mark 【口語訳遠野古事記】諸家の断絶

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 直栄様の御代、御家中の諸士は大身・小身・御譜代・新参に関わらず共に、病死したとき、男児がない家は言うに及ばず、また男児があっても身分にふさわしい働きが出来かねる子には跡を継ぐようには仰せ付けられませんでした。家柄によっては、幼少であっても実子であれば、或いは身分を下げ、或いは知行を御取上げ、御扶持を下されて家を相続するよう仰せ付けられることも稀にあったので、跡目相続の願い書きを差し上げて御返事をいただくまでは、家族は言うに及ばず、親戚たちも甚だ気をもんだそうです。このことを当世(宝暦年間)に比べてしまってはまるで御慈悲の心がないように聞こえるかもしれませんが、これには訳があります。戦国時代には、主が幼少か病気で御陣立の御供を勤めかねることは、亡き父から継いだ所領や身分を取り上げて、小身侍であっても、浪人であっても、御用に立つべき器量の人へ相応の知行を下されて御取立て召し連れていました。日本全国の諸家は皆このしきたりが御治世の常になっていました。しかも太平の世が続いているので、御当代の御家中の家々の盛衰について人が申し伝えている古い話について、虚実については存じませんが、私が聞き及んだあらましを記します。 直栄様が遠野へお引越しの時、騎馬の御供をして参った類家勘左衛門(知行二百石)。先祖は南部御家派(※三戸南部の家臣)だったのですが、どのような子細があったのか、御当家へ御客分として御招きし、八戸の類家村を知行に下され、以後、氏を類家と称したそうです。勘左衛門が病死した時、家を相続する男子がなく幼少の娘が一人いました。遺跡の知行をお取上げし屋敷は御菜園畑になされ、この家は断絶しました。その頃、橘市郎右衛門(治五助先祖)の妻は勘左衛門の妹でしたので、類家の娘を不憫に思い手元へ引き取り養育しました。市郎右衛門は実子が生まれなかったので、養女にして成長したのち婿養子を取ることを願い上げたところ、松崎大学の嫡孫三郎兵衛を婿にと仰せ付けられ、橘の家を相続したそうです。この家に、勘左衛門へ遠野で下された知行二百石の直栄様からの御印紙と、勘左衛門が生きていた頃愛用した横笛として能笛一管があります。これは娘を橘の家へ引き取った際に持参した類家の形見と申し伝えられています。この二つの品は私も見たことがあります。   当時御家中に類家氏の家がありました。これは勘左衛門の弟(名は知らず)がいましたが性格が我儘気ままな人で武家奉公に望みがなく、浪人として生涯を終えました。その子の掃部之丞が若い頃に新田殿の元で小姓奉公を勤め、成長し知行三十石を賜っていたのですが、そのうちに、新田殿の知行が御減少になったとき、新田の御給人を此方様がお引き取りになり、掃部之丞も直参になってできた家だということです。 直栄様が八戸よりお引越しの時、騎馬御供の御家老・比巻澤市兵衛は、かつて秋田領久保田の浪人だったそうです。遠野では知行二百石、居宅の屋敷は坂の下丁に下され(現在の中舘彦四郎屋敷である)、松崎大学と名を改めて勤めていたころの、世間の人が申し伝えている古い話があります。 直栄様の御代、盛岡御屋敷に藩主が御成りになったなった時のこと、御老中の御座敷へおもてなしの御膳を出していた時、石井伊賀守(御老中)がふと席を立ちあがり、腰の物を抜き白刃を手にして座中を見まわしました。列席していた御老中も御相伴衆も仰天し、御成り座敷の警固の為と御次の間に詰めかけたそうです。この騒動を聞き、御勝手の間にいた御役人をはじめ、料理番の者たちまで残らず御次の間へ走って行き、御老中座敷へは一人も行かなかったそうです。そこで、大学は御屋敷当番で居合わせたため、自分の御目付を二人伴って石井殿が居られる御座敷へ行きました。次の間の敷居際に御目付を置き、我が身一人で中へ入りながら「藩主が御成りになる時節といい、御身分にふさわしくない軽はずみな振る舞いです。早々に腰の物をお捨てなさい」と言いましたが、石井殿は返事もしません。