mark 【口語訳遠野古事記】新田家遺産相続の事と科人詮議・処罰の事

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 また問いました。「澤里の家は八戸氏御一門の中で家柄が高いので、胎児に家督を命じることは、尤もなことと云えます。新田家は御一門の棟梁であり、また新田家は八戸の家を相続し、直栄様には三代続いて八戸家の御息女様が新田家に嫁入りされています。  それなのに四人の方々は彼是澤里より親しみの由緒厚き新田家の知行二千石を、五百石に減封されたのは直栄様の私欲から命じたと当時の世間の人々は囁かれるのは尤も至極な評判であると思います」   このように答えました。「直栄様の御底意も知らずに、ただひとえに私欲からのお考えと云うのは不届きで言い過ぎた悪口と云えます。新田家の知行を取り上げ、直轄料の石高に成されたのは私欲ではなく、やむを得ない事情があるのです。事の次第を云うと、彌市郎殿がお亡くなりになった時息子は無く、娘が三人いました。長女はまだ幼く、婚姻のお年頃になった時に相応の婿養子に家督の相続を命じようと考えていました。  そして彌市郎殿がお亡くなりになった寛永十九年の暮れより五年の間、遺産の二千石は後室に預け置かれ、御嫡女の成長を待っていました。  其の頃迄は貴賤共に気性が荒く男の面目を重んじる荒々しい振る舞いが好まれていた世の中の風習だったので、家中の家来は婦人である主人を侮り軽んじめ、自分の気ままな行為が多く、新田家流の輩は互いに先祖の流れの遠い近い、親しい疎いとか、当時の身帯の多い少ないを以て出会った時の挨拶や座席の高下を争論しました。また、譜代の家来は先祖の武功の強弱を鼻に揚げ、自分より座上の人を侮り、無礼な行いをしていました。  当時身分が高く俸禄が多い人は身帯の威勢を以て、この行いを挫(くじ)こうと互いに家々の威を争い、家来がもみ合う騒ぎが止まなかったので、直栄様からたびたび御叱りの言いつけがあると、一旦は鎮まるがすぐに又蜂起されるので、張本人を取り調べ必ず刑罰を行おうとしました。 しかし、双方に加勢する者が多いということを聞き、却って手に余る騒動が起こっては他領への外聞が甚だ宜しくありません。さりとて構うことなく放置することは婿養子を申付ける迄の間に、新田の家を危うくする大変な出来事となります。  直栄様はどのように取り計らおうかと真剣な思案に心尽くされ、新田家の先祖に対して不孝な手段であるので申し訳ないことではあるが、家の安全には代え難いので、知行を減らして家来の騒ぎを鎮める以外の手立てはないと考えられました。新田家に命じる御思慮の趣を、太守山城守重直様に内々に相談したところ、他に方法がないので尤もであると思うので、其の方(※直栄様)の考え通りに言いつけなさいと仰せ出されました。  正保三年七月、新田の知行二千石の内千五百石を取り上げ、残高五百石は、後年婿養子を申付けるまで、娘たちの婚姻の際の持参金として預けられました。家来の内、誰々は身帯家屋敷は今迄の通りに、表(※遠野南部家)へお引き取りなさる旨を言い渡されました。日頃、わがままで恥知らずの不行跡者には身帯を取り上げられたり、他領への追放を命じられたりしましたが、新田家の大小の給人から命令に背く申し出もなく、何れも謹んで承ります、と請け入れ申上げました。表へお引き取られた人数の中には直参になることを望む者がおり、内々で喜んだ者もいたといます。  この御請けが済まない間はどのような難しい申し出があるだろうかと、そのお仕置きを直栄様はお気遣いなされ苦労していましたが、異事なく済んだことに安心なされました。  この時に成就院・対泉院をも表へお引き取りしようかとおっしゃいましたが、後室が申上げられたのは、「例え屋敷勤めの奉公人は減らされても両寺を今迄の通り手前の寺に置いてください」と強く願い上られましたので、願いの通りになされました。  新田家の奉公人は、脇山六兵衛等のように、天性質実にして奢(おご)りなく才が有っても貪欲なき人を重臣になされ、家中の仕置を命令していたので、数年は女主人と幼き主人であったが平和に治まっていました。  正保三年より五年後の慶安三年二月、福田蔵人の正室の嫡子である出羽(後に小十郎と称す 母は彌市郎殿の妹)が新田の婿・家督を仰せ付けられ、十歳の時に当家に引き移りなされました。  以上の通りにやむを得えない次第にて新田の知行を減らした子細は世間に流布している古記には漏れていて見当たらないのでこのことが知られていませんでした。ひたすらに直栄様が御蔵入の御所務地にするための私欲の命令でお取り上げされたと批判することは、大いに間違った僻(ひが)言(ごと)であるという老人の咄(はなし)を聞きました」 一、直栄様御代の頃迄も、乱世の熱がまだ残っているからなのか、諸国の人々の心は荒々しく、家中の諸士から町人・百姓に至る迄無調法の科が有り、罪人を取り調べる役人から呼ばれても命令違反して来ない者が多かったので、「放し討」あるいは「押入捕」と云う事が流行りました。  