mark 【口語訳遠野古事記】隠居・殉死御停止の事と縁組、前髪立ての事

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一、御家中において身分の高い者も低い者も共に、番方(※主君の身辺警護など)を勤める年ごろの子供を持ち、かつ自分が御奉公出来ない老人でも、隠居の願いをだすことを停止させられたせいか、自分から願い上げることはありませんでした。 直栄様が御逝去された時、直栄様が御存命の節に特別有難い親切を受けた御恩があったのか、年ごろの子供がいる老人たちの内、飛内露心(ろしん)・七戸宗智・宇夫方即庵・木村安齋・松田夢玄らが主君の死後の冥福を祈るために剃髪の願い上げを出されたが、隠居は許されなかったので、御支配帳に剃髪された人達の名前が記載されているそうです。 老人の隠居が許されない理由は、子供が家督を継いだ後に過ちを犯し、身帯(※知行などの領地)を取り上げられてしまっては老親に迷惑がかかってしまうからです。老父が家主であれば其の子を跡継ぎから外すだけなので、その家が無くならないようにするための厚き御慈悲の思召しによるものであるという老人の話を聞きました。 利戡(としかつ)様の時代からは番方を勤めることが出来る子供がいる老父へ御主君から隠居を命じられることもありました。其の中で人首(ひとかべ)與三右衛門はそれほど年寄でもないにもかかわらず、病身で御奉公を勤められないので隠居を命じられました。そして、其の子供である諸右衛門が二十石の家督を命じられたところ盛岡御屋敷勤番中に乱心して自殺してしまったので、身帯を召し上げられてしまいましたが、この出来事の前から與三右衛門の弟である與五兵衛が数年間御納戸役として勤めており、御扶持方家屋敷を与えられて人首家の別家となっていました。そして兄の介抱のためということで與五兵衛に十石を与えられ、諸右衛門屋敷は別の人に与えられました。 一、 昔は主人から抜群の恩義を得ていた奉公人は、主人が存命の時から主人が亡くなった際は殉死しなければならないと申し合わせていました。主人が亡くなった時に殉死すれば主人の誉(ほまれ)になり、自身も忠義の武士として褒め称えられて誉れの名を残すだけではなく、其の子供に褒美として禄高を増やしてもらえました。殉死する侍がいない主人は死後の恥辱となり、殉死する侍が多い程誉れとなる時代の風俗だったので諸家にもっぱら流行りました。 四代将軍家綱様の時代には殉死することが停止になり、以後は剃髪願いが流行り風俗と成りました。直栄様が亡くなった時に五人の老人が剃髪したという老人の話を聞いたことがあります。義長様が亡くなった時も剃髪を願い出る人がいましたが、許されなかったので、それ以後は主人が亡くなった時に願い出る者はいなくなりました。 ところが常穏院様が御存生中の時に数年御奥役(※主君・夫人・子息に仕える役)を勤めた是川杢(後に空心と称する)、米内彌太夫(後に性空と称する)、大町平右衛門は常穏院様が亡くなった時に剃髪を願い出ましたが、杢・彌太夫は番方の子供がいる老人だったので願の通りお許しがでて隠居を命じられました。平右衛門は番代を勤めていましたが子供もなく老人でもなかったので、お許しがでませんでした。 剃髪が流行っていた時代では町人も領主様にお目にかかることができ、領主様が亡くなった時はそのことを知り次第剃髪を願い出る風俗だったそうです。当時でも六日町常圓・常眞などという老坊主を私が若い時に見たことがあります。 義長様の時代の頃までは世間の風俗であったのだろうか、御主君が亡くなった時まで数年草履取りをしていた者は御葬礼のお供をし、以後法体(※坊主頭)を願い上げ、大慈寺の弟子に成り、僧としての器量によっては寺院の住職になった者もいました。(青笹村喜清院の住職積玄和尚は義長様の草履取りでした) また老親を養う兄弟がいない者は法体しても家に帰り、家業で働きつつ、一か月に二、三度ずつ寺に来て御霊屋前を掃除したそうです。直栄様の草履取りをしていた者だそうですが、在郷の古入道を私が幼い時に見たことがあります。義論様が亡くなって以来法体を願い出る草履取りはいなくなりましたが、享保年中に亀徳院様(信有様の御実母様である)が亡くなった時は草履取りが法体を願い上げ、瑞応院の弟子になり、僧としての器量が良かったので、当寺相続の住職になられたことは当時の人達の知るところです。 一、御家中で身分の高い者から低い者、御扶持人に至るまで、縁組は主君から命じられ自分から嫁を取ることは出来ませんでした。