mark 【口語訳遠野古事記】軍役奉公、肝要の事

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【軍役奉公、肝要の事】 一、直栄様が遠野へ引っ越す時にお供した家士も、後から引っ越してきた者も、身分の上下にかかわらず、誰もが乱世からあまり時が経っていない時代の人達なので、軍役の御奉公を最も重要な事とする心構えで衣食住での贅沢はなく、軍用の支度金を身分相応に貯え、畳の上での応対を立派にする振る舞いを好みませんでした。  御陣立の時に御供として出陣する時には、惰弱(ダジャク、※気が弱い)の様子を他人に見せず、主君の前に進み出でて潔く討死する御奉公こそ武士の本意であると、軍役の勤めを最も大事とする心構えだったので、自分で役馬(ヤクウマ、※公用の馬、軍馬)を飼い、爪髪(※馬の「ひづめ」と「たてがみ」のこと)の手入れや乗馬の訓練を怠らず、鑓・刀・脇指の拵えも外見の装飾を好まず、刃に錆が出ないように毎朝ふき拭い、高知衆(タカチ、※高い知行をもらう身分の高い武士)は云うに及ばず百石の侍衆も実戦の場に連れていこうと思っている若党(※馬に乗る資格のない軽輩の従者)を常々大事にしていました(五十年程前までは百石取衆の家には全て譜代同然の若党が一人ずつ召し仕えていたのを見たことがあります)。なおさら新参衆は出世したいと思い奉公していたので、御譜代衆に笑われない様にと心がけていた、と私が若い時、老人からこの話を聞きました。 【御家中、手作地耕作の事】 一、八戸では前々から家臣に与える知行の配当は、身分の上下にかかわらず共に住所の近辺に手作地(テサクチ、※主人自ら農耕具を取って耕作する土地)が割り当てられたそうです。その事情は、陣立ての御奉公を第一として、身体の丈夫さがなくては勤まらないという理由で、下僕(※使用人)を置いている身分の人でも平日勤めの非番の時に手作地の田畑に自ら出で鋤や鍬を取り、下僕等と一緒に働き風雨冷暑に身を晒し、馴らして筋骨を堅めたので、野陣の小屋に寝起きをし、野原の伏兵・夜討・夜軍に出ても雨露による病や風濕(フウシツ、※漢方で風や水によって筋肉・関節などにおこる病)にかかることはなく、健康で相応の武功を立てることに差し障りはありませんでした。  また、手作りの粟・稗・麦に交(カラ、※「カテ」の間違いではないかと思われる)を入れた焚飯(※蒸した米を干した物)を朝夕食べ馴れていれば、陣場にて兵糧が乏しい時でも焚飯を食べても腹に障る事はなくなります。このようなことがあって、男子は幼年から農業の仕事を武士の振る舞いと心がけ、手習いや文字の読み方などは父兄も励まず、ないがしろにしていたので、学が無く読み書きが出来ない侍が多かったのは前述の風俗だったからです。  直栄様が遠野に引越しされてからも、八戸でのように諸士の知行は御譜代・新参たちに横田近所に手作地を割り当てました。私が幼年の頃までは新田・中舘の御両家をはじめ身分が高い人達にも手作地があり、その方々自身が農業をしているところを見たことがありませんが、秋になると手作の穗物を他の屋敷へ運んでいくのを見たことがあります。 【草鞋・馬沓の事】 一、昔の諸士は出陣、上洛のお供をする時、商売の草鞋(ワラジ)や馬沓(ウマグツ)がなかったので、召し連れている下僕につくらせていました。何か支障があった時の心得として歴代の身分の高い人達も作り方を習い自身で作れるように覚えていたそうです。 【役馬世話の事】 一、役馬持候衆は、身分の上下にかかわらず下僕を相手にして自ら馬を可愛がって手入れをし、馬の足をお湯で洗い、朝夕昼の飼料の大豆、水なども下僕に命じ、自分の目の前で飼育していました。朝か暮れか一日おきに自身の乗馬の訓練を怠らず、爪髪も自身で手入れしていたそうです。  八戸から引越しても前述した通りなので、新参衆も同じようにしていたそうです。私の外祖父である中舘金左衛門の老母は澤里主膳殿の娘であり、父主膳殿が乗馬の世話をしている様子を幼少の頃から見馴れていたので、中舘家に嫁入りしてからは金左衛門が盛岡当番で留守の時には役馬の世話を下僕に指示して、飼料を与える時間に下僕が間に合わない時は自ら与えていたのを私が幼年の頃見たことがあります。  以上の三ヶ条の古風(※古いしきたり)を現代のものと比較すると大いに変わった世の中になりました。 【無筆から手習い奨励の事】 一、乱世時代、どこの国の事かわからないが、隠密の御用を命じられた祐筆(※文書・記録をつかさどる職)を手討(※主君が不都合のあった家来を斬ること)にした大将が二、三人いたという噂が世間に流布して、手習い好きの子供を持つ祖父は仰書(昔は祐筆を仰書と言っていました)に選び出され、せっかくの命を捨てるより読み書きが出来なくても長生きすることが幸せなことだ、絶対必要ないと子供を制して習わせませんでした。  