mark 【口語訳遠野古事記】直栄様御活躍の事と盛岡在府屋敷、附馬牛八戸諸士の事

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 直栄様は生涯の中で、江戸に九回、京都に二回、彼是十一回も御登りになられました。二度の上京と云うのは、寛永三年九月、将軍秀忠公の上洛の時に利直様がお供したので、直栄様は二十五歳時に利直様のお供として御登りになられました。
 京都で利直様が官位四品(よんほん)に任ぜられ、禁裏(※天皇)に御太刀目録の献上の使者として直栄様に仰せ付けられました。内裏(※朝廷)に持参し紫震殿の階段を御登りになされた時に、天皇への取り次ぎ役の公家衆が出向かい、「何れからの使者であるか」と尋ねられたので、「南部信濃守の使者八戸弥六郎でございます」とお答えになりました。さらに「南部の家は何れの流れであるか」と尋ねられたので、「清和源氏武田の支流でございます」とお答えしました。すると、「もう一階お上がりあれ」と仰せられたので、又一階お上りになり、御太刀目録を差し上げられました。
 旅宿に帰り利直様に先ほどの件を仰せ上げると、「田舎育ちの年若でありながら、公家衆に対して即時の御答え立派である」と、ご満悦の御気色にて直栄様に御褒美を与えました。  
京都で首尾よく勤め、下向した翌年に遠野へ村替して御引き移りすることになりました。あれこれ過分の出費が重なり、財政が苦しい時期の寛永十一年六月、将軍家光公の御上洛時に太守山城守重直様がお供した時も、直栄様は御登りになり、道中で遠州大井川に着きました。将軍家の御先手を勤める旗本勢は渡りましたが、御後勢はいまだ川の此方に残っていました。その時、急に大洪水がおこり、仮御成橋も残さず押し流し人馬の往来が止まってしまいました。嶋田より此方の宿場に逗留している諸大名からの水検分の御使番がたくさん川辺に列をなしていた時に水量が少し減ったように見えたので、重直様は直栄様に水の浅深を知るため瀬踏みするようにと仰せ付けられました。騎馬の御供である工藤四郎左衛門も馬に乗り逆さに巻く水の波間を見合いながら段々向こうへお渡りになられている内に、水の勢いが強く度々馬を押し流しましたが、主従共に恙無く向こうの岸に御乗付け、また此方の岸にお帰りなされました。重直様はこれを御覧なされ、すぐに渡れと命令し、お供の直栄様と工藤四郎左衛門が渡るのを見た諸家の人々も段々に川を渡りはじめました。
 これによって「南部の家中八戸弥六郎馬上の達者」と諸国に御名誉が吹聴されました。直栄様の御手勢御軍役は御長柄鑓二十本、御鉄砲二十挺、御弓十張、騎馬十騎、お供六人ずつ、このほかの総人数はわからない。先年(※寛永三年)の御登りの時もこれと同じ)  今度の上洛した公方様は御逗留を前々から引き延ばしていたので、京からお戻りになられる際に直栄様一行の道中雑用の路費を削ることになりました。もし旅の途中で不慮の出費があれば差し障るかもしれないと、御家老岡前宮内・松崎大学に御賄(おまかない)の小笠原三之丞が申上げました。そこで京滞在中の御用足を行う町人に宮内と大学が金子の工面を頼んだところ、元利返済までの間重臣を一人京に残して置くならば工面すると申したので、澤里主膳殿を残して置くことを申し合わせました。金子(金額は不明)を受け取り、京からお戻りになる御供御道中で不意の出費も無く国元へ下着(げちゃく)なされたので、飛脚を使い返済金を京に送りました。
 主膳殿が在京中に旅宿の亭主の小荷駄(※荷物運搬用の馬)が難病にかかり、数人の馬医師が診ましたが、それ相応の効果は無く絶命近くになりました。その時、主膳殿は馬術も馬医も功者だったので、馬薬を一貼調合して与えられました。その薬を用いたところ病苦に疲れ臥していた馬はたちまち頭をもたげ少しいななく声が聞こえました。亭主は大喜びして又一貼用いると声高にいななき、食べ物を好む様子が見かけられたので、大豆を出したところ残らず食べ、起き上がり体を振わして全快しました。
 この事が四方に広まったことで諸方より難病の馬数十疋の療治を頼まれました。いづれの馬も全快し、馬の亭主たちから相応の贈り物と馬医に熱心な門人が段々出来て、馬医の伝授の礼金といったあれこれで在京中は雑用の金銀不足なく月日を送り、返済金持参の飛脚が到着してからは道中何事もなく遠野に下着なされました。この話は主膳殿馬医の門人・末崎喜兵衛と云う老人の咄を、私が若い頃に聞いたものです。

