mark 【口語訳遠野古事記】御当家諸士御目見の格の事

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一、御当家諸士の御目見(オメミエ ※謁見)は、身分も座る順序も前々から新田・中舘・沢里・小笠原右市の順でした。  右市の養父である奥瀬飛騨殿は、南部家の家臣奥瀬殿(※三戸南部氏の重臣)本家の弟で、御当家十八代薩摩守政栄様と親しくなさっており、度々根城へお出でになって御話し相手をされていました。政栄様が、「三戸(※盛岡南部氏)へ御奉公に出たいという望みがあるでしょうが、当家から飢えや寒さの苦労はさせない知行をあてがいますし、家臣ではなくお客として厚遇するつもりです。三戸へおられる間、こちらの家臣になりさらに親しく語りあいましょう」と仰せられたので飛騨殿は次のように申しました。「恐れ多く大変喜ばしいことでございます。三戸へお仕えになると、手膝を折り(※苦労・尽力して)窮屈に仕えねばならないと存じます。兄弟へはまだ相談しておりませんが、政栄様の思し召し通りに家臣となり、世を安閑(アンカン ※安らかに)に暮らしたいと思います。」と申しましたので、まず飛騨殿に四十石を給わり、不足であれば追って加増しようと仰せられました。また、飛騨殿の内儀(※妻)は早世し、後妻がいなかったため、政栄様の御子様を懐妊した御妾(※側室)を後妻としてくだされました。政栄様は、「出生した子が女子であればこちらへ返し、男子であれ騨殿の御考えに従って養子にするといいでしょう。もしその後、実男子(※飛騨殿の子)が出生したら、こちらへ返されるように」と仰せられました。後妻は政栄様の血を引く男子を出生しましたが、飛騨殿が申すには、後々私の実男子が生まれたら庶子(※嫡子以外の実子)にし、この度生まれた御子様を直々に私の家の嫡子にしたいと願い出、養育し、成人になって名を小笠原(奥瀬の本名)右市と称しました(現在の茂作の先祖です)。養父の飛騨殿は客の身分として言い合せていたため、規式の謁見では沢里殿の次に御並びになり、また、右市は政栄様の御実子であることから、子孫代々遠野へ引っ越されても以上の通りの順序でした。  その次の順序は、譜代衆のうち知行・石高が上の者から小身の順で並び、その次に、新参衆の家臣が知行・石高の大小に関わらず、御当家へ召し出だされた順に御並びになります。そのため、新参衆は御家老を勤めた人も、重御役を勤めた人も、御譜代の小身よりも後に出て、座る順序も下座にいたため、御役目の威勢がなく、指示が思った通りに行き届かないこともあったようです。御譜代衆は乱世から遠からぬ時代の人であったため、戦場への御供に出れば、身も命も惜しまず御馬の前で潔く討死しようと思う心は猛々しくあるのですが、十人のうち七、八人は読み書きができませんでした。そのため、思慮分別が必要である御役を勤められる才智ある者が不足したので、器量のある浪人侍を召し抱えられ、御政事の職務を仰せつけましたが、前述の御家風を心外に思い役職を返上して御家を立ち去った人もいました。直栄様の時代の初めに、前々からのこの御家風を御改めになりたいとお思いになられていましたが、新田家から八戸家へ入られた方であるため、この改革が家臣の意向に合わず、これまでのやり方に背くことだと受け止められ、君臣間に不和をもたらしてかえって御家にとって大事になると御遠慮なされ、直栄様御一代の間は家風を変えることなく、義長様にその旨をお伝えし、改革の一切を御譲りになられました。延宝二年(※1674年)正月、直栄様が御遠行の翌年八月に、直栄様の元で御側御用を数年神妙に(※熱心に)勤めた松田忠右衛門・中居林茂太夫らへ、本知行五十石に倍の御加増を下され、御次頭を仰せ付けられました。そして全ての御家中に次のように仰せられました。今後は御譜代衆新参衆の差別を無くし、役職の上下、役職についていない者は知行石高によって御目見する順序を定める。