mark 【口語訳遠野古事記】鉄砲御停止以前の弓鉄砲の事と博打など慰事、脇指の拵えの事

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一、 盛岡南部家二十八代の太守山城守重直様が閉伊郡をお通りになった時、遠野の城に四、五日滞在され、あちこち見てまわったと伝えられている古い話があります。 しかし、その話の年月を後世で知る人がいないように、三十三代の太守大膳太夫利視様が元文年中(1736年~1734年)に閉伊郡に二度お通りになった時、遠野の一日市町に一宿され、その次には御舘に一宿なされたことは後世まで語り継がれていますが、その話の年号、月日は知らないという事もあるのではないかと思い、次の通りに記録します。  元文二年六月、御当家二十七代弾正信彦様が遠野に入られ、来春まで盛岡藩からお暇をいただいて年越しをなさっている所に、元文三年二月末、太守様が近日大槌にお出でなさるという風説があり、遠野の御舘にお出でになられることを願っていたため、その心懸けをなさっていた所にあらかじめ御用を仰せ付けられていた御巡行の先乗りを勤める御勘定頭工藤與市右衛門殿が遠野に到着し、御舘を見回り、信彦様に「御殿様は閉伊郡にお忍びで御出なされています。三月二日は遠野町に一宿なされるはずですが、お忍びなので弾正は途中での出迎えや旅宿への御機嫌伺いの参上、使者なども控えますように」と申し伝えました。  御殿様の内々の意向を仰せられたので、弾正様は指示の通りになされ、旅宿は一日市町の九平治(今は作右衛門の屋敷)の家に一宿され、翌日の三日の辰の刻に出立されました。  同六年(今年は寛保と改元)六月、御殿様が盛岡から宮古へ御忍びでお出でなされました。お帰りは遠野をお通りになるとの知らせがあったので、遠野の舘にお入り下されるように内々にお願いなさった所、御舘へ入られるとの仰せ出でられたので、御支度のため信彦様は遠野にお出ましになりました。七月朔日に殿様彦九郎(大膳亮様二男)は連れ立って御舘にお入りなされ、一宿し、翌日二日に出立されました。  延享三年七月、若殿様が(信濃守様)大槌へお忍びでお出でなされたので、遠野をお通りの時に遠野の御舘へ一宿なさるよう、義顔様が内々にお願いなされたところ、同月二十六日に遠野へ到着し御舘に入りなされ、一宿し翌日に出立されました。  但しこの時、義顔様は遠野へお出でになられず、殿様のおもてなしは御名代として御家老衆が勤められました。 一、老人の昔話によれば、鉄砲の使用が停止される以前の時代は、桜馬場に於いて弓・鉄砲の吟味の勝負をする寄合が度々ありました。その頃は、射術の免許取りは雪荷流の浅沼小右衛門、吉田流は工藤彌助でした。この両人の門弟大勢集まる寄合には賭銭を貪らず、無益の戯れ、雑談は云うに及ばず咳払いもしませんでした。戦場の危険な場所に臨むように垜(だ ※弓の的を立てかけるために三角形に築いた盛り土)を立ち向かう敵とみなし、みずからの心身の行儀を正しくするように慎み、武術の稽古を大事にするように心懸け、射術を行いました。弓の稽古をしたことがない人も弓が好きな人も交じって射術を行っていましたが、不作法な人は省かれたので、誰もが行儀を慎む真の寄合と認められました。  また、弓は目に見えぬ悪魔をも蟇目鳴弦の修法(※妖魔を降伏させるために蟇目の矢をつがえて射る作法と、矢をつがえないで弓弦をならすこと)を用いて降伏させる威勢貴き武具なので、一族の大将を「弓取」と称することは尤もな事です、と老人が語るのを聞きました。    私が二十歳前後の頃、彌助の門弟で免許取りは馬場九右衛門、新田傳由郎、福田帯刀(たてわき)で、丸馬場において吉田流行仕的という作法の的が有りました。その後九右衛門の門人の免許取りである作田傳七が同じ場所で辻的という作法の的を始めました。二つとも弓の稽古をしたことがない人でもその作法を習うことが出来、大勢が出る寄合の場所へ私も出て射術を行いました。その場所でのきまりはとても厳しいがたくさんの見物人がいました。これ以後はこのような的寄合は無くなりました。  私は三十年程前より腕を故障し弓を引くことが出来ず、以来まったく射場へ出なくなりました。最近の寄合を噂に聞くと、本来の趣旨とは大いに変わり、芝居の傍らに酒樽、盃を並べ置き、遊山・野懸の遊びのように戯れ、雑談、高笑いして規律を乱すのみならず、賭銭を貪り武家にとって重要であるべき弓矢を、下賤者が弄び花札や浮世草子を取り扱うのと同じように見受けられたと聞きました。それは町方の若者たちの遊びの寄合の噂であると思っています。もし武家の寄合が以上の通りであるならば、射芸の本意に背く悪風俗であり、昔とは大いに変わってしまったと言えます。 一、直栄様の代の中頃まで、碁、将棋の遊びは南部などには行き届いていなかったので、「せい」というかるた札の博打が流行り、身分の高い人も低い人も共に遊びました。