mark 【口語訳遠野古事記】諸家の断絶と忠節の働き

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中舘殿は代々知行千石を与えられていた家でありましたが、兵乱が盛んな時代にはたびたび出陣の供をし、戦場において忠義の武功を勤めた馬廻りの者たちへ新たな知行加増の恩賞を与えていたので、自分の財産になる収入を得る土地が減少してしまい、出陣して軍役を担うことが出来かねるようになりました。そのためやむを得ず身帯(※与えられていた身分や地位、知行地など)をお返しし浪人となってしまいました。そのためこの家の代わりに新田一族の末流の松岡兵部ノ少を御取立てになり知行二百石を下されて中舘氏とし、御家老職を仰せ付けられていました。そのころ清心様の御代、慶長十九年の大坂冬の御陣のときにご名代として新田左馬之助殿へ御当家の御軍役のための兵を計三百二十人をお預けし、新田殿の介添えとして中舘勘兵衛殿を五百石の軍役で御雇になり大阪へ登らせました。帰陣の際には元の知行の内五百石を返し遣わされたので、以来中舘家の知行は五百石になったそうです。しかしながら「兵部ノ少は中舘氏を改めずこれからも名乗るように」と仰せ付けられ、直栄様が遠野へお引越しのとき、御家老職として騎馬で御供をして参りました。その後病死し、遺跡の知行は減らされ五十石で子どもの孫六へ家を相続するようにと仰せ付けられたそうです。 遠野南部家の元祖である実長様が御本家から独立なさった頃、召し連れていた御家老の三上藤兵衛の子孫は数代にわたって家を相続し勤めてきました。慶長十九年の夏、左近直政様(直栄様の御養父)が越後髙田御城の御普請大奉行に御出でのとき御供を勤め、(直政様が越後で御病死になり)帰国し、同年冬に大阪へ軍勢の人数を揃えて登らせた際、不手際があったため軍役の出陣が出来かねたため、二百石の知行を返上して浪人になりました。家名がしばらく中絶していたところ、直栄様の御代に家の由緒をお聞き及びになり、御憐憫の情をもって子孫の兵左衛門を召し出され、二十石を下されて廃家を再び御取立てになったそうです。 直栄様が御幼少の頃から御傳臣(※お守役)を勤めてきた作田主水は、直栄様が遠野南部家を御相続になったとき、新田の家から御供として参り、遠野へお引越しのときも騎馬で御供をし、それ以後病死した際に遺跡の百石を嫡子の内匠(後に新田と改める)へ相続を仰せ付けられ、御村から上納される御役金銭(※年貢以外の諸税)の取り扱いを御命じになりました。取り立てられた頃は内匠宅へ御百姓共が直接持参していたそうです。そのほか毎年の御物成(※年貢)の差紙(※呼び出し状)も内匠の判(※花押、印章)ひとつで御代官へ渡していたそうです。   内匠の死後、七戸作内へ後任を仰せ付けられたそうです。作内の判がある古い差紙は私も見たことがあります。 内匠が病死したとき、(子か孫か)幼少であったので遺跡の知行地や家屋敷(坂の下丁御用屋敷)は御取上げになり、三人御扶持を下されました。幼少の者は親類が引き取り養育し、成長すると市郎兵衛と名乗り、身分相応の御奉公を数年勤めたので、利戡様の御代に御扶持方を知行二十石になさられ、本町丁に屋敷を下されています(新田七郎兵衛の養父です)。 これは私が聞き伝えている家の事だけを記したものです。この他にも古い御支配帳に見える大身小身の諸士の中に、今となっては家名も子孫もいっこうに知れざる家が数多くあるのは、この書面のように断絶してしまったのでしょう。 直栄様は新田家から遠野南部家を御相続なられましたが、その御実弟の新田左馬之助殿が御病死の時、御男子はなく御女子ばかり三人いました。当時は婿養子にふさわしい人がいなかったので、二千石の知行地を五百石に減らされたことは、さぞ内心は新田の御先祖への御不孝をどれほど御悼みになったことでしょう。それでも、国家の政道は貴賤・親疎を分けず、依怙贔屓なく執り行うことを極めて大切なこととして守る総大将の格法(※きまり)を御家中へ見せしめられるべくお考えになって、そのようになさったのだと推察いたします。その考えもなく、現在と比べて直栄様の御私欲であるかのように噂をする人がいること、これはもってのほかの評判であると思います。義長様の御代の頃より戦国の名残りもだんだんと緩み、諸士の家の相続の際には以前よりも御慈悲深い仰せ付けになってきて、とりわけ信有様の御代からは、亡き父が存生中に御奉公を真面目に勤めていれば、まだお役目を果たせない幼少の子へも、また実子がなく縁故の養子を願い上げる者の遺跡も、そのまま認められるようになりました。御慈悲深い御家風の時代に生まれた諸士の中で、昔の様子を聞かない人は、昔も今も同じようであったと考えて御奉公に油断の疎意が出ることもあるだろうかと、老いた筆の疲れを厭わず古い時代の風俗を記しておくのです。 