一、 前々より利直様御代(※1599年~1632年)まで、新田中舘の両家は年始御礼・御吉事の御歓・御凶事の御機嫌伺に直参衆と同じように盛岡城へ参上していました。そのため三戸城下の例に依って上田丁の背後に在府屋敷をいただいており、遠野から屋守(※家の番をする人)を交代で置いていました。其の中に不埒な者がおり、度々いざこざが起こったので、その屋敷をお返しになられるべきか内談をしていましたが、重直様の御代に替った時に両家の出仕を控えるようにと、仰せ出されたので屋敷もお返しになられました
 御城の出仕は無くなりましたが、この屋敷にこれまで通り出仕なされた時、弥市郎殿は石橋三六(この者は元来新田の家来でしたが、殿様より貰い上げがあり御直参に成られました)三戸丁の居宅を旅宿に成されていました。小十郎長政殿の代、御家老役を頼まれる以前に出仕した時は桐の間に差し置かれた、という話を老人から聞きました。

一、 義長様御代、延宝三年、領内の御検地を行い、打出し高の内二千石を御舎弟の頼母様へ御分地の御印紙を同四年三月七日太守様(重信様)より頼母様に御頂戴しました。(村分高は前に記しています)同十日は吉日に就き頼母様を御別家になされ、その時に召連られた家中の諸士は先の通りです。 御家老 中舘覚右衛門 同断 中津山太右衛門 類家掃部之丞 大里與惣左衛門 坂本兵右衛門 小笠原勘右衛門 及河源兵衛 小笠原武右衛門 松橋諸左衛門  大橋勘之丞 佐郷谷與三右衛門   同十四日 野澤覚之丞 松崎茂右衛門 小笠原次郎兵衛  四戸源次郎 水越喜兵衛 この五人は頼母様が幼少の時より御付置かれていました。
 以上の人達は附馬牛八戸家へ参っても、遠野南部家での身帯と同様に与えられ、次男がいる人は嫡子を遠野南部家に留め置き父の身帯を相違なく与えられ、次男を附馬牛八戸家の嫡子に仕えるように仰せ付けられました。例えば中舘覚右衛門の嫡子先右衛門は遠野南部家にて五十石の身帯の相続を仰せ付けられ、覚右衛門は附馬牛八戸で五十石与えられ、次男杢右衛門を嫡子としました。野澤覚之丞は次男がいないので一子勘平(後に覚之丞と称す)が附馬牛八戸家に召連れられたので、遠野南部家には野澤の家名が無くなってしまいました。そこに義顔様が御当家を相続された時、覚之丞より四代の嫡孫文蔵を御供に召し連れて、野澤の家名を遠野南部家御家中に再興致しました。中津山太右衛門は男子一人だったので、其の身は生涯附馬牛八戸家に勤め、死後の遺産は子の善七へ遠野南部家家臣として相続を仰せ付けられました。
 附馬牛八戸家の九太夫様が相続の時、御家中諸士の内遠野南部家へ御引き取りされた人達は次の通りである。 米内和右衛門 同三十郎(和右衛門の次男、頼母様の御小姓を勤めました。遠野南部家に引き取られ、同氏金兵衛養子になりました) 中居林久兵衛 大里與三左衛門 同八助(與三左衛門末子、頼母様の御小姓を勤め、それとは別に御扶持方を与えられました。遠野南部家に御引き取りされて御扶持を与えられましたが、身帯をお返しになり、盛岡の町医と成って祐元と称しました)  類家掃部之丞(竹之助様がお亡くなりになった時、法體宗(ほうたいそう)閑(かん)と称し二人扶持を与えられていました) 同善十郎(実父小笠原善右衛門の次男で、頼母様の御小姓を勤めていました。父善右衛門は頼母様御実母の兄である。掃部丞は附馬牛八戸家へ参った時に本知三十石を嫡女の聟養子である新左衛門に相続するよう仰せ付けられました。附馬牛八戸家に次女の聟養子として善十郎を願い上げ嫡子と仕り置かれました。遠野南部家に御引き取りの際は半知十五石与えられました。善十郎の兄善八の代に家名を目澤と改めました。 小笠原宅左衛門 同子 千之助 中舘長左衛門 玉懸左五右衛門(後に小笠原二郎右衛門に改める) 工藤勘助 四戸源次郎 松橋諸左衛門 宇夫方長兵衛 河野長太郎 以上。 御向御屋敷に残し置かれた人達 野澤覚之丞 中舘覚右衛門 同子 勘之丞 浅川瀬兵衛 及川源兵衛 松橋茂右衛門 工藤次五右衛門 時田左兵衛 外川新右衛門 黒澤助之進 中舘武助 淵澤源六 細越儀兵衛 太田郷右衛門 田面木宅兵衛 佐郷屋與右衛門 細越團之進 十日市喜平次 小笠原万兵衛 中居林新助 小笠原勘右衛門 千田孫兵衛 野澤勘平 宮野儀右衛門(是は北の御家より御供として参りました) 〆て二十三人

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