって増えたものではないので御前(※太守様)がお取り上げにならず、直々に当家へ御預けになると命じられたことでございます。今回の家督相続においてはその指示についてはなかったのですから、こちらから返上するというのはすぐには同意できません。遠野へ申し伝え、相役や家老衆の意向も聞き、それから御返事をするのがいいでしょう。なにがなんでも二、三日の内に返答しなければならないということはないでしょうからそれまでお待ちくださいますように。」と申し上げますと、古九兵衛は「御上を重んずる弥六郎殿のことですから、家督相続のお礼として御預り地を返上するというお願いは遠野の役人たちも道理のない内輪話とは思わないはずです。遠野に相談などせず早々に願い上げるのが当然でしょう。」と仰せられました。勘兵衛が黙って何も返答しないでいると古九兵衛は続けて、「弥六郎殿の今後が首尾よく運ぶようにと思って相談しましたのに、それに納得しないということであれば、これから遠野八戸家の諸用を当家へ相談する必要はありません。」と申し上げました。その御立腹の様子をご覧になったお袋様は、勘兵衛へこう仰せられました。「九兵衛様のお考えに背き、今後当家への御指図の相談が受けられなくなっては、幼い弥六郎殿が心もとないですね。早々に同意の御返事を申し上げるように。」と再三ご意見を述べられました。
 勘兵衛は是非もなく同意する旨を申し上げると、古九兵衛はすぐさま奥へ御祐筆を召し出し、預かり地差し上げの案文を下書きするよう御指図されました。御書としてこのことを認め、明日御目付を以って差し上げるようにと仰せられ御帰りになられました。翌日、この書状を差し上げると、当然の願いであるので預け高を返上するようにと命じられ、仰せられ弐千百八拾三石余りを太守様に差し上げたそうです。

【義論様、おけい様御縁組の事】

一、元禄三年の二月初め、北九兵衛殿が当家へお出でになり、奥座敷へと入られました。盛岡詰めの当番であった家老(氏名失念)を呼び出し、お袋様へこう仰せられました。「殿様(重信様)は、我等に内々に御本心を明かされましたが、遠野八戸家の当主・弥六郎は兄弟もなく、一人で家の中にいてはさぞ寂しかろうと御思いになられていました。それにより八戸屋敷へ、おけい様(重信様の娘。御年五歳)を遣わし、義論様の母上に養育していただき、御成長の暁には弥六郎殿へ申し合わせようと殿は仰せでございます。この御意向は義論様の母上並びに家来たちの胸中をも聞かず、表立って仰せられてはよろしくないので、この九兵衛に内々に遠野八戸家へお話するようにとのことでした。」これを聞きお袋様は、「お気遣いまことに有り難く存じます。しかし、御幼少の姫君を私が御養育することはとても恐れ多く憚られますのでお請け申し上げかねます。この旨を九兵衛様から殿様へよろしくお取り計らいください。」と辞退されたので、御家老もお袋様と同じことを申し上げました。
 すると九兵衛殿は、「お袋様が御遠慮し御辞退なさるのはもっともなことでございます。しかし、太守様の本心は次の通りです。弥六郎殿の先祖であられる第十九代弾正直栄殿へ、重信様の叔母様(利直様の妹君・※清心尼の母)が御輿入れしてから時が経ち、段々と両家が疎遠になられています。おけい様を遣わせられれば以前のように親交が厚くなり、八戸家の威光も増すだろうという有り難いお考えを以って仰せられたのに、あまり御自分の主張にとらわれて頑なに御辞退されると、かえって殿の御厚情を蔑ろにする失礼至極の不調法と受け取られ、御立腹のうえ不信感を持たれては弥六郎殿のためにもよろしくはないので、このお話を御請になるのが然るべきです。」と仰せられました。
 お袋様は、「殿様のご厚情は大変有り難く存じます。遠野に殿様の御心意を伝え、家中の者へも聞いてお請けする旨の返事を申し上げようと思います。義論とおけい様の件を承知しましょう。」と仰せられました。九兵衛殿は、「そのとおりであります。このことを遠野にお伝えし、早々に御請するようお申し上げください。」と仰せられて、その場は御開きとなりました。
 早速遠野へ申し伝えたところ、御家中一同は感謝する旨を盛岡屋敷へ申し出ました。九兵衛殿にそう申し上げると、同月の十一日には義論様とおけい様の御縁組を仰せつけられ、二十六日、おけい様がこちらの屋敷へ御輿入れされる際に御供の御付人である梅内弥五左衛門(※重信公に召し出された盛岡藩藩士)と小川の局、そのほか長女中、御相手女中、御端下女中など大勢召し連れて来たそうです。弥五左衛門殿へ、こちらから中舘先右衛門(※附馬牛南部氏である頼母様の家老中舘覚右衛門の嫡男)を加え、御二人で奥での御用を勤められました。御輿入れの翌日から御老中や御役人、諸士たちが御引移りの、御祝とご機嫌伺いとして御番所・御茶の間・御末え(※家臣と対面する間)へ出入りする来客がお出でになりました。また、御末は御城の表、奥並びにおけい様に連なる御兄弟の方々から毎朝ご機嫌伺いの御使者が、御長屋の前や中、馬場に至るまで五人七人と往来が絶えることなく、奥の御前へは御医者衆・検校(※ケンギョウ 盲人に与えられた最高官位)・勾当(※コウトウ 盲人の位の一つ)も頻繁に参上し、毎日琴・三味線の音が昼夜絶えることなく賑やかに響いており、内々の話ですが莫大な出費が当家からあったことが察せられるでしょう。