一、直栄様が遠野へ御引移りになった後、最上浪人・廣田太郎右衛門を召し抱えられたところ、御奉公を実直に勤め、また才覚も優れていたのでしょうか、やがて百石の身分に御取立てとなり家老職を仰せ付けられ勤めていましたが、知行所の飯豊村に在宅して、職務の御用のある時ばかり横田の在府屋敷に詰めていたそうです。その頃、御三家衆・同役衆などを横田の屋敷へ招き饗応するときは、入用の家具や諸道具を飯豊から付け配り、その他不足の道具は私の曽祖父・長右衛門(太郎右衛門の妹婿)が綾織村に在宅していたけれども、遠慮なく無理を言って横田へ届けさせたそうだ、という私の祖母の話を聞いています。 義長様が御幼少の頃、太郎右衛門の嫡子・虎之助が御相手の御小姓を勤め、長じてからは小左衛門と称し中舘典膳殿の娘と縁組を仰せ付けられたので、飯豊から横田の屋敷へ家財道具などを引っ越したそうです。 太郎右衛門が盛岡勤番の頃、早秋に朝霜が厚く降ったのを見て(寛永十八年巳年の七月のことか)、「急な御用があるので郡山へ参ります」と言って、槍も持たずに御馬に乗り早朝に屋敷を出て道を急ぎ、辰の刻には郡山へ早くも到着した。米商人の店へ行き米の値段を尋ねると、亭主は思いがけない大霜に驚いていて、すぐに値段を「これほどです」と答える心づもりができず迷っていたのでしょうか、「昨日までの値段に二割増しであれば売ってもいいです」と答えました。そこで蔵へ積み置いている米の駄数を確認し、二百五十駄の代金の手付金として金十両を渡し、残りの金は盛岡へ来て受け取るようにと申し合わせ、双方で米売買の証文を取りかわし、倉の戸口へ太郎右衛門が封印を施しました。盛岡へ帰ったその日から米の値段が上がり、日を追うごとに高くなって間もなく商売の米が一切なくなり、貴賤を問わず困窮する迷惑は言語に絶えぬほどでしたが、遠野南部家では食べる米に差支えがない様子を世間に流布する噂で聞いた人々は、時節柄に即した忠節の働きだと感心し称賛したそうです。老年となり登城の際の御坂を歩くのが困難になったので、退役の願いを申し上げたところ、「西御門の下まで鞍馬に乗ることを許すので、大儀ではあろうが勤めるように」との仰せがあったと申し伝えられているのを、当世の評判では、「御坂の行き来に難儀して退役願いを出したのだから、籃(※竹で編んだかご)を許されるのが相応しいご返答だろうに」と言う人がいます。私が考えるに、そういった筋道を御存知なくてこのような御返事をなさったのではないでしょう。公儀の御掟には、三千石以上の他は駕籠を禁じるとのご命令があります。その掟を陰日向なく厳しくお守りなさったので駕籠をつかわせることが叶わず、御時代の風俗に合わせて鞍馬を許すご命令を出したのではないでしょうか。おおよそ、昔も今も共に世間の風俗は二十一年で必ず変わるものだ、と昔の人の言い伝えがあります。何事もその当時の習わしに応じて取り計らっている事なので、そういったことを考えることもなく知りもしない者が、現在と比べて無暗に批評するべきではありません。 一、直栄様・義長様の両御代の御家老・中舘忠左衛門吉久は、中舘金右衛門の四男の末子でしたが、御小姓に召し出され、長じて三十石を下されて勤めていたところ、生まれもった才覚が人より優れていたので、やがて百石に加増され御取立てとなり、御家老を仰せ付けられました。老人の昔話で聴いた、勤めていた中で起こったことを書き記しておきます。 ○八戸から直栄様がお引越しになる時に御供を勤めた御小者共は、八戸に残った老父母や妻子を遠野へ引っ越しさせかね、大半が御暇を願い出て生まれ故郷に帰って行きました。そのため、遠野並びに奥筋の御知行所の御百姓どもの子弟を見定めて御取上げになり、八戸での前例に準じて男たちの上・中・下の格付けにより、その父兄の持つ土地の中から五石や七石ずつを無税の土地にしました。しかし、自分たちの農業のために働く人が足りなくなった者は迷惑し、御小者を勤めない家の父兄は農業に差支えが無く、また御村々の御手当も同じではないだけでなく、大勢の御小者共への御配分の御免地で御庶務高も減ってしまいました。忠左衛門は思案し、全ての御村へ「御小者金」と称した、高百石に対して金いくらと割り付ける定法を立て、毎年取り立てるようにと御代官に申しつけました。その金を御家老へ納め置き、御小者を取り上げる時、五ヶ年の居腐の身代金として、男の上・中・下の格付けに応じて定法に従って渡し、そのほかにも夏冬二度の衣服の支度金を分けて渡しました。それ以来、今なおこの通りになっています。このお金は最近では御勝手へ御預けになっているということです。

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