mark 【口語訳遠野古事記】脇指の拵(こしら)えの事と衣服・風俗の移り変わりの事

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 先年、御主君に盛岡御城下火消御番を初めて仰せ付けられた時、火事場へお供し、屋根廻りで動いているたくさんの武士の中に、はしごを登る時に刀の長柄をはしごの段に柄が差し入ったことが見えず、急いで上ったので長柄中程から折れてしまいました。しかし、柄糸を切らずとうとう下りてきたが放心状態で、火が鎮まって帰る時に驚転して糸を切り放し、見苦しい格好で帰ったという話を聞いたことがあります。
 また極寒に凍るぬかり道、五月の長雨で深くなった泥のせいで滑る道を、急用があって走り行く時に躓(つまず)き転び、鞘を打ち破ってしまい、危険な白刃を腰にさして光らせながら行った者を見たことがあったという話も聞いたことがあるので、私の子孫には当時流行の腰の物、衣服の仕立ては無用とひたすら止めたが、表面は承諾の気色を見せて、心の底では古風を嫌い、陰では母のひそひそ話と思っているのは、気の毒ながら時世の風俗なのでしかたがないと思っています。
 
 腰の物の拵えに限らず、衣服も昔とは大いに違っています。昔の衣服は即ち、私が着用している服の様に肩ゆきが短く、袖が小さく、丈はすねが見える程短くなっています。袴も裾が短いものを履き、羽織は働く時に邪魔になるので礼服としてしか着ず、常に着る人は稀にしかいませんでした。旅行時の装束は馬上でも股引、脚絆でかごに乗る身分の高い者たちも野袴を着て、不慮の働きの時に邪魔にならないように戦う時の利便性を大事にするよう心がけていました。
 現代の衣服は丈も肩ゆきも長くして袖は戽(こ ※田に水をくみ入れる農具)のように大きく、袴は足が見えないくらい長くし、家の中でも路地でも不意の事件が起こり働く時に衣服・袴の裾につまずき倒れ、肩ゆきが長い大袖に仕事を妨げられ、日頃の不心懸けをその時後悔しても遅いのです。旅行の装束も身分が高い者たちは言うに及ばず身分が低い者まで馬・かごに乗る時に小袴を着ており、急いで行かなければいけない用事の邪魔になることを知りません。たまたま戦いの利害を祖父・親に習い、野袴を着る人がいれば、「いつ大工になったのだ、侍に似合わぬ浅ましき姿で見苦しい」と、鼻欠け猿が鼻有る猿を笑うということわざのように誹(そし)り笑うのです。
 
 世の中の風俗が変わるのは慶長以来(※大阪の陣以来)、長きにわたり平和な時代に生まれ、武士の心がことごとくゆるみ、戦いの利害を知らないという過ちをおかしています。他人はともかく、自分の子孫のこれからが心もとないことだと気の毒な顔で語ることを聞き、もっともな金言であると感心する気持ちになりますが、私一人が古風に移し変えれば、異相者よ、闇方者よという世間の評判を得て、人との交わりも出来なくなると思い直し、何事も時世の風俗に従い、七十六年の長い月日を送る間に、刃を抜いて働く事件に一度も遭わず、長寿の齢を安全に保った私の幸せを後世の子孫は鏡にせず、平和な世の中でも乱を忘れない武士の魂をときどき磨き、自分の家職を取り失わない謙虚さを願うのみです。
 
 以上の通りに記したように、男の風俗が変わっただけではなく、武家の婦人の古今の風俗も大きく変わってしまいました。天和・貞享の頃までは、年若き婦人は言うに及ばず四十歳前後の婦人も自分の父母が存命している、または自分の産んだ子供がいる間、夫が死んだ時に髪を切るのは、父母に対して自分が変わる姿を見せて悲しみをあたえる礼儀を欠いた親不孝なことで、自分の子供に対しては子供の成長の不吉を招く凶事なので髪を切らず、夫の百ヶ日が過ぎた後は以前のように髪を結い、化粧をして子供の養育に専念します。
 その中に、今日明日を暮すことが出来ない貧家の未亡人で仲人がいれば本意に背くと知りながら、仕方がないとして再縁を組む婦人が稀にいれば、人外者と陰口を言い、誹(そし)り笑う世の中の風潮であったという老人の話を聞きました。
 私の曾祖母は八十余歳まで長生きしましたが、子供等へのお祝いとして毎朝曾祖母自ら白髪を結び白粉(方貝(※あわびの貝)から堅い所を砕き、白い灰に焼いたもの)を顔に付け、二つ三つ欠けた残る歯に怠りなくお歯黒を付けていたのを、幼少の頃の眼に見たのを覚えています。
 私の曾祖母に限らず、その頃の老女は誰でもこの風習を守っていたようでした。中には仏門に帰依して尼になる老女も稀にいたのですが、元禄年中の頃から段々と未亡人の髪を切ることが流行り、夫が死去すると産んだ子がいてもいなくても、自分の親がいてもいなくても構いなく、是非とも髪を切って亡き夫の棺に入れる風俗に変わり、落命の夫の口に水を手向け、その場で髪を切り、寺にお参りする時の外見として貞烈の姿を晒しました。その中で幼少の頃から祖母の語る古風な誠意ある話を自然と心の主とした未亡人は、夫と死別しても髪を切らず、百ヶ日過ぎてから以前のように化粧すると、再縁を望む卑怯な女と非難されました。
 しかし、その言葉の舌も乾かぬうちに年若き未亡人は自分の夫の一周忌、三回忌も過ぎずに、再婚の仲人がいれば一、二度は腹立て顔で辞退するが、強いてとやかくなだめすかされ、心の底で悲しんでいるか喜んでいるかわからないが、親がいる女は親の教訓に、舅姑がいる女は舅姑の教訓にかこつけて、向かい合って切った短髪に添髪を入れて、紅粉・白粉・お歯黒をして初縁の姿に化粧して、幼い我が子は祖父母に預けて嫁入りするのをいささか恥じる気色も見えず、他人も非難しませんでした。
 あまつさえ近年に至っては、夫に死別された時に尼にはならず、断髪して年月がはるかに過ぎた後に髪を剃り、尼の姿になる者も稀にいました。
 昔と今の風俗はこのように変わりました。なおさら衣類の品々、髪の結い方、顔の化粧、私が物を覚えて見ていた元禄年中から現在までの間に、様々な大変わりしたことを一つ残らず言葉にするのはとても難しいことです。
 
 貞享年中の頃まで、武士・町人の妻・娘ともに外出する時は、紅花染の手巾を額に載せ、其の上に袿(うちかけ)と称し一枚の型で染めた麻の袗(しん ※ぬいとりをした衣服)を被り、ふはめかして往来していました。向かい風が激しい時に歩行している女子は、お供の者が後ろから裳(も)を持っていましたが、それの停止が仰せ出されるなどがあったのか、元禄の始めの頃より自他国共に行わなくなりました。
 その時代の女帯は幅二寸くらいの今織地で、笠は竹で網代に組んだ笠を漆で黒く塗り、足袋は紫の革を使っていました。私が幼い頃、祖母が着用した袿・帯・笠・足袋等があったのを見た覚えがあります。津軽領の女中は、今でも袿を被っているという噂を聞いたことがあります。先年に上方へ登った時に袿を被った女性の往来を見たことがありますが、その時は気にも留めず、昔から絶えることなく被られているのか、と尋ねなかったので、詳細は分かりません。                                                                                    <遠野古事記、上 終>

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