mark 【口語訳遠野古事記】諸役方の事(つづき)等

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【諸役方の事】(つづき)  義長様が御成長されて、直栄様が仰せられたことは「私は数十年来御城へ毎日出向き勤め、遠野南部家の政事をおさめてきたが、あれやこれやとやることもなくなったので、自分の政務は其の方へ譲るのであらゆる事に気を付け適切に執り行うように」と申しました。また「屋敷詰めの奉公人たちにはきまりが特に無く、今の世の諸家の風俗と違い古風であると気付いていたのだが、新田家から養子に入ってきた私は昔からの家風を改める事に遠慮して今まで自分の考えに従うことが出来なかった。しかし、其の方は私とは違い、当家の生まれなのだから、遠慮はせず時代に合ったきまりに改めよ」ともおっしゃったので、義長様は「畏れ多きことでございます。思慮致して追々窺(うかが)い指示をお受け致します」と仰せ上げられました. しかしそれ以後、御改の御沙汰もなく三年が過ぎて直栄さまから催促があったので、義長様は自分の考えの趣旨を直栄様に窺ったところいづれも同意をもらい、直栄様は自分の考えの通りにするように申付ける旨の挨拶を義長様にしました。  続いて改正する数ヵ条の内、側に召し仕えられている役を「御次衆」として、御小姓とわけるように仰せ付けられました。また、御小姓も十七、八歳の頃に前髪をとり「御次衆」に加えました。そのほか御小姓の中から御茶の間にも五、六人ずつ「中小姓」と称す役職を定めました。武具蔵を御預けになられた人は「小道具頭」と称し前々から御高別当預かりの手明(※長屋居住の使用人か)である御小者共を小道具頭の支配に置くよう仰せ付けられました。「御祐筆」も筆跡を吟味されてから定役を仰せ付けられました。  他出する時の御供や内丸の外側の人数のきまりを仰せ出され、御駕籠脇は御次御茶の間詰の者を、その御先供(※行列の先頭に立ってお供する家士)には御徒衆を召連れるようになったので、御徒の人数が減ってしまいましたが、「御徒頭」という役も仰せ付けられました。  五十石以下で役職をもたない御番組(※警護・宿直)並びに御屋敷詰の御奉公をしていない部屋住(※家督を相続しない)の嫡子を盛岡へ見習いとして暫(しば)し御徒見習いを仰せ付けられました。御徒には御家中の二男・三男を召し出され朝夕の支度(※食事)は盛岡御屋敷勤めの者たちの膳の間ではなく、御徒膳の間という御台所の前座で御同心以下と同じ下白米の食事をいただいていました。勤め中に算筆・馬術・医術等の芸事に精を出した者、或いは才知の器量が有る者を執り立てて相応の出世を仰せ付けられたので、だれもが日頃の行いに気を付け、志(※心を決めて目指していること)に励むようになりました。  義論様の御代、小沼仁右衛門という御目付(この時から御徒頭の兼任を仰せ付けられました)が勤めていた時、執成(※勤務態度)によって食事も中白米に直し、遠野へ洗濯しに行く御暇も春秋二回与えられ、しばしば「から尻」と呼ばれる盛岡藩の公用の馬を貸してもらえたという老人の話を聞いたことがあります。利戡様の御代では御徒の人数を又々減らされ、それ以来食事場所の膳の間も盛岡御屋敷勤めの者たちと一緒に支度するよう仰せ付けられ、信有様の御代では御徒を「御先供」と称するように仰せ出されたので御徒の名目は途絶えてしまいました。 【御供勤めの際の衣服等の事】 一、今の人達が聞いても本当のこととは思えない古い話があります。  直栄様の御代で、江戸へ登る旅行の時、雨天でも御供の上士・下士には紙羽(紙合羽であろう)を貸してもらえなかったので、雨が降った時は、行きがかりの宿で空の俵を自分用に用意し、真ん中を頭が入るぐらいに切って着用していたそうです。其の頃御供を勤めていた御徒の中で歩行が達者な人が銭三百文を腰に下げ、十二日の道中を御供として不足なく勤めたと語っていたという話を聞いたことがあります。  義長様の御代になると盛岡城下へ外出する時、雨天の場合は上士・下士の両方に紙合羽を貸してもらえるようになりました。御駕籠脇の内、松田忠右衛門・中居林茂太夫(現在の御用人)だけは木綿合羽を着用していたそうです。  同じ時代では、幕府に関わりのある寺院を廻る幕府の御役人様が、毎年江戸から盛岡へ御下向した時に逗留する旅宿を御前が見廻る時だけは、御駕籠脇の御供衆は何れも絹衣装を着ており、その他の盛岡城下の御供は規則で定められた外出でも木綿衣服で勤めていたので、なおさら御徒衆は御貸羽織の他に自分で絹羽織を用意して着ることはありませんでした。