太平の世になっても其の風潮が世の中に残り、直栄様が八戸におられた頃まで子供の手習いを制していましたが、生まれつき手習いを好む子供は父兄の目を盗んで優れた能書(※字を巧みに書く人)になる人もいました。  八戸から引越して来た諸士は、遠野でも子供に手習いを勧める父兄がいなかったので、私が幼い頃までは読み書きが出来ない人達がいました。それ以後の父兄は手習いを勧め、嫌がる子には厳しく叱って習わせていたので、今の世の中は字が下手でも読み書きが出来ない人は稀になりましたが、能書といえる人は見ませんでした。  享保年中の頃まで毎年、宗門改の時期には若い無役の諸士・部屋住みの者達に筆跡の善し悪しによらず、手慣れている者と初心者を組み合わせることを命じ、生死者・来住者・転居者の差引勘定の計算用の控えと清書された人別帳(※江戸時代の戸籍)を書かせていました。その日数は二十日程度で片付き、その後に奉公衆から人数と出費の差引勘定の目録が報告されなかったので、作成者は筆・墨・紙の費用をいとわず必要なだけ受取り、手習い同然に書いていたおかげで、字がうまくなり、計算も出来るようになり、太平の世相応の仕事を勤めました。 一、遠野の昔は、出家した者も医者も家々に伝わる学問ばかりに情を入れ、儒書を読む人は稀だったので、なおさら家に儒書がある人はいなかったそうです。其の時代より後になると少しずつ御家中の風俗に、読書事を知らないのは自分の仕事にも御奉公にも差し障るという気持ちが出て来て、十二、三歳の子弟を優秀な能力と知力で有名な寺院へ頼み遣わし、手習い・物読みを習わせていましたが、儒書は殊の外難しく幼年の子は退屈で学問に差し支えるので、『庭訓式目』・『今川状』・『手習状』・『無覚悟状』等の行文字の古状(※行書で書かれた鎌倉時代以来の教育書のことか)を読み習っていました。  義長様は幼年より御証人(※江戸時代人質として留め置いた大名の重臣・妻子)の番に江戸へ度々登られ、一年ずつ勤めていました。生まれつき学問を好んでいたので、江戸にいる時儒書は林家、軍書は堀山宗閑(武田流軍者)から講習を受け、国元でも儒書は栗山雖失老、軍書は臼井仁右衛門殿・明石甚九郎殿(両人とも甲州流)から習い、和漢の儒書・軍書・板行(※文字や絵を版木に刷ったもの)の書籍を数多く求め、表奥の御居間(※表は政事をする部屋、奥は私生活の部屋)に見台を置き、政務や来客がいない合間に昼夜ご覧になられました。しかし御家中の衆には昔の風俗がいまだ残り、儒書の素読を師範する人もいなかった時、津軽浪人の江田勘助が召し抱えられました。  この人は儒書を読むことが出来るけれども前述通りの風俗なので指南を得たい人達がいませんでした。そんな所に、私の父市郎左衞門が幼年の時に勘助から小学(※中国の初期王朝の夏・殷・周三代の学校で八才以上の子供の教育に使用された学科)・四書(※大学・中庸・論語・孟子のこと)・古文(※秦漢以前の散文)などの素読を習ったのが、遠野で子供が儒書を読み習うようになった始まりだそうです。  その頃より遠野の寺院、医者達も儒書を読むことが段々出来るようになり、其の中には講釈をする学者もいました。また、儒書の文義(※文章の意味)を和らげ、ひらがな・カタカナに書き直した色々な書籍を商売する者が来るようになったなど、いよいよ儒学が流行り、幼年の子も儒書の素読に専念して在町の子供以外は今までの往来物は読まない風俗になりましたが、私が壮年の頃までは、遠野には五経(※儒学の基本文献)・史記(※司馬遷の著した歴史書)・左伝(※春秋時代の歴史的事実を書いたもの)等の書籍を持っている人は珍しかったので読む人もいない様に見えました。しかし、今の世は幼年の子でも五経・史記・左伝を素読する人が出て来て、昔の人に比べれば博学者のように見えますが、幼年から和国(※我が国)の古状(※教科書)を読まず行文字を見馴れていなかったので、日用の文字を使うのがうまく出来ない人が時々いました。  儒学が流行る前の遠野は、御家中の武士も在町の人々にも仏道が流行り寺院の人から経文を習い、仏法の教えを聞き、次第に修行の成果が表れ悟りを開いたと認められたのは誰々と指を折って数える人もいました。竃の世話(※主婦権)を嫁に譲り、苧(オ、※麻の古名)の糸を紡いだ紬糸を退屈な日々の慰めとする老女達も和尚達から仏道の教えを聞いたり、かな仏書、かな法悟(ホウゴ、※仏の正しい教え?)などを人に読ませて聞いたりする寄合が度々あったのを私が幼い頃まで見ました。  其の時代では仏書、法悟を求めて手元に置いていた人の子孫が持ち伝えている家がわずかながらおり、その後に儒学が繁昌してからは、御家中の男女共に数珠を持つ人もなく念仏を唱える人もいなくなりました。今もって在町には仏法が残り、念仏講等々の寄合があると聞きますが、世の中の風俗は昔と今ではこのように変わってしまいました。

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