列座もこれに准じるため、御目見の列は新田・中舘・沢里・御家老・御次頭・御番頭(※軍の指揮官・大将)・御物頭・無役の百石から六十石以上の者が並ぶ。その次に御町奉行・御横目(昔は御目付を御横目という)・御賄(オマカナイ 後に御勝手方という。近年は元〆という)、無役の五十石以下として、知行石高の大小に応じて罷り出でるようにしました。この格法は私一己(イッコ ※自分ひとり)の思慮で申しているのではなく、御先代である直栄様が御改めになられようと思われたものですが、先代の治世でこれを実行すれば不都合が生じるとお考えになり、御遠慮なさっていました。もしこれに異論のある者がいれば御暇を願い、早々に当家から立退くようにと仰せられたところ、いずれの者もこれに畏まり改革を受け入れることを申しあげました。御譜代衆家臣の中には心の底からこれに納得しない者もいたようですが、御暇を願い上げる家臣はいませんでした。これより前、義長様の奥様附きであった米田十右衛門が北の御家から参られた時、当家より三十石下され、御家来並みになられましたが、奥御役人という名目の御役列にはお入りになられず、諸士の知行高に基づく順に入るよう仰せつけられました。これ以後の元禄年中盛岡御城では御吟味役といい、御勝手方の御用に関わる新御役人に仰せつけられ、座列は御目付の上に定められました。こちらでも御勝手方へ御吟味役を兼ねるように仰せつけられ、座列も盛岡御同然になられました。御勝手方は、御金、米穀の出納、内々のあらゆる事の御用ばかり勤め、御政事御用の御評議へは列座を仰せつけられなかったため、科人の御詮議の寄会へも出座されませんでした。私の祖父市郎左衛門は、義長様の御代より義論(ヨシトモ)様まで御勝手方と御目付の兼務を仰せつけられ、利戡(トシカツ)様の御代には石橋半兵衛が両役を仰せつけられました。勤めているときは御政事の御用席へも出座されたそうです。この二人のほかに兼役を勤めた人は聞いたことがありません。     【義長様の家臣に対する接し方】  遠い昔の御先祖様御代々のことはいざ知らず、御当家中興の御名将にていらっしゃると家中をあげて褒め称えられる義長様の御内外の行跡は、衆人に勝れていた噂を老人の物語として数多聞きましたが、一つひとつ書き尽くすことは難しいので、そのあらましを次に記します。 【義長様、思慮深き事】 一、御政事の御用は言うまでもなく、軽い御用であっても卒爾(ソツジ ※軽率)に仰せ出でられることはなく、何度も思案なさられ、決心された時に御家老達に聞いてその可否をお尋ねになり、御同意を得られない時は自分の考えを申し上げられ、自分一人の意向を無理強いされませんでした。そして、再度考えられて、後日そのお考えをお聞かせになられて、家臣がごもっともでございますと同意を申し上げられた時にそのお考えを公表されました。 【義長様、重臣に対する気遣い】 一、毎朝義長様の御髪の御仕廻り(※髷を整えること)が済んだことを聞いて、御家老・御目付・御勝手方はご機嫌を伺う為に、御次の間へ参上するとき、三日間隔で御前へ召し出され、天気の晴曇・寒暑のお話をなされ、そのほか当番中に一、二回は御夜食の御相伴を仰せつけられ親しくされていました。この御底意は御前へ罷り出るときに、疎々しく(※いかにもよそよそしい)しては御政事の御相談に召し出だされた時、考えを残さず申し上げる御役を担っていても、御前に罷り出るときに御前の御威光を恐れ、遠慮の心が出て自分の考えを言うことができないのではないか、と思われて前記のようになされていたということです。 【御目付重用の事】 一、遠野から御目付が当番として盛岡御屋敷に勤めるとき、御目付が盛岡に到着した日には必ず御次頭を始めとした御次衆を全員御次の間から退出させました。そして御目付を御居間へお呼びになり、遠野の領地の様子を詳しく御尋ねになりました。次に、御家老御次頭へ、いつも親しく出入りする者は誰々なのか、町人は誰々が参るのかとお尋ねになられ、御家老御次頭がそれにお答え申し上げると、出入りする人の振る舞いや様子を御尋ねになりました。