直栄様も心許せる直参衆を相手として招き、たびたび遊びなされていた時に、大町清助の曽祖父である人首平右衛門(その頃は盛岡家中の御直参でした)がその賭けに勝ちお願いしたものは、麻の上下で、孫の平右衛門の代に九曜御紋付の古肩衣を持ち伝えていたのを、私が若い頃に見たことがありました。  昔も今も身分の高い者をまねる身分の低い者が、盛岡御屋敷から遠野御家中、町方たちにこの遊びを流行らせたそうです。  それ以後、全国で博打の禁止を命じられたが、かるた札の商売には取り締まりがなかったのか、どこの町の店にも出し置かれていたので、庶民は言うに及ばず武家が宿泊している宿でもこの遊びの寄合があり、私が若い頃まではこの光景を見ることが出来ました。なおまた、神社の祭礼場には、ここかしこにたむろして人目を憚ることもなく声高に寄合を行っているが、祭礼を賑やかにするためというお考えが御底意にあるのだろうか、盛岡・遠野共に警固の人達は見聞せぬフリをして追い払う命令もせずに居座っていました。  その頃は「せい」という博打はなく、「加宇」と言われている博打であり、かるた札を蒔く時に人目を暗ます奇妙な腕前の博打打ちがおり、大分銭を取られ、衣装を奪い取られる人がたくさんいるという噂を聞きました。元禄年中の末頃(※十八世紀初頭)に源兵衛という博打の筒取り(※博打の差配人か)が他領より参り、打ち始めてから、祭礼の場にかるた札の博打は見なくなりました。これらの遊びに至るまで世の中の風俗は様々変化してきました。 一、私が二十歳前後の頃、武家の中に刀の柄を革で巻き、鐺(こじり)を鉄で逆さまに輪にして張り、太く長い鞘で、脇指の柄と鞘は短く、表の拵えは刀と同じにしている者がいました。隣の家にも刀を指して行き、自分の屋敷の雪隠(※便所)にも脇指を放さず行く老人が二、三人いました。その中の老人に私は無遠慮に語りました。「盛岡もここもとも今の時代は武家の差す大刀、小刀はどれも糸柄に色々美しい彫り物をほどこした縁頭(※柄の先端)で、鞘も細く普通のものを好むようです。その中であなた様の腰物は大いに違い見かけがよろしくないように見えます」と語れば、老人は大いに笑いながら「治世がもっとも豊かな時代に生まれ、昔を知らないおまえの目から見れば私の大小の拵えをそのように思うのは当然のことである」と答えました。  私の祖父の時代は乱世の熱がいまだに醒めてなかったので、たくさんの人がいる場所での付き合いから喧嘩口論のいざこざの末、やむを得ず真剣の勝負を争うことになり、見事な手並みの立ち振る舞いで討ち果たす侍を意地強き侍と讃える風潮でした。  だから、刃の鉄が厚く堅固でよくとおし、実際に試し切りをしてみた刀剣を好み、表の拵えや外見の装飾を好まず、鞘も柄も丈夫にして、刃も鈶(たい ※錆のことと思われる)の出ない様に怠らず拭きぬぐい、慌しい急用の外出にも大小の刀の目釘にも注意して出かけたとのことでした。  私の幼少の頃から祖父に朝夕申し聞かされていた教訓が心に染み付いている私の目には当時の流行は却って笑いの対象でした。私が若い頃も、治安が安定していたので御陣立のお供はなかったのですが、公方様も諸大名も御陣立の練習としてたびたび鷹狩・鹿猟に毎年お出かけになられるので、そのお供を何度か勤めました。険しい山道や地形に高低差があって足場の悪い野道を、足下を見る間もなく先へ急ぎ走り回り過ぎてつまずき倒れ、大木の切り株や岩の角に腰の物が触れると、弱く拵えてある柄・鞘はこらえ切れずに折り砕け、その場で繕えないので、急病と申し立て宿に帰る人を二、三人眼前で見たことがあります。とりわけ傷を負って狂った猪・熊・狼といった猛獣に行き逢って、組留めたり、切留めたりして手柄をたてるために働くには、頑丈な刀・脇指に頼る外ないのですが、延宝年中に公方様が殺生禁止を仰せ出でられて以来、諸大名も鷹狩・鹿猟を取りやめたので、当時の武士は御陣立も鹿猟も長い間なく、畳の上の御奉公でも不慮の凶変が起こるなどとは思いませんでした。  弓断(※武芸を尊ぶ心を捨てること)を心の主として、刀は侍と見せるための目印としての指物にすぎないと心得、指し替えの大小の刀剣を持たない小身者まで、刀も脇指も焼きの有無や良し悪しを吟味せず、乗良打の粗悪な刀でも細身を好んでいます。  それが手に入らなければ太い刀身をも鞘を細くして表の拵えを金銀で飾り、外見の美麗を専ら好み、先祖より譲られている名作の大小の刀剣ですら古風で見苦しいとして、今風の拵えに仕直し、刃に鈶が出ているのを見ても拭きぬぐう事もせずにそのまま腰に指すだけではなく、最近の流行は、男の身長の大小に関わらず刀の柄は殊の外長く、刀ごとに柄が長いはずはないので、たぶん空柄になっていると思われます。当時刃は鞘に収まっている治世だとしても腰の物を抜かずにはいられない事件があり、その場を外し逃げることも出来ないと思う武士心が出来れば、是非もなく鈶が深く光が見えない赤い刃を抜き出し、心がけのない恥をあらわし、勝負を争う戦いの最中に、刀の柄に支障をきたし折れてしまえば、不手際の大恥を衆人の耳目に晒し、武士の汚名を後世まで伝えることは口惜しいことです。

カテゴリー 口語訳遠野古事記