mark 【口語訳遠野古事記】御使用人・御傳臣・御次衆の事

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     義長様の時代、盛岡御屋敷の御風俗の聞き伝えは次のとおりである。 一、義長様の時代、御側で御用勤め(※主君の私生活の場の仕事を統括した、家老の次にあたる役職)をしていた松田忠右衛門と中居林茂太夫の役名を御用人とは呼ばずに、御次頭と称して義論様の時代まで勤めたそうです。朝と暮れの支度は長屋(※盛岡屋敷でお仕えする人の宿舎)で行っていました。その頃は盛岡の御城では今の御用人を若御老中(※盛岡藩初期、御用人の呼称)と称していたので、松田と中居林は表の若御老中と同じ威勢に見えたそうです。 一、義論様が御幼少より御伝臣(オモリシン ※主君の子を守り教育する臣下)の新田半平(小十郎嫡子)、中舘平太夫(勘兵衛嫡子早世)、中舘作十郎(忠左衛門嫡子)の三人の加い(クワイ ※見習い)に、中舘覚太夫(祖父甚右衛門は義長様が御幼少の時に御伝臣を勤め、御成長に至て御家老を仰せ付けられ生涯首尾よく勤めたので、孫の覚太夫を御伝臣の見習いに加えた)を任命しました。何れも葛籠(ツヅラ ※衣服などを入れるツヅラフジで編んだかぶせ蓋の箱)・夜具など身に付けるものは御小姓部屋(※御前の用務をする者達の控えの間)の二階下に置いて、髪・月代の手入れも御小姓部屋にて行いました。朝と暮れの支度は御次頭の長屋にて行い、寝起きをするのは御次の間でした。 一、御次衆(※主君の御側で用務にあたる役職)は、朝の五ツ時(※午前八時)に御次の間に詰めることになっていました。義長様の時代は表の御居間より奥の通路の廊下に御陣太鼓を釣り置いていました。朝、奥から表に出られる時に太鼓を三ツ静かに打ち、御居間にお入りになられ、御次衆に御居間に入るようにお呼びになったときは、御次の間に一番に詰めていたものが罷り出でて御用を承りました。その次に御呼びになった時は、二番目に詰めていたものが罷り出でました。このように御次の間に詰めた順番で御前の前に出るよう仰せ付けられました。三度目に御呼びになられた時に、お次の当番の人が居り合わずに遅れて罷り出でた時は、御叱りにはなりませんでしたが、御用を言い出す時の顔色はよくなかったように見えたそうです。猶更、四番目以下の人が御前の前に出たときは無言で御用を仰せ付けなかったので、手持無沙汰になりお次の間へ退出したそうです。御役人の外御用(※主君の命令による用事で外に出掛けること)を仰せ付けられるとき、御次衆へ名前を指して呼ばれることはありませんでしたが、朝に御呼びになられるとき度々一番に罷り出でた者には折節(オリフシ ※ときたま)名前を御呼びになられたので、朝に御次の間に詰める時にはお互いに先を争って出仕したそうです。稀に名前を指して御呼びになられた者には、重い御褒美の拝領物をいただくのと同様に、有難く思って、御奉公に励んだそうです。 お客さまがいない夜には、五ツ頭(※太鼓を五つ打ち)奥へ入られることを知らせる為に廊下の太鼓をお打ちになりました。しかし、四ツ打って早くに御居間から御退出することもありました。奥へ早くお入りになられたのは、御次衆に芸事の稽古をするようにとの御前の御底意からだ、と太鼓の音を聞いて御次衆は書物の素読、軍書の講談・躾方・懸声なしの兵法等に励みました。稽古場所は台子の間(ダイスノマ ※茶室に関係する部屋か)・空穂の間(ウツボノマ ※大名行列関係の道具を置いていた部屋か)を御貸しになられ、御次頭に時々見廻りを仰せ付けられました。 御小姓衆には昼に代わる代わる二時(※現在の四時間)ずつ手習いの御暇を与えられて、五日に一度は手習いの清書を御祐筆に見せて直しを得るように申しました。