mark 【口語訳遠野古事記】義長様のお人柄と御相伝の品々の事

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一、義長様の慎ましい立ち振る舞いは周囲の人々より優れいらっしゃいました。南部随一の御身分と、博学による御知恵をお持ちになりながらも驕(おご)り高ぶる御様子が見受けられなかったのです。御高知衆は言うに及ばず、禄高の大小に関わらず全ての諸士に律儀に挨拶をなされたので、挨拶を受けた者も御城の御子様方に挨拶するのと同様に、義長様へ挨拶を返されたそうです。

○義長様は下戸のご体質であるため、小さい杯で御酒を二、三杯召し上がられるとおのぼせになり御苦労されている様子がみえられましたが、上戸のお客が長居をし、酒談になっても御退屈されている様子はなく、お客に気を遣わせないよう丁寧におもてなしをなさっていました。

○若殿様(信濃守行信様 ※盛岡南部氏二十九世重信公の三男。五十一歳で盛岡藩主となる。) は、能の催しがある際は御拝見のために朝五つ(※八時)前から舞台に詰められ、御見物の御座敷に座られてからは中入(※能の前半と後半の間に入る休憩)のほか、御自分の用を足される際には御膝を崩し寛がれたそうです。しかし義長様は、終日目立った身動きを見せませんでした。御白洲(※庭)で能の拝見を許された町人たちの中で、義長様が微動だにしない様子に気づいた者が、帰宅して中伴(※ナカバン 使用人)に次のように語りました。「能を御見物されている御高知様や様々な身分の諸士方の中には、度々立ち上がったり、御膝を崩されたりする方が多い中で、三五郎様(義長様)は一日動かれず木像のようにじっとお座りになられていた。大変お疲れであろうと傍目には思いながらも、義長様は神仏の生まれ変わりではないだろうかなどと噂したのだ。」とのことでした。この話は御屋敷へ出入りする町人が御料理の間で語ったのだそうです。

○江戸へ登られる時、旅行中一貫して駕籠を担ぐ漉尺(※ロクシャク 六尺とも書く)が奉公人に語ったことによれば、「江戸との往来で旦那方に雇われて、通しで駕籠を数十回も担いだ中で、体重が軽い痩せた人でも度々駕籠からお顔を出し周囲を見渡すことがあるし、よく身動きをとられる方もいて、私共の肩へ障り、大変痛んで迷惑した。しかし、義長様は御肥満で体重は重くあられるが、毎朝のご出発から御泊りになる宿に到着するまで御駕籠の中では微動だにされないため、我々の肩が痛むことは一切なかった。この度お供したので冗談で周りにこう話しているのではない。」とのことでした。

一、前々から当家に伝えられている武具や、その他諸々の道具が壊れると修理に出すのは申すに及びませんが、不足があれば補充もしています。その品々の中には、結構な織物地の夜具も数々あります。金襴今織地(※キンランイマオリジ 金襴=横糸に紙と金箔を貼り、細かく切った平金糸で模様を織った物 今織=当世風の織り方)に武田の菱や向鶴の丸紋を織り付けた巻物、名香の奇南木(※香料のひとつ。伽羅のこと)、上品の朝鮮人参等に至るまでお求めになり、後々御子孫へ御譲りになった品は少なくありません。

【義長様、江戸火消し、仰せ付けらる事】

一、延宝四年(1676)の辰年の冬、江戸において太守重信様(※南部利直公の三男)が、方角火消番(※明暦の大火後に整備された大名火消のひとつ。方角火消は出火の方角によって担当が振り分けられていた。) として御成橋筋(※御成道=将軍が徳川家ゆかりの寺社へ参詣する道。御成橋はその道中に架かる橋のことで、本文中では南部家屋敷近くの幸橋を指す。) の担当を仰せつかりました。その際、重信様は老中阿部豊後守様(※五代将軍綱吉時代の幕政の中枢) に次のようにお願いなされました。「私は老齢のうえ持病が再発し、養生しておりますがなかなか回復いたしません。出火の折に出馬し指揮を執られるか心配なのです。なので、南部一門の八戸三五郎を私の名代として差し出したいので、よろしく御執りなしいただけませんか。」との内容でありました。豊後守は、それは尤もであるとして、この願い出を受理し、この旨が江戸より仰せ遣わされ、十月中旬に義長様が御上りになって、翌年の春まで火消番を御勤めになりました。四月中旬には御請取場(※火消を命じられた受け持ち範囲)を解かれ、重信様は国許への御暇を前々のように首尾よく頂いたので、義長様へも近日中に下向の御暇をいただけるだろうと考え、御前は申すに及ばず、江戸に上った御家中の諸士も分限相応(※身分・財力にふさわしい)の土産物などを支度し、道中無駄遣いのないよう金銭の準備をしてお暇の沙汰を待っていました。しかし四月十五日の夜、重信様は義長様をお呼びになり、「江戸より御暇を頂戴したが、私の病は今もってよくならないので長い道中が不安である。よって、養生するため江戸に留まりたい願いを申し上げた所、自分の思う通りにするよう許しを得たので、これより八月の中旬、涼しくなってから下向しようと思っている。義長も大義であるが八月までもう少しここに留まり、私と共に盛岡へ帰ってくれないだろうか。」とのことでした。十万石の身分で万石以上の家中大名を召し連れて旅することは、この泰平の世においては大変珍しいことです。老年の長患いで身体も衰弱し始め、余命が計り知れないため、生涯の本懐を遂げたいとの御気持ちからこのように願われたのでしょう。八月までの長逗留ということで、遠野家中の家臣たちまでもが退屈し困惑ただけでなく、この度の遣金(※派遣費用)等も不足して大変難儀していました。そこで、六百両の貸出金を支給し、不足分については追々申し出るようにという重信様の御意向を給わった義長様は宿泊先へお帰りになられました。
 義長様が、御家老の中舘勘兵衛に先ほどの重信様の思し召しを伝えたところ、勘兵衛は「盛岡へ戻るまでの御遣金のほか余計なお金はありません。なおさら家中の多くの人間は身分を問わず八月まで江戸に留まれるだけの遣金を未だ用意していただけていないので非常に困惑しております。貸出金をいただけるのでしたら早々に拝借するのが当然でございましょう。」と申し上げました。そこへ、御金奉行衆に勘兵衛へ申し上げたことには、「御前より、三五郎殿へ六百両の御取替金(※江戸幕府の貸出金の名称。原則無利子で貸し付けた。) をお渡しせよと仰せつかりましたので、受取人を派遣していただきたい。」とのことだったので、勘兵衛はこのことを義長様のお耳に入れました。ところが義長様は、「此度は重信様からお金を御受取りするわけにはいかない。不足金があれば追って申し入れる旨を伝えるように。」とご返答されました。勘兵衛はその御意向に納得できずにいましたが、その指図通り返答しました。その翌朝、義長様が勘兵衛に真意を明かしたところによると、「八月まで逗留している間、諸々の雑用・経費は、家中の諸士たちへ身分を問わず取替金と共に納戸金(※家中・領民に貸し付け、蓄えられた金銭) から五百両出す。中居茂太夫・松田忠右衛門より受け取り、諸士から下々の者に至るまで逗留中に不足のないよう身分相応に応じてお金を支給せよ。」逗留中の安堵を徹底しよう。」ということでした。これにより家臣一同は安心し、差支えなく八月まで江戸に詰め、何事もなく帰還のお供につけたそうです。