「放し討(うち)」と云うのは、どこにいても途中で出会い次第討ちとるようにと、討人に密かに命令しており、善き場所にて出会った時は、「科は其の身に覚え有ろう、主君の命令である」と詞をかけながら抜き打ちで切り殺しました。科人の武芸が達者であれば抜合わせて命の限りに戦い、討人を返り討ちにして他領他国へ逃亡し、其の手柄を出世の種にして立身する者もいました。  「押入捕」と云うのは、捕手の何人かが家へ案内なしに不意に押し入り、組留めて縄を懸けて連れてくることを云います。其の科人は身に覚えがあるので覚悟をして待っており、腰の物を抜き払い五人も七人も切り倒し怪我を負わせ、其の場を逃れ他領へ立ち退く者もいたそうです。放し討の討ち捕らえには手練れの侍、押入捕には御同心に命じていたので、其の頃の御物頭は、居宅が狭かったので組の者共の為の棒・捕縛・柔術の稽古場を別に建てました。御物頭自身も組の者共も怠けず稽古を行い、諸士も剣術の稽古を努力して修行を行ったそうです。  遠野での棒捕縛の師範は柔術案兵衛と称し、抜刀剣術も達人の名を広め、他領他国にも招かれ、諸士や足軽、在町数百人の門弟に尊敬されている自分の芸事に自慢の奢(おご)りが出て、御仕置に背く我儘(わがまま)な無調法を犯してしまいました。  押入捕数人を遣わしましたが、普通の人間とは違い手強い捕者だったので、案兵衛の弟子の中から御同心町人より芸事が達者な器量を選び、家内へ入る者は十五人、屋外の警固は諸士・御同心数十人、御物頭両人が遣わされ、一番二番三番の捕拿に引き続き、十五人の御同心が「取た、取た」と声を懸け、透き間もなく押入りました。案兵衛は心得たり、と出合わせ「相手に足らぬ小餓鬼共、我が腕前は知っているだろう、いざ来い」と唾を手につけ先に進んで来る者七、八人を掻き掴み、投げ出し投げ出し傍目もせずに戦う最中、思いもよらぬ側から半棒で左右の臑を強く打たれ、前に倒れ臥せた所に大勢折り重なり、日頃自分の弟子達に教えていた関節の急所に強く当てられ、直名を得ている案兵衛も思い通りに戦えず、縄を懸けられお役所へ参られたそうです。  案兵衛を打ち倒したのは私が二十三歳になった時の戦いだった、と小島太左衛門と云う老人の咄を、私が幼年の頃に聞いた事があります。今の世の中はどれ程強勢の名を得ている科人も、国主領主の命令に背く任侠はおらず、雑人は我と背後に手を廻し縄を懸けられ、武士は会所の玄関へ出向かい、左右の人が重要な法規を説明すれば、命令に背くことなく腰の大小を渡して内に入り、御役人の言い渡す主君の命令を謹んで承るそうです。古今の風俗が大いに変わってきているそうです。 一、昔乱世時代、敵味方の勝負を争う戦の場で、御旗本(※大将がいる本陣)より先頭の部隊へ、御下知(※大将の命令)を承り伝えに行く武者の声が小さければ敵味方双方からの打ち払う鉄砲・矢叫びの音で御下知が伝わらなかったので、声が小さい人は寒声(※震えて寒そうな声)に対する訓練として極月(※十二月)の寒い中毎夜城下の郊外遠くに行って大声の稽古をしていたそうです。  太平の世が続き大声が必要ない時代になっても、御家中や町人の中に謡・小唄の遊芸を好む人は寒声の稽古をする人が私の若い頃迄はいましたが、最近はこの稽古も聞かなくなりました。  直栄様が治めていた時代、御家中の中で指折りの大声の者は、小笠原九右衛門(甚五の先祖)、中舘将監(孫六の先祖)、飛内七右衛門(此家断絶)などは平日の話も大声なので、側に居る子供は驚き、客もつかれ泣き叫んでいたそうです。  九右衛門は二男新左衛門を西丁の類家掃部之丞へ婿養子に遣わされたので、用事があって呼び出すときは使いを遣わさず、自身が門口まで行き、「新左衛門、新左衛門」と中音で呼ぶ声が聞こえていたそうです。其の時代には元町丁と西丁には「ついさび」(※杭を掘る道具)を持っている家が無く、九右衛門だけが持っていたので、諸方より貸してくれといわれて貸与え、自身も必要な時は門口に行き「ついさびを返せ、ついさびを返せ」と叫べば、借りている人も返したそうです。将監も七右衛門も九右衛門と同じくらいの大声であったため、其の頃の世間の人は声高に話をする人を「将監よ、七右衛門よ」とあだ名を付けて呼んだそうです。昔田原の又太郎と云う人は高声に叫べば、声は七里遠く迄聞こえたと浄瑠璃草子に有ります。今の世の三人はそれにも劣らぬ大声であると声が小さい人は羨ましがったそうだ、と私の祖母(九右衛門の娘)が昔話として聞いたことがあります。  今の時代にも以上の三人の如く高声に話し、門口に立って呼び叫び用事を足す人がここに居れば、「傍若無人の無遠慮者よ、狂気者よ」と出会いを忌み嫌われ、お上からもお咎めを仰せ渡されることを蒙るであろう。古今の風俗は大いに変わったものである。

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