そんなところに義論様の御代の時、御徒で菊池藤太夫(後に医師として名前を道徹と改名)が古着の単衣の絹羽織を用意して外出の御供に着させて栗石前に出たところ、御屋敷当番の御目付類家新左衛門が「誰の指図で其の羽織を着ているのか、早々に着替えてくるように」と叱られ、面目を失い長屋へ走り帰り木綿の縞羽織を着て御供をしたという話を藤太夫本人から聞いたことがあります。  このような風俗なので私が二十歳過ぎるまでは、遠野において小身衆も絹の衣装は御前から拝領したものに限られ、其の外の者は家が豊かでも自前の紬を晴着にしていました。家紋が付いた絹着物を着る百石以下の諸士も稀であり、大部分は木綿の衣服だけを着ているのを見たことがあります。 【住居、座敷の呼称等の事】 一、直栄様が八戸におられた頃、御家中では座敷を「亭」と呼んでいたそうです。遠野に引っ越しなさっても御譜代衆の家ではそれを申し伝え、私が十五、六歳の頃まで老人の方々はお客が来れば「亭へお通しするように」と言っていました。「客を四間の亭へ招き入れる」と浄瑠璃で語られるように、昔はどこの国でも座敷を「亭」と呼んでいたのではないだろうか。  盛岡御屋敷では御徒衆の手水(ちょうず ※洗面所・便所のこと)・洗足(せんそく※足をすすぐこと)・月額(つきびたい※成人男性が額から頭上にかけて髪を剃ること)等をする御長屋を「御亭」と呼ぶのも、其の手水湯を沸かす当番の御小者を「御亭番」と呼ぶのも八戸で呼んでいた言葉だそうです。昔は御中間の人数が大勢いて暇な者もあり、御中間たちがいる御長屋を暇を意味する「手明」と呼ぶのも八戸での呼び方だったという老人の話を聞いたことがあります。  八戸にいた頃から御茶の間という御座敷がありました。御家中でも身分の上下にかかわらず玄関から入口の座敷に炉を切り、流し前(※流し台)が付いた「茶の間」と称したものが家ごとにありました。この座敷は客を招いた時に炉で亭主自ら湯を沸かして抹茶を用意する、或いは茶を煎じてお客へのもてなしとしたそうです。  流し前は宿泊客の手水所として使っていました。乱世時代は放火の災難も多く、かつまた武士は誰もが今日限りの命と思っている精神なので、家のつくりが風雨を凌ぐことだけに用心した小さい住居で客との出会いも茶の間で応対する風俗が太平の世に成っても暫く残り、八戸より引き移ってきた御譜代衆は遠野の居宅のつくりにもこれを用いて、見習いの新参衆の家でも元禄時代以前のつくりのものには茶の間という座敷がありました。 【遠野御引越ころの家臣居宅の事】 一、直栄様が遠野へ御引越しされてすぐの頃の事か、新田市良殿の御宅では座敷に敷く縁付の畳はいつもは箱に入れて蔵に入れて置き、位の高い人が来た時だけは敷いていたそうです。中舘・澤里の御両家も御家老衆の座敷にも畳が無かったので、位の高い人が来た時は新田殿の畳を借りていたそうです。其の畳の箱はとても大きな箱で新田殿の蔵にあるのを私が幼い頃に見たことがあります。高い知行の家でさえこのような状態なので、百石以下の居宅は言うまでもないでしょう。  六十年余りまでは、い草表の三枚裏縁なしの莚(ムシロ)でも売り物として無かったので、百石前後の家でも座敷に縁付の畳を敷くところは稀であり菅莚(スゲムシロ)の縁なしの物ばかり敷いていました。なおさら小身衆の家ではほとんどが礎石を持った柱は無く、掘立柱の家になっており、客をもてなす座敷にも板を敷いていませんでした。外から家内への入り口には板戸がなく萱簾(カヤマ)を編んだ廻し戸を付けて開閉して、明り取りの窓にも連子(レンジ ※窓に取り付ける格子)が無く、薦(コモ ※草やワラを粗く編んだ莚)に小石の重りを付けた縄で開閉する家を私が十四、五歳の頃まで本町丁で二、三軒あったのを見たことがあります。  今の世の中は御扶持切米取(※知行地ではなく蔵米を給与された藩士)の小身衆も村や町の家もほとんどが台所まで板を敷き、戸障子には連子を付け、座敷に縁付きの畳でい草表の三枚裏を敷いて置く世の中の風俗になり、昔とは大いに変わってしまいました。  三、四十年以前までは門塀がない諸士の屋敷は身分の上下にかかわらず表通りから屋敷への入り口を小升形にして、しおり柱と称し、大きい丸木を門柱のように左右に立て、その上に横木を載せ、扉の代わりに細い木を格子状に組み、それに荊を厚く取り付けてしおり柱に樞(クルリ)付け、杈木(マタクリ ※Y字形の棒)で開閉していました。これは戦国時代の陣場の門口に使っていた昔の習慣であるという老人の話を聞いたことがあります。 今でも御家中の屋敷には皆しおり柱を建て置きます。しおり戸のある屋敷は福田殿の屋敷の他に見ることが無くなりました。戸を閉めない太平の世時代の証拠と言えるのもしれません。

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