真面目に取り組んだ者には時々、筆、墨、紙の御褒美を下さいました。真面目に取り組まなかったり、昼寝をしたり、悪狂い(※好ましくないことをする)のいたずらをする者には朝と暮れの支度と自用に立つ他には、朝から夜までの仕事が終わるまで御次の間から立退かず詰めているようにと御次頭に仰せ付けたそうです。夜御前が奥に入られた後もすべての御小姓衆は物読・躾の稽古をするように御次頭に御命じになられました。 御次頭より申し付けられ他所へ向かう御使者の御茶の間衆(※お茶の間に詰めた士、御次頭の指示により他所への使者になる)・御徒御給人(※徒は主君の御供を主任務とする者で、給人は切米で支給された下級の士)が表の御使で御屋敷に帰りお返事を申し上げる時には、御配膳の間より御次の間へ入り敷居際に居て暖簾を少し開けて顔を出して御次頭に口上を申し上げることになっていました。御次の間には入らずに敷居の外より申し伝え、卒爾(ソツジ ※軽率)に御次の間に入ることはできない規則でした。 【御番所・御茶の間・表御門番、勤め方の事】 御番所 一、御番所には御取次衆が二人、平番(※役職についていない普通の当番)が二人(御給人と御徒は一日一夜交代)で、朝五ツ(※午前八時)前より相詰めて、朝と暮れの支度と自用の他は詰めている間からは立退かずに居り、年始と端午には五十石以上の御給人を五人遠野より御呼びになられて、平番より上の立場で勤務しました(これを詰番と称した)。お客さまが御用の時は、御取次衆が帯剣したまま直々に御前の前に罷り出でて申し上げる規則でしたが、先ず御取次衆は御次の間にて御前に出るときに御前の前に出て良いかを窺い、自身の扇子を抜き置き罷り出でました。御番所にお客さまがいない夜は四ツ時に御番人がまいら戸(※舞良子(マイラコ)という細い桟を等間隔に橫または縦に並べた板戸)を閉めて、御取次衆は御小姓部屋の二階下へ行き休息しました。 御茶の間 一、御茶の間には、御家老・御目付・小道具頭一人、御茶の間衆二人・御番医二人・御祐筆一人・判番一人(これは、御屋敷中の身分の高い低い、男女、私用御用共に関係なく、外出の時に下御門を出る時に改判(※通行許可証)を渡す者です。この判を受取る人は御給人一人が御目付長屋に詰居り、判の無い人をかたく通さず、判が出たら取って門を通していました。すべて御門の往来は夜五ツ(※午後八時)までと定めていました。五ツ以後は御用のほかは私用の外出は禁止されていました。判番も請取人も五ツまでには仕事を終えました。利戡様の時代に、御屋敷詰めの人数を減らされた時、常に置いていた判番を止めさせて、薬師の御祭礼日(※四月八日)と八幡神社神事(※九月十五日)前後の見物事や芝居期間中にだけ設置するようになりました)・御茶間番の御同心一人・坊主(※剃髪し屋敷内の雑役に従事、来客の給仕をした)三人・御草履取二人が何れも朝五ツ(※午前八時)前より詰めていました。御用の間の御物書は御用がある時にだけ居り、普段は表御長屋に居ました。御茶の間から御居間へ通られるお客さまがいない夜は、御家老、御目付は五ツ(※午後八時)限りに退出し、それ以外は四ツ打の時に退出しました。 一、夜五ツ頭に奥へ入られ、毎夜四ツまで書物をご覧になられていましたが、稀に四ツ過ぎ迄ご覧になる夜はかねてから仰せ付けられていた奥様、御局、寝ずの番の女中以外は、御前が寝るのを待たずに、女中も御料理の間も四ツまでには仕事を終えたそうです。 表御門 一、表御門番(※盛岡屋敷の表御門の番をする者)は以前より遠野の御番組(※兵制に関わる家臣団組織)の御給人が十五日交替で勤めに来ていました。