mark 【口語訳遠野古事記】五節句・八朔などの礼廻りの事

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一、元禄七、八年(1694~1695)の頃まで五節句・八朔(※陰暦の八月一日に行われる稲作の進行にともなう行事)の他に月次(ツキナミ、※月ごとに催される会、家臣が主君に揃って挨拶する日)にも御役人および五十石以上の家臣達は、継肩衣(ツギカタギヌ、※肩衣と袴の色合いなどが異なる上下)を着て御家老中と近い親類へ当日の礼廻りに行き来していました。元禄の末に不作の年が続き世間が困窮して以来、だんだんこの習慣がなくなっていきましたが、享保の中頃までは五節句・八朔の礼廻りは御年始のように廻っていました。  御前が遠野に不在で留守の時は年始のほかは城で御礼帳に記帳しなかったので、登城はしないが敬礼の意をもっている人は御台所に行き、当番の人に御祝詞を述べて、御祝儀・御菓子・御酒をいただいて下城する人が稀にいました。  近頃は年頭・端午以外の節句が昔の月次よりも礼廻りの行き来が少なくなったのは、世の中が困窮しているからと云う人がいるけれども、結局昔より人情の実義が薄く、礼の道が無くなった風俗に変わったからだと思います。  私が壮年の頃に聞いた老人の話では、「五節句には御主人の家は云うに及ばず、政治に携わる御役人、親戚、他人の隔てなく互いに行き来して「目出度」と祝詞を言い、盃を取り交わすのはその家だけを祝うのではなく、主君の吉祥を祝う敬礼の意も込められているので、月次にも礼廻りを務めて来ていた。近くに例えて言うと、御上に御不幸があった年であれば五節句の礼廻りを止め、間近な親戚でも不幸がある家には行かず、自分の家に不幸があれば自分も外に出ず、他人も来ないというのが礼廻りの根元であることを知るべきである」と語っていたことを若かった私は聞き捨てにして心に止めてなかったのですが、年をとってから思いだしもな話であったと思いました。 【他出の際の道具立ての事】 一、昔から遠野南部家が城下にお出でになる時、行列の御道具立ては対の道具を持たせられたので、直栄様の代までは盛岡の城下にて以前からのしきたりに合わせていました。  大守山城守重直様の代にも直栄様が御用席へ出勤し、度々重直様の御前にお出でなされました。ある時、殿様である重直様がお話のように仰せられたのは「高知衆(タカチ、※高い知行をもらう身分の高い武士)の中に我等と同じように対の道具を持たせる者を見かけたことがある。君臣の差別を知らない不作法である。直栄はどう考えているか」と当て付けの意見を述べられましたが、「やめるように」とはっきり言ったわけではなかったので、直義様は気にも止めずに挨拶されました。  またその後に同じことを仰せられたので、家の格式においても、殿様の意向に沿わないことを無理に行うことは君臣の別をわきまえず災いを自ら招き主君に対する礼を失うことになってしまう。しかし「対の道具を控えるように」と表立って命じられたので一本引いたとなると、世間の外聞が宜しくない。且又それが永きに渡って遠野南部家の格に成ってしまうのはいよいよ心外で残念なことであり看過出来ないので、城下への通常の往来は対の道具を一つにして、定まった作法がある時は対の長柄の槍を先頭に持たせるやり方ならば差し支えないだろう。もしそれでもお咎めの御命令があるならば、家格を何度も主張しようと考え決めていましたが、それ対して表立って御命令もないので通常の外出の時だけ一本控えるようになった、という老人の昔話を聞きました。 附箋に 六日町裏に楮(コウゾ)畑と呼ばれる畑があり、紙を漉くのに必要な楮が植えられていた所です。  このような問いがありました。 