【義論様、盛岡火消番の事】

一、元禄八年十二月、北九兵衛殿がお出でになり奥にお入りになりました。お袋様と義論様が揃ってお座りになっている席へ、盛岡屋敷に詰めていた家老と御次頭をお呼びになりこう仰せられたのです。「弥六郎殿は御幼少であられますが大禄を持つ八戸家の家督をお継ぎになられて以来、しかし、これまでそれ相応の御奉公をなさっておりません。そこで、来年は十五歳になられますから盛岡御城下の火消番を仰せつけ頂きたい旨を殿様にお願いするのが当然であると存じます。この件を遠野の相談役や家老に伝達し同意を得たら、正月の御用始めの際に願い出ますように。」とのことだったので、このことを遠野に伝えたところ、尤もであるという返事でした。
年が明けた元禄九年一月十三日、先の通りに殿様に願い上げると、それは尤もなことであるとし、七戸外記殿(行信様御舎弟御知行千石)を義論様の御相談役として任命し、相談の結果、隔番(※交代)で火消番を務めることとなりました。しかし、遠野家中の者は身分を問わず火事場での要領を得てはいないので、家中で火消のいろはを調査するために、義長様が江戸火消を勤められていた頃にその様子を見聞きした者達と、当時軍者(イクサモノ ※兵法家・軍学者)と呼ばれていた人々をお招きして、数日間会議をなされました。おおかたの内容が決まると一月二十二日、火事場への行列書が出来上がしました。

(行列書省略)

沖舘半左衛門・森山佐左衛門・宇夫方長兵衛・工藤権十郎

 この四人は交代で一人ずつ持筒同心を二人召し連れ、毎日昼夜を問わず盛岡城下侍丁や町人町を巡回しました。
 この時の御屋敷の御台所は、門黒川の辺りからも屋根の棟が見えるほど高い箱棟に火の見矢倉を備えていたので、御城下は言うに及びませんが四方の遠くまで眼前に見下ことができたのです。
  遠方の出火には板木を早く打ち、御城の近場の出火は板木と大太鼓、内丸で火の手が上がれば板木と大太鼓と鉦の三拍子で知らせる合図を定法とし、火の見番の御同心や小者へ申し渡しました。
 出動するそれぞれのお供へは行列の出発場所、火事場での規則を詳しく仰せ渡らせ、諸士へは革頭巾、身分が低い者へは看判物(※主家の御紋付きの袢纏)・手釘・鉤縄(※カギナワ 縄の先に鉤がついており、投げて引っ掛けることで高いところに登れる)・かんじき・白米五合を袋に入れ、各々に行き渡らせました。いずれも初めての火消番のお供だったので、いざ出火すると当番の者達は他より先に走り出ようと一日中またひきや、脚絆を脱がず、夜も草履を結びつけたまま寝ていたのだそうです。
 始めの二、三度の出火の時は両家の早鐘・矢倉の早板木。鈴唱子・早手木を聞くや否や仰天し鼓動は早なり、同じ部屋の者同士で慌てるな慌てるなと震える声で口走る言葉とは裏腹に、持つべき物をも落とし、草履の緒も締められず、玄関の敷石に出ても行列の出発場所を忘れてしまい、あちらこちらへと行き来したり、火事場の隣家に火の粉がかかり、類焼して轟々と燃え盛る様を目にして逆上し上ってしまい、その場で自分が勤めるべき役目を忘れ、その場にふさわしくない行動をとる者が多かったそうです。
 その最中、状況を見極めどう行動するべきかを考えて働いた諸士には、鎮火後に御屋敷へ帰ると御広座敷へ呼び出され、御役人が並ぶ中、火事場でのそなたたちの働いている様子を御目付が見届けたという旨を御前が聞き、殊勝に思われ褒美を授けると申し渡されました。働きの甲乙によって、金銭、あるいは御吸い物に御酒などをくだされ、それを広く自慢する者もあれば、火事場でよく働いても御目付役に見落とされ褒美を貰い損ね、腹を立てて御目付役を誹り非難する者もいました。また、火事場で慌てふためき立派な働きができなかった者は、御目付長屋に呼び出され、今後の心がけの注意を申し渡され大層面目を失い、ああ、大火事になればいいのに、今日の雪辱を果たそうと後日の火事を待ちわびる者までいたそうです。
 それ以降度々火事場へ出動するうちに、身分が上の者も下の者も要領を得てきたので、みな熟達した働きぶりになったそうです。
 前々から、盛岡城下で出火した際は、御物頭・御町奉行・御目付役ばかりが現場へ出動し指揮を執っていました。身分の高い御高知衆へ定火消番を仰せつけることはありませんでしたが、当家が火消を命じられてからは御高知衆も毎年火事場へ出動するよう命じられたのです。

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