この時の下番人(※下働きの小者の門番)に、小三郎という者が数年続けて勤めたので、いろんな人が「定番小三郎」と呼んでいたと伝えられています。 利戡様の時代(※遠野南部四代、十八世紀初め、元禄末・宝永・正徳の頃)になって、御番頭(※警備係の責任者)に小向次郎兵衛・新田伝四郎を任命なされました。そのころまでの御番屋は、屏風もなく、火鉢もなく、四季共にふみだん(※踏段、踏んで登る段)前の大戸も、出格子(※外部へ張出して作った窓の格子)も押し開いてあったので、小路を往来する人の目に見えるくらい出格子の側で一日中仕事をしていました。極寒の時に吹雪が入るのを袖で打ち払いながら、煙草盆の火入れで手を温めるほかに火気はないので、体が凍ってうるみ色(※青黒い色)に変わりながら勤めていたのを、私は目の当たりにしたものです。正月は元朝より六日まで御納戸から高屏風・大火鉢を出し、高屏風は勝手の往来の方に立て、ふみだん前の戸の側には火鉢を置いて、七ツ(※午後四時)の時に片付けました。ある年の極寒の時節に、利戡様が外出の時に御番人の様子を度々ご覧になられ、御家老衆へおっしゃることには「以前より屋敷の規則とはいえ古人とは違い精力弱き当世の人であるから、寒さを防げず迷惑するばかりでなく、心体に病気が起きるかもしれずかわいそうであるから、人目を避ける屏風・火鉢は許してあげてもよいのではないか。家老たちが同意するならばこのことを通達しなさい」と仰せられました。その後は粗相(※粗末なこと)であっても屏風と火鉢が置かれたので、以前より冬の勤めが一廉(ヒトカド ※人並みに)よくなりました。お上から火の用心には気を付けるようにという申立が有ったのであろうか、火鉢の代わりに炉を切り、冬はふみだん前の大戸の方に屏風を立てて、炉の前で身を温めたので、前々の御番人に比べ考えると大名になったように静かで落ち着いたように見えたそうです。猶また、近年では出格子へ風雨を防ぐ障子も付いたとうかがっています。   利戡様の時代に、貴重な御道具が御蔵から紛失したので御調査されましたが一向にその行方はわからなかったことから、御屋敷詰めの身分の高い低い、御用私用共に関わらず、他所へ持ち出す諸色(※いろいろな品物)には印判の切手(※許可証のことか)を添えて出すようにと命じられました。その切手を改めるのは御徒御給人で代わる代わる一昼夜ずつ御門に勤めて、切手があるかどうかを確かめ切手が無いものは御用であっても決して通すことはしなかった(この切手は五日前に御目付役まで申し上げました)。この番所は下御門番の御同心が居る所で、内馬場の方を半間ほど板で囲い、ふみだんの方に切手を受取る小窓を切り開けました。その服装は、袴をはかず刀は夜に寝る時にばかり持参して、御主君が御門を往来する時にも下座に罷り出でなかった様子が囚人のようにみえたのか、その後に場所を表御門の方に御移しになり、番人は袴をはき昼でも刀を持参して、御主君が御門を往来する時にはふみだん前に下座したので、すぐに切手改めの番頭であるとわかったそうです。私も若い時に表御門番、切手改め番の両番で勤めたことがあります。信有様の時代(※正徳二(一七一二)~享保二十(一七三五))になって切手の通用は廃止されました。 【御台所仕来りの事】 一、昔より盛岡御屋敷・遠野御屋敷の両御台所(※御屋敷の炊事場、調理や配膳に使用する部屋)に御端下女(オンハシタメ ※それほど身分の低くない召使いの女)を二人ずつ置いていました。搗はたき(ツキハタキ ※「はたき」は米・麦・大豆などの粉をつくること)・御清汁(オスマシ ※鰹節の煮出しに醤油と塩で味つけした透明な汁)等を作る仕事をしていました。