諸家の御家老、御用人、御留守居(ルスイ、※幕府と諸藩との公務の連絡等を務めた役職)等が病気にかかり、江戸市中のを行き来する勤めを果たせない人は、御主人様より駕籠を乗物にする許可のお願い書を御用番御老中様に差出して、お許しの返事があってから、その人は御目付様の御宅に参上し、起請文に血判を押してあげることが公儀のきまりとなっています。  宝永三年の春、備後守信恩様の時代に先代様が慣例により差し出された御願書誓紙の写しは以下の通りです。 覚(※覚書=契約の当事者が、契約の解釈を明らかにし、これを補足するために取り交わす文書) 乗物 家老 毛馬内九左衛門 今年五十二 駕籠 用人 葛西 平左衛門 今年五十六 以上の二人は私の家来で江戸に派遣し用事を申付けている者達なのですが、近ごろ病気にかかってしまったので、馬上(※馬に乗って戦場を駆けること)ばかりでは仕事を勤めることが出来ません。そこで乗物として駕籠を許してくだされますようお願い申し上げます。 三月二十七日 名前なし 南部備後守御居判(※備後守花押) 戸田山城守様 お願いの通りにお許しが出たので、先ほどの二人は四月末日に阿部式部様の御宅に参上し誓紙に血判を押しに行きました。その紙面は 起請文前書 私は戌年の今年何歳になり、病気にかかってしまったので主人である南部備後守方から乗物として駕籠を使うお許しのためのおことわりを申上げております。この内容に偽りを申上げたならば これより牛王罰文(※約束違反の罰) 年号何月何日 家老 血判 御目付衆 皆様のお名前 以上の通り誓紙を提出したので、殿様から御使者を遣わされ、干鯛一折・樽代五百疋(※一疋=十文)、式部様へ家来二人、祐筆一人に貮百疋ずつ差し上げられました。 御用番御家老中様、目付様二十一人のお宅へ二人(※毛馬内と葛西)が持参した口上書は下の通りです 覚 小奉書半切紙 (何藩)家老 名前 (何藩)用人 名前 以上の二人は今日、阿部式部様の御宅において誓紙に印を押すことを仰せ付けられ、有難き幸せと存じます。そのお礼として式台(※武家屋敷で、表座敷に接続し、家来の控える部屋)までお伺いいたしました。以上です。 何月何日  宝暦十年辰正月 公方様は左大臣に転任され、大納言様は左近衛大将の兼任を天皇から命じられた時(家重将軍は右大臣に転任、跡継ぎの家治権大納言は右近衛大将の兼任である。本文のこれは誤りである)  殿様(大膳太夫利雄様の時代)が盛岡に在国なされたため、お祝いの言葉を述べる使者を義顔様に仰せ付け、二月二十二日に盛岡を出発され、三月三日に江戸に着かれ、以後江戸市中の往来の乗物が許されたなりゆきの伝聞は以下の通りです。  三月七日、御用番御老中堀田相模守へ御留守居吉田七郎兵衛が殿様からの御願書を持参し、差し出した紙面の写し 私は一門の八戸彌六郎と申す者を御上への御祝儀を献上する使者の為、その地へ差し遣わしていました。今年で辰三十五歳になります。知行は壹万貮千七百石余りとらせております。乗物の御許しのお願い奉り、都合が悪いとお思いにならなければ願いの通りに仰せ付けられたく存じ申し上げます。以上です。 二月二十五日 御名 この時、七郎兵衛が相模守様の御家来へ申上げた口上書の写し 覚 南部大膳太夫の家来の内、現在乗物を許された者はおりません。以上です。 留守居 吉田 七郎兵衛 三月七日  同十日相模守様より七郎兵衛が呼び出され、仰せ渡された書付の写し 南部大膳太夫家来 八戸 彌六郎 乗物使用許可の届け出は、願いの通りにさせます。誓詞の必要ないので御目付へ使用届け状を差し出すように。  同十一日御目付の皆様へ七郎兵衛が持参し差し出した連署使用届け状の写し 一筆申し上げます。私は一門の八戸弥六郎と申す者、この度は御上への御祝儀献上の使者として江戸に遣わされました。