中でも義長様の時代までは八戸からお供として仕えていた譜代の家と新参の家とが縁組を命じられていました。これは双方の家が親しくなるためであり、また新参の家の子は譜代の家と同じにするための方策であったという老人の話を聞いたことがあります。 信有様の時代までも縁組は領主から命じられ、自分から願い出ることは出来ませんでしたが、同時代の中頃に重き役職を勤められていた人達の内、嫁とは申上げず養女にしたいと願い上げ、許された者もいました。人を指名しての縁組、願い上げが許されるようになったのは最近の事です。妻離縁の訴えも近年になって出てきたことで以前はそのような事はありませんでした。 一、遠い昔のことは知りませんが、直栄様の時代以来御小姓は、御家中で身分の高い者から低い者、御扶持人の嫡子は言うに及ばず、二男三男の末子をも召し仕えられたので、非嫡子でさえ領主に窺いなく前髪をおろすことは出来ませんでした。容姿の善悪によらず十四、五歳まで前髪を立てていましたが、太守利視様の時代享保年中より、前髪の御小姓は召し仕えられなくなったので、盛岡御家中の御子息方にも前髪を立てる人がいなくなりました。遠野南部家の御屋敷でも信有様の時代の中頃より年若い子を前髪なしで御小姓格に召し仕えられていましたが、御家中の勝手次第で前髪を執るようにと表立って命令していなかったので、嫡子は髪瘡(かみかさ)などが出来たと願い上げ、幼いころから前髪を立てなくなり、二男以下は窺いも無く前髪を立てなくてもお咎めの命令がない世の中に変わりました。現在も前々のように非嫡子まで前髪を立てるならば、困窮の時節にたとえ布子(ぬのこ)の麁服(そふく)であっても人前で着る振袖一つ用意するのは親たちに迷惑がかかってしまいます。享保年中に太守様が前髪を立てた御小姓を召し仕えなかったのは世の中にあった御慈悲で有難いことです。 義論様の時代までは草履取りも前髪を立てていたので、見た目が見苦しくない遠野の町の子は、十四、五歳まで前髪を立て、十六、七歳に成ると町奉行御代官に窺って前髪を取らせました。其の後は前髪を立てた草履取りを召し連れない世の中の風俗に成ったので、利戡様の時代からは草履取りは前髪を立てなくなりましたが、元禄年中の頃まで遠野の町の子も当分暮らしに困らない家の子は十五、六歳まで前髪を立て振袖を着ている人を数人見たことがあります。 一、直栄様の時代には御側で召し仕えられていた御次衆と呼ばれるものは無く、御小姓が召し仕えられていたそうです。其の御小姓は三十歳前後で生えている頬髭を剃った跡が青く見える頃まで前髪を立て、現在の御次衆のように万事の御用を勤めたそうです。 御祐筆(※文書等の執筆・作成)も定役は無く、御小姓の中で麁筆(そひつ)であっても走り書きが上手な人に盛岡への一応の手紙等を命じ、江戸への公用の御書等は盛岡藩の御用書衆へ頼んでいたそうです。御小姓は前髪をとられた日から御徒(おかち※乗馬しない下級武士)に成られ、表向長屋へ遣え置かれたので、御家老廣田太郎右衛門三男小源太(後に一右衛門と称する)は御小姓を勤め前髪をとり御徒に命じられたことを心外として、病身なので御奉公を勤めることが出来ないと申上げ、御暇を願い出て生涯浪人として終えられました。  其の頃御屋敷に常に勤めていた御徒は四、五十人いました。主君が外出する時の御供は御籠脇も御先供(※行列の先頭を立ってお供する家士)も御徒ばかり召し連れられて何人同行させると云う定法もなく、指名されることもなく、御徒中伴(なかば ※御徒に次ぐ家士)との申し合わせもなく栗石(※屋敷玄関前の敷石と思われる)前に出て、今日の御供は大勢いるので長屋へ帰った者もいたそうです。遠野へ洗濯のための御暇もいただけなかったので、常勤ゆえ御暇を願い上げず、病の申し立てもせず四、五人ずつ御屋敷から忍び出て着替えの衣服を呉座(ござ)に包み刀の鐺(こじり)に結い付け肩にかけて歩いて往来していたそうです。其の頃は御徒頭もいなかったので、誰かが近頃見当たらないので病気なのかと尋ねることもありませんでした。性格が律儀な人は呉座包を刀の鐺にかけてかつぎ、主君が御登城の時に栗石前に出て踞座(きょざ ※うずくまる)し、今日遠野へ洗濯に帰りますと申上げるとちょっと御覧になられるだけで、左右への御挨拶もなく通りなされて直に御暇をいただいたと言って早速盛岡屋敷を出て遠野に帰る人もいたそうです。

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