毎年、極月(※十二月)十二日の夜は、御屋敷の御破損長屋(※盛岡御屋敷の修理・修繕を行う建物か)で、山の神の年越しの御祝儀が行われました。この夜は御台所頭(※台所で飲食物の調理を司る責任者)の御端下女に茶を一袋持たせて御破損長屋へ行き、その女に酌をさせて、杯を交わしたよき時代もありましたが、正徳年中に倹約、吟味が行われた時に両所の端下女は廃止されました。 【直栄様奥様浄瑠璃語りお聞きの時と奧女中、親戚縁者、対面の事】 一、直栄様の時代、奥様が座当(※「座頭」。盲人で剃髪して僧体となり、芸事をする者)をお呼びになり、浄瑠璃を演ずるよう命じた時、奥女中へ親類縁者である御徒衆に御台所より奥の御下居(※台所・勝手場)に行って、その女中に会って陰聞(カゲキキ ※人目につかない隠れた場所で聞く)に参りなさい、と申し付けたところ、御仲居(※勤仕する女の居る部屋)の近くに案内して漬物・焼餅などを出して、端下女達が御茶をたててくれたのを飲み、浄瑠璃が終わって長屋へ帰るのを御役人が見聞きしても、以前より行われていることなので咎めることはしませんでした。  義長様の御政務以後は、御用の他は奥へみだりに出入りするべからず、という禁制の張り紙を御屋敷のあちこちに張り出され、表の衆は女中に対面する用事がある時は奥の御役人に伺いを立てて、表と奥の御料理の間を境に敷居を隔てて出会うか、御末の御寄附(オンスエノオンヨリツキ ※「御末」は大名に仕えた女中、「寄附」は入ってすぐの部屋、玄関脇の部屋)に行き、御末御番人(※女中係り)に頼んで女中を呼び出し用事を言うようにと命じられました。 【奉公人、御屋敷内飲酒禁止の事】 一、直栄様の時代までは前々から、御奉公人が酒を飲むことはお構いなしでありました。御徒衆の中には酔って高い声で度々御長屋で騒ぐ者もいたそうです。義長様の御政務以後は酒を飲むことを禁止するように仰せ付けられたので、御用酒(※お祝い事・お役目等により御前から給わるお酒)のほかは、懐の中に酒入れを持っていた人は断じて通さなかったそうです。 しかし、御徒は御切符貮駄の小身(※「小身」は現米や現金で禄(切米・扶持米)を給わる家臣のこと。ここでの一駄は馬が両脇に三斗七升入りの俵二つに当たり七斗四升となる。つまり「貮駄」は四俵、一石四斗八升ということ)で、御屋敷に常勤して御奉公していたので、ご容赦をお考えになられたのでしょう。毎年春は花盛のころに花見の酒宴を一夜、秋は八月十五日の夜に月見の酒宴を設けて、四ツ(※十時)までお許しになり気晴らしをさせました。四ツ半(※十一時)過ぎてまで騒いでいて静まらなかった時は、御目付より制止の使いが出されました。このならわしは長い間続き、二回の酒宴は御前の許すところでありました。 私がまだ若かった頃、部屋住(※嫡男でまだ家督を継いでいない者、または次男以下の家督を継いでいない者)に替り、当番にて盛岡御屋敷に初めて参上する時、表御長屋詰めの衆が手水湯(※手や顔を洗うための湯)を沸かす御亭(オンテイ ※「亭」はここでは屋敷、住居を指す)の御釜の弦(オカマノツル ※釜についている弓形の取っ手)に刀瑾(トウキン ※「刀瑕」か)の様な切付痕が二ツ三ツあるのを不審に思って、屋敷勤めの長い衆に尋ねると、昔居た御徒の鳥屋部平右衛門という人が酔っ払って戯れに刀の刃を見よと言って切った痕と伝えられている話を聞いて、若い私でも御屋敷で飲酒禁止というのはごもっともの事であると感じたものです。 【御来客応対の事】 一、直栄様がこの御屋敷に御引越の初め頃まで、八戸に居られた時のように、御式台(※玄関を上がったすぐの部屋)へ御来客を取次する人は御式台に近い座敷に御徒衆が二人ずつ詰めていました。袴をはかず側に置いて、一日の慰めに箸を削ったり、髪の鬠(モトユイ)を捻ったり、自身の履物を作ったりしていました。