今年で辰三十五歳になり、知行は一万二千七百石余り取らせております。乗物使用の許可を頂きたく、そのために斯くの如くお願いを謹んで申し上げます。 二月二十五日 御名(※南部大膳太夫利雄) 御目付中様御連名(※御目付の役職にあるすべての名前) 以上の通り御届状が滞り無く受取られ、乗輿(ジョウヨ、※輿などの乗物)を使用してよいという旨を直接指示されました。  同十一日、南部家屋敷の在番(※交代で勤務していること)である御家老桂兵庫殿から殿様の指示書が届き、義顔様は麻の上下を着用し、御殿に出向かれたところに殿様の仰せ出された旨を兵庫殿が義顔様へ申し渡した控書の写し 覚 八戸 彌六郎 そなたが江戸において乗物に乗る許可を仰せ上げられたところ、願いの通りに命じる間は乗物に乗る事を許可する旨を仰せられました。 三月十一日 兵庫殿が申されたことには、御目付の浅野内膳様に自分から贈り物を渡すこと、もっとも御目付様へは残らず全員廻ること、御用人の中で御留守居たちに問い合わせ指示を得るように申されました。 御目付衆の名前は 桑島図書様 瀨名傳右衛門様 典淵勝次郎様 太田三郎兵衛様 鵜殿十左衛門様 浅野内膳様 大久保荒之助様 三枝帯刀様 大岡吉次郎様 新見又四郎様 西丸御目付 竹中彦八様 天野三郎右衛門様 京極兵部様 小菅伊右衛門様 細井金右衛門様 萩原主水正様 以上の御本丸の御目付十人の内、新見又四朗様へは(浅野内膳様の書誤りか)御太刀折紙(※由来・鑑定書が付いた太刀)・干鯛一箱を持参するようにとのことでした。  以上の通りに承っていますが、昔は直栄様も江戸において乗物に乗ることを許されていたという話を聞いた事があります。初めて江戸に登られた時から許されていたのか、その頃の殿様からの御願書の先例にならって、義顔様の乗物許可書を差し出されたのか、宝永年中の御願書とは文体が違うように見えます。義長様・利戡様・信有様も江戸で乗物に乗る許可をもらったのか、どれも私が生まれる前の出来事なのでわからず、老人に尋ねてもわからなかったのですが、いかがでしょうか。  私は次のように答えました。直栄様が乗物の許可を頂いたのは初めて江戸に登られた時ではありません。寛文六年十二月六日、南部二十九代の御家大膳太夫重信様が盛岡藩の相続を命じられた時、御老中阿部豊後守様から重信様へ家来の八戸彌六郎・染戸勘左衛門(○染戸は漆戸の誤りである)を連れてこられるように命じられました。そこで翌年正月四日に江戸から飛脚が到着し、二十七日に二人は出発され、二月八日に江戸へ着かれました。二月十二日には殿様から北條安房守様を通して彌六郎様の乗物の許可の御願を仰せ上げられたところ、御願の通りに許可が出て、二月十五日に公方様への御目見えも首尾よく勤められましたとばかり次の記に書かれているように見えました。殿様からの御願書の紙面も御誓詞の有無も見当たらず、詳しい昔の話を聞いたこともありませんでした。  義長様・利戡様・信有様の三代の中に、義長様は証文御番(※幕府の人質として江戸の在住を義務付けられた人)以来八度ほど江戸へ登られたと聞いているが、この時代、私が生まれた年の六月に亡くなられ、且又長生きしましたが乗輿の事は考えも付かず老人へ尋ねもしなかったのでわかりません。古い記録にも見当たりませんでした。  利戡様・信有様の二代は乗物許可をお願いした話もなく、馬上にて勤められていたので、義顔様の乗物許可に御願並びに御誓詞が必要なく、宝永年中の御先例と違うのは南部家一門と御家老・御用人とは品格が違う身分故の事なのだろうか、又は時世の風俗だからか、公儀の事情をよく知らない私は知る由もありません。

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