一、この通り、御家の御勝手は非常に潤っていましたので、家中の貧しい家士や領内に住む貧民が金銭や穀物をお借りしたいと願い上げた時、安い利子でお貸ししてもなお財政に余裕があり、特に願い出がない諸士に対しても所得に応じ、御金を貸出しておられました。諸士の中にはその貸し付けをかえって迷惑に思う者もいたそうです。領内へは、一町一村の家数に応じ、無尽の元銭を貸出し、その支払いが町の痛手とならないよう配慮して上納するようにと御町奉行や御代官に仰せつけられました。ひときわ庶民の懐は潤いましたが、数年を経るとこの無尽講はほとんどが解散してしまいました。しかし、小さな村々においては知りませんが、城下では今も途切れることなくその慣習が続いているそうです。

一、  凶作の年には領内の人々が飢えないように、雑穀を救済措置として施し、生活が困窮しないように御手当をなされました。盛岡藩では太守様より直轄地の百姓達に御救いの食物が支給されたようですが、遠野城下で振る舞われたものよりも少なかったそうなので、盛岡藩の百姓達は遠野の民を大層羨ましく思ったそうです。

【義長様、文武の芸のこと】

一、義長様は、儒学・軍学といった書籍ばかりお好みになり、御武芸は稽古なされなかったと申す人もいますが、決してそのようなことはありません。兵法は新当流(※常陸の国の塚原卜伝が開祖とされる剣術の流派)、鑓術は法蔵院流(※宝蔵院流のこと。江戸時代初期の胤栄を流祖とする槍の流派)、馬術は大坪流(※大坪慶秀が流祖。人馬一体を前提とした)を習い、ひと月に三回ある稽古にご参加され、その合間にも御次衆を相手に怠けることなく鍛錬に励まれました。特に乗馬訓練は隔日行われ、日が暮れるまでなされたのです。
 直栄様ほど馬術は御得意ではあられませんが、若殿様(信濃守様のこと)が義長様をお誘いして鹿狩りをなされた時、馬をしっかりと乗りこなして山野を駆け巡る御姿は危なげなく見えたそうです。鷹狩にいたっては直栄様のようにお好みではありませが、御肥満の保養がてら、ひと月に二、三度ずつお出かけになり、鉄砲の腕もよく、小型の鳥や獣を狙って弾を見事命中されておりました。
 囲碁・将棋・謡曲なども十人並みより勝られていたため、どんな趣味のお客が訪れても退屈させることなく応対されたのです。この話は、この時代に御奉行を勤めていたある老人から聞き及びました。

【義長様、御遠行】

一、義長様の領内外での御功績は、世間の人々に大変評判がよろしく、噂では弥六郎殿(※義長様)は孔子の門下である十人の哲人とも肩を並べるほど当世稀なる器量人と賞美溢れる御名誉を得られました。近隣国だけでなく遠方の国へもその風説は伝わり、ついには重信様のお耳にも届きました。南部家の誉れである重宝人だと大層御満悦なされ、なおさら領内の身分の低い者から山中に暮らす者までが非常に喜んで、鶴は千年、亀は万年のごとく長生きされるように神仏に御祈願したそうです。
 美しい花や草木が栄える時期が短くすぐ朽ち果ててしまうように、ああ哀しや、義長様は元禄元年(1688)三月下旬(※陽暦では四月下旬)に御病気に悩まされました。病気が重く長引いて、医師も懸命の秘術を尽くしましたがその甲斐もなく、六月二十八日(※陽暦では七月二十五日)、御年四十八歳にてご逝去されました。遠野家中の諸士たちはもちろん、城下の民たちまで暗闇の路地で灯りが消えたように途方に暮れてしまいました。中でも諸士は義長様の御一子である戌千代様(七歳)が御幼少であるため、今後どなたが南部の家督を継ぐのか一段と気になり、心を痛め悲嘆に暮れる様は例えようがありませんでした。

カテゴリー 口語訳遠野古事記