お客さまのご案内がある時は、衣装の塵を打ち払って袴を着て出ていました。 その後、直栄様がお城の御用席(※家老の役職の席)に出勤なされて以来、前々よりお客さまの出入りが多くなったので、御徒衆四人は袴を着て御番所に詰めて取次に勤めるようになったそうです。その頃の御徒衆は銘々地布(※その土地で作られる麻・木綿などの布)の太麻袴を一具(※「太麻」は麻の茎から取る繊維で、丈夫なので夏の衣服などに使われる。「具」は衣服・器具・食器に盛った食物などの揃いを数える単位)ずつ持ち四季共に着ていましたが、肩衣(カタギヌ)は持たなかったので五節句のお祝いのお酒を頂戴する時には、着用の古戻子(フルモジ ※着古した麻や綿で織った目のあらい布)の肩衣を二具寄り合わせて置いて代わる代わる着て御茶の間に罷り出ていました。その為猶更、裃は持たずに、五節句や規式の行事の取次には貨された裃を着て勤めました。  御寄附(ヨリツキ ※玄関脇の部屋)へお礼に来られたお客さまを他の御高知方が取次する時は、小御扶持の衆まで様付でお呼びになっていましたが、当家では御高知御老中へも殿付でお呼びしていました。その子細は、御当家の御知行は南部様より分けていただいたものではなく、南帝様(ナンテイサマ ※吉野天子。建武の新政時の後醍醐天皇の系統をひく南朝方(大覚寺統)のこと)(吉野の天子)より御拝領になったものであるから、代々公儀の直接の臣下の家として、三戸・八戸の御家柄と同じであるから、互いに殿付で呼んできていました。  天正年中九戸乱(※九戸政実の乱の事。天正十九年(一五九一)に九戸政実が宗家南部信直に反旗・挙兵した)の時、御当家十八代薩摩守政栄様の時代、信直様の御頼みにより三戸の御城下の御仮屋(※三戸における政栄様の御宿所)にしばらく居られることになったころ、八戸衆・三戸衆をお互いに殿付で呼んでいたことを気の毒(※ここでは同情ではなくて、腹立たしい、いやになるといった意味)に思って、八戸衆を殿付しないで呼んだところ度々口論になってしまいました。信直様がこのことをお聞きになられて、家臣の三戸衆を御叱りになって前のように挨拶するようにと厳しく仰せ付けられました。  二十一代清心尼様の時代に、利直様より一万二千五百石の御印紙(※文書作成者の責任を明らかにするために署名捺印した書付のこと。ここでは盛岡藩主利直様が附庸の身(家来筋)となった直栄様の知行地と石高を示した利直黒印状を指す)が初めて出され、続く直栄様が遠野へ御引越の時も、利直様より知行の御印紙が出され、南部の御陪臣(※家来の家来。盛岡南部家は徳川将軍家の直臣、遠野南部家は盛岡南部家の附庸になるので、将軍家からみると家来の家来にあたる)に落ち着かれても、前々からの御家風は変わらず、直栄様の時代はお客さまへの呼びかけも盛岡と遠野の家臣が出会った時には以前のように御高知衆、御老中共に殿付でお呼びになっていました。   義長様の時代には、御高知、御老中、若御老中は様付で呼ぶようになって、その他は前々からの殿付で呼ぶようにと仰せ付けがありました。御寄付(ヨリツキ ※玄関脇の部屋)の呼びかけも、日常の出会いの時も同じようにお呼びになるように言いました。   享保の中頃から、敬うべき身分のない人にも様付で呼ぶことが流行りました。傍輩にも盛岡衆にも様付で呼ぶ人が多くなって、遠野家中であえて御難(※非難すべきこと、迷惑の丁寧語)でもないが、盛岡の小身衆にも様付で呼ぶことは、御当家の御先格を失う不忠の過ちで歎かわしいことであるが、時世の風俗ともなればいたしかたないことでありましょう。 