呆然と立ちすくんだままの所へ進み寄って、石井殿の手へ取りつき白刃をもぎ取り、鞘も腰から抜き取って白刃を納め、御目付の二人を見張りに置いて、自分はその脇差を手に持ち、御成り御座敷の御次の間へ行き、事の次第を報告しました。伊賀守をいかが取り計らいましょうかと伺うと、早々に宿所へ送り届けるようにと御指図があったので、御式台前の腰掛にいた伊賀殿家来へ事情を説明し伊賀殿の腰の物を渡し、自分の駕籠へ伊賀殿を乗せて駕籠脇に御徒十人を付け、道中恙なく送り届けたということです。その頃の世間の評判では、「石井殿が脇差を抜いた時、列座の衆はすぐにでも取り押さえなければならないところを、そうはせずに御成り座敷の御用心に託けてその場を逃げ出し、御勝手の間に詰めていた歴々の御役人の中に石井殿の様子を見届ける者は一人もなく、皆御次の間へ走り集まったのは、不意の一大事に武士魂を失った臆病な振る舞いである。八戸殿家老・松崎大学は白刃を持っている座敷へ身命の危うさを恐れずに進み出て脇指をもぎ取り、人々を安堵させる勇気ある働きした。御直参衆は、人心地ついた頃になって、なんとも恥ずかしいことだと後悔なさっただろう。」と、剛毅(※松崎大学の勇気ある行動)と臆病(※直参衆の臆病な行動)の評判はしばらく世間の噂になったそうです。その後、伊賀殿の病気は全快し、以前の様にお役目を勤められていたところ、どのような不調法があったのか、此方様への御預けが仰せ付けられました。遠野で放心の病が再発して切腹となりました。そのような病にかかった理由は、利直様の御代、羽州羽黒山の修験の在庁(※役職名)へ御立願の御祈祷を依頼し、御成就のあかつきには御礼として二百石を御寄進すると御約束になりました。その(※二百石の御寄進の)印紙を頂戴したいとお願いに下向し、石井殿へその取次ぎを頼んだところ、聞きいれられたそうです。しかし、応諾はしたものの、在庁が下向していることをお伝えせず、在庁へは近いうちに御目見えを請けられるはずなので待っているように、とばかり幾度も言って、旅宿に逗留した年月はすでに三年にもなっていたそうです。在庁は石井殿を恨む腹立ちに我慢できず、元和六年二月三日の夜中に自殺しました。その怨霊がときどき石井殿の眼前へ幻の如く現れて、遺恨の言葉を述べる姿かたちの恐ろしさは身の毛もよだつほどだったといいます。その祟りは逃れがたく、石井の家は滅亡したのだと世間の噂は後世まで言い伝えられています。 直栄様の御代、大守・山城守重直様が御領内御巡検の時、遠野へ御来駕し(年号月日は不明)、御城へ四、五日の御逗留中に小友村金山やその他様々なところを御回覧になったそうです。ことのとき直栄様は盛岡の御留守を仰せ付けられ遠野へお出でにならず、御饗応の御名代は新田弥市郎殿がお勤めになりました。 大守様が釜石へ御越しになる時、御見送りとして松崎大学が仙人峠まで御供をしました。峠の坂道の途中で御湯を飲みたいと仰せがありましたが、御茶や弁当が手違いで用意されていないことを御側衆へ申し上げると、沢水でも良いから早く持って来て差し上げるようにとの御意向だったので、御側衆が大学へ水のありかを尋ね、沢辺へ走り下って持ち参り、早速差し上げようとしました。それを大学が声高に「これはいつもは汲まない沢水ですので、水毒の有無が分かりません。まず毒見をされてから御上げなさいますように」と申し上げました。その人もその通りだと納得し、毒見をして差し上げたところ、大守様は御駕籠近くに大学を呼び寄せ、場所柄毒見の助言は感心したとお考えになられたそうです。御褒美の御心の上、御召しになっていた御羽織物を手づから下され、峠の頂上から御暇を下され横田へ帰ったそうです。大学の嫡子の久作は父より先に早世し、その後大学が病死したので遺跡の半減をもって二男の主計へ相続するよう仰せ付けられました。主計が病死した時、息子(後に橘三郎兵衛と改名する)は幼かったので、遺跡の知行や家屋敷を御取上げなさられました。大学の三男は米内弥太夫の先祖の婿養子となり、四男は田中十左衛門の先祖の婿養子となり、主計の子は成人になると御小姓として召し出され、その後は橘市郎右衛門の婿養子となるよう仰せ付けになり、いずれも他家を相続して松崎の家は断絶したそうです。

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