次に、御町奉行御代官の評判を領民はどのように話しているのかと御尋ねになられ、その答えがはっきりしない場合には、御自分が納得するまで何度もお聞きになられました。明確な返答を得て初めて退出の許可を御家老御次頭に下されました。そのほかに、当番中に二、三度御次の間に勤めている者を退出させて御目付を召しだし、しばらく世間話などをした後退出を仰せつけられたそうです。これは、御家老、御役人をはじめ身帯の大小に関わらず諸士の日ごろの行いの善悪を御前に申し上げているのではないかと諸士達が気を引き締め、自分たちの行動に注意するようにするため、また御目付の役に威光を付けさせるためにこの通りされたのでしょう。これにより、御目付の権威は御家老と同様になり庶民たちにも恐れられるようになりました。 【人指(※人事任用)の目論見(※計画)書上の事】 一、重い御役、軽い御役共に命じられる人がある時は、遠野にいる非番の御家老や御目付が吟味して人事の計画を書き上げるよう命じられ書き上げました。その書面を盛岡御屋敷に勤務している御家老や御目付に確認させ、その内容に同意するかお尋ねになられ、それぞれの同意を得てからその人に命じました。御自分一人の意向で人事をお決めになることはありませんでした。 【奉公人、御賞の事】 一、御役人は言うまでもなく、御次外様(オツギホカサマ ※主君の身辺から離れた役職)の御奉公人にも、数年、疎意(※疎んずる心・打ち解けない気持ち)もなく真面目に勤めている者へは、御召しの御紋付・御小袖・御上下をその働きぶりや昇進によって下されました。これは、ご褒美を下された人はもちろん、懸命に奉公している家臣を励ますという御前の御気持ちからです。働きぶりの甲乙がつけがたい人へは、褒美に差をつけず、不平不満が起こらないように御手当を下されました。 【軽薄な人の事】 一、御次衆の中の、御世辞を使ってご機嫌をとる者、浮ついてしまりがなく粗相のある者はさり気なく役職を解かれ、相応の外様御奉行を仰せつけられました。 【奥様・奥女中との事】 一、義長様の奥様は北古九兵衛殿の御息女です。奥様が御輿入れされて以来、義長様は御愛妾を持たなかったため、御夫婦は大変仲睦まじくあられました。しかし礼節を持ち、御慎み深く接されたため、他愛のない御口論を聞いたという女中もおりませんでした。朝夕の御食事の後、お客様がないときは御二人で奥の間の御前の私室でお茶を召し上がりになられたので、奥様が自ら御お茶の用意をされていました。そのたびごとに、御次頭と米田重右衛門(北の御家から御供で参られた奥御役人)と長女中(オトナジョチュウ ※女中の頭)を御前へお呼びになり、女中の給仕で御茶のご相伴を仰せつけられ、世間話をなされました。お茶を終えると、義長様は表(※政務を行う場所)へ入られたそうです。 その頃までは盛岡でも昔の風俗が残っていたのでありましょうか。奥様は琴・三味線・音曲などの御趣味はなされず、紡績・針縫・紬糸をされていました。毎年紬織を二疋(※屑繭・真綿を紡いだ絹糸で作られた織物。疋は絹織物の長さの単位。江戸時代(1665・寛文5年)は一疋=長さ15.6m、幅64㎝)ずつ表へ献上されたそうです。ですから、女中たちや御端下までも自然とその作法に倣い、御奉公の合間には女の手業に心を入れるようになりました。奥様は、義長様の御下召(オシタメシ ※下着)の御小袖を、御物師(オモノシ ※裁縫専門の奉公人)の女へ仰せつけることはせず、自ら御仕立てになりました。仕立て終わると縫い目を残らず点検されてから表の納戸衆に渡したのです。仕立てを御物師へ命じた時に、万が一落とし針などで御前の御体を傷つけ、痛みを感じられてはならないとのお気遣いからご自身で御仕立になるのだそうです。

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