【大手惣門御番人の事】 一、大手惣門(※盛岡城の大手門、内丸三御門の一つ)の御番人は、前々より上番は御物頭(※御徒、同心の指揮官)が、下番は御同心が三人ずつ置かれていました。殿様が御門を往来される時に、下座にいた御物頭へは挨拶されませんでした。 義長様の時代の御物頭であった新田茂左衛門という体は大きく骨太で肉厚の大釣髭のたくましい男が殿様重信様のお目にとまったのでしょうか、当番の度、始めて殿様が御通りになられるときに髭を直すようにと仰せ付けられていたということを老人の申し伝えで聞いていました。上番の下座は御高知、御老中、御用人ときていましたが、信有様の時代の享保年中、中之橋御門・日陰御門番のように上番も御勘定頭(※勘定所は藩の財政、経済、出納を扱う。勘定頭は勘定所元締め(勘定所総括者)の下で各部門の主任役を務めた)以上の御役人に下座へ座ることは不叶(カナワザル ※どうしようもない、やむを得ない)支障がであったので、御物頭の代わりに三十石以下の御給人を上番に置かれるようになりました。 【御役初心の誓紙の事】 一、前々より直栄様の時代までは、現在のように始めて役職を仰せつけられた人は、血判の誓紙(※誓詞に違背しない意を示すために、指を切り血で署名のしたに押す)をするようなことはありませんでした。金銭や米穀を扱う御役人も請払の差引勘定をすることなしに勤めていました。その古説に遠野の御台所頭(※御前の諸経費収支担当者の主任)是河伊兵衛(助右衛門先祖)が勤めていた時、御台所で頂戴する御扶持米とあちらこちらへ渡すお米が不足した時には、是河の家の米穀でまかない、是河の家で米が足りない時は公用のお米を出して、公私の区別がありませんでしたが差引の過不足があるかどうかの勘定もなく勤めていました。  義長様の御政務以後、預かり物を取り扱う諸役所は一年ごとに請払いの勘定目録を提出するように命じられました。勘定の会議のある日は、御横目(※正保年中(一六四〇年代)の目付の呼称、司法・警察の職務にあたる)を検使として出席させました。初めて役職を仰せつかった人が誓紙を出すことがこの時に始まったそうです。  何の役職を仰せ付けられた人でしょうか、血判を確認する御横目に次のようなことを言いました。 「この度命じられた役目を勤めるときにやましいことをするのだろうと、私の心底を疑わしく思って、前々の御役人にはご命じにならなかった誓紙を私に命じられたのでしょう。お上より疑いをかけられて勤めるのは不本意ですので、御役を辞めさせて下さい。御前より役職を命じられながらそれに違背する申し出を私を無調法と思い、身帯知行を取り上げられることは仕方のないことです。この旨を御前へお知らせ下さい」と言いました。 それに対して御横目が次のようにお応えになられました。 「それはあなたの勘違いです。御前の御目先(※見通し、状況判断)をもって役職を命じた人の本心を疑わしく思って誓紙を上より命じたのではありません。御役を命じられた人は、その御役を陰陽の私なく正直に勤めますという心底の思いを顕して、それをお目にかける方法がないので、その証拠を書面に顕し提出することが主人への礼儀となるのではありませんか。また、自身の心に怠りないときに血判の誓紙を提出する事である。たとえ誓紙を千枚差し上げても、何役に就けて下さいと御願いしても、心底が疑わしいと思われれば、望みの御役に命じられることはありません。このことを真剣に考えて、列座する御役人も血判したのであって、辞退することなく血判をするのは当然のことと思います。」 と御横目が教えてくれたので、その道理を理解し血判を行ったそうですと昔の人の話を聞きました。

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