mark 【口語訳遠野古事記】義論様御名代の事と家督相続の事

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元禄五年四月、太守大膳太夫重信様が年をとり元気がなくなってきたので、隠居するお願いを出しました。その年の六月信濃守行信様に家督を仰せ付けられたので、義論様よりお祝いの挨拶を申し上げることになりました。 御名代の使者新田小十郎長政殿が江戸へ登られる時、お祝いの能を高知衆の使者から明日拝見するようにと仰せ付けられ、上屋敷へ五ツ頭(※午前七時)に出仕するようにと、御目付衆より召喚状が旅宿に届けられたので、御礼のために早速上屋敷に参上したところ、日頃懇意の御目付から内々の咄として、「明日の御能の各拝見所は舞台の御白洲に控えることになっています。表へ未だ御沙汰は無いですが、御心得のため御懇意だけにお知らせしています。明朝御出での時に詰所の内見の御案内を当番の同僚達に申し合わせておきます」と申されました。 長政殿は答えて「御知らせかたじけなく思います。いつもの使者とは違い、今度は弥六郎の名代として私は参上するので、則ち弥六郎同然と思っていただく故、御白洲より拝見する道理は成し難く、一応辞退の御許しを申し上げますが、強いて仰せ付けられるならば、すぐさま急病と申上げ旅宿に帰らせていただきます」と申されれば、其の御目付は驚いた顔色で眉を顰め、「それはことの成り行きを悪くすることを自分から招いているよくない考えで、以ての外の成事です。殿様御代始めのお祝いである能の興行の時に、左様に気障りなことを申し上げられるなら、あなたは言うに及ばず弥六郎殿の成り行きも宜しくなくなるのではありませんか。その意見が叶わずとも堪忍なされ、黙って拝見なされるべきです。」と色々申し聞かせましたが、承引せず「御意を背く事は国元にて幼年の弥六郎から申付けられたからではなく、私だけの思慮にて申上げている事ですので、恐れながら弥六郎へのいささかの御憤りの御立腹がありませんよう存じます。私自身は重き無調法のお叱りを的に懸け(※矢に射貫かれる的のように重大な過失のお叱りを覚悟し)、全くのお許しを申上げない覚悟で決心しています」と申しあげると、其の御目付は不興顔でその座を立ち、先ほどの趣を老中へ内々に申し伝えられ、それを殿様(※太守行信様)が聞かれ甚だご立腹なされ、明日の能の見物の為に重信様が今日上屋敷に入りなされるので、その旨を語り、陪臣の身で拙者の申付けに背く自分勝手な考えであるその行為は軽くないので、明朝屋敷へ出仕した時、背いたことを申し出たならば厳しく申付け、叱るつもりであることを御内談されれば、重信様はすぐにとかくのお答えをせず理にかなうお考えを成され「弥六郎は他の高知衆とは違い、重い家柄だけでなく、今程我等にもお手前にも親しみ厚き縁者である。且つ又十郎も陪臣ではあるが五百石余りの身帯であるので、彼が白洲より見物することを心外に思うのは当然の事で無調法ではない。家中の小身者と、屋敷にご用達をしている町人達が詰め居る白洲より見物させるべきと思うお手前の了簡こそ以ての外だ」と、役人たちが見物する次座に差し置かれるべきであるという御教訓の考えを申され、行信様は承引なされ御座敷より拝見するよう仰せ付けました。 その頃江戸のお屋敷では盛岡で重信様の思慮深き教訓と長政様の勇気ある逞しき心底に多くの人が感心した、という話を老人から聞きました。 一、問いて曰く、『直榮様の時代で御家中の諸士に懐胎の子がおり、その父の死去の遺跡(※遺産)をまだ生まれていない胎子へ相違なく相続するよう仰せ付けられた家があった。」と、幼年の頃に老人の話を聞いたことがありますが、其の人が誰であったか覚えていませんでした。先頃貴翁の物語に、勤功の由緒有る歴々衆の家も屋主死去の時、家督の男子がいない家と、いても軍役の御奉公を勤めかねる幼稚であるならば、遺跡を取り上げ其の家を断絶してしまう家も有り、また捨て難い由緒格別の遺跡は、本知の減少或いは地方を召し上げられ、小扶持米を下され家名ばかり残る家風の時代に、まだ生まれていない胎子に亡き父の遺跡が相違なく相続できるように仰せ付けられることは考えられません、この説は虚談なのでしょうか、もしくは実説のお聞き伝えもあるのでしょうか」答えて曰く、「虚説ではありません、澤里弥伝次殿と申す人は亡き父の主膳殿の遺跡を相続した以後に病死した知らせがあり、その時に内室(※新田弥市郎殿の女中)が懐妊していることを聞き及びました。胎子が生まれたならば男か女かの様子を披露するようにと仰せ出され、遺跡の落ち着きの御沙汰はありませんでした。その胎子がまだ生まれる以前から五十日過ぎた後に男の子が生まれ(幼名は卯ノ鶴、後に弥右衛門と称す)披露したところ、他の家士とは違い由緒格別の家柄だったので、女子であったならばお考えがあったのですが、男の子が生まれたので亡き父の遺跡二百石の相続を仰せ付けられました。親戚たちには養育に心を入れ守り立てるように仰せ出され、幼少の間は盛岡大手惣門の番代末家の一族である澤里又十郎へ仰せ付けられ、勤めたそうです。(成長してからは御番頭、其の後は加判御役を勤められました)と老人の申し伝えた話を承りました」

カテゴリー 口語訳遠野古事記