mark 【口語訳遠野古事記】鱒沢の借り上げと遠野への御預け人

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利戡様の御代、宝永二年(1705)に太守備後守信恩様により、鱒沢村が御用地となり当分の間御借り上げとなるとのご命令が下され、下宮守村・下佐比内村が御代地に遣わされました。鱒沢に御検地が仰せ付けられ、打出し高は二百十二石余りあったそうです。その後、さしたる御用にも立っていないように聞こえていましたが、お返しくださるという御沙汰もありませんでしたので、利戡様はお考えになりました。「遠野が御城代に治められていた頃に鱒沢村の科人どもの居所の詮議が届きかねて捨て置かれた事を、利直様が腹立たしく思われ、直栄様へ遠野の御政務を強く御頼みになったことが、八戸から御引移りになったそもそもの始まりである。その鱒沢村が長く当家の手を離れているのは、悔しく無念なことだ。お返し下さるようにお願いしたく思うけれど、表だって願書などを差出すことは殿様の御考えの程も推し量り難いので、何とぞ御家老衆へ内々の御執成しをもってお返しいただきたい」。 このようにお考えになっていることを、兼ねてから懇意にしていた澤田一郎左衛門殿(知行四百石以前は隼人正様(※南部重信)付の御用人で当時は無役)をお頼りになり、その旨をご家老中へ御内意を頂こうとしました。しかし、「御内々の御執成しには差支えがありますし、また表立ったお願いもお控えなさるべきでしょう」というお答えでした。 そのため、利戡様は澤田殿へ仰せられました。「内々ながら御家老中へ申し出た私の願いを捨て置かれることがないよう、御家老衆へ内々の御執成しに差支えがある訳をきちんと承りたい。その様子次第では、たとえ殿さまのお怒りに触れ、重いお叱りを受けようとも、是非にも願書きを差し上げます。叶わぬ時は当家の先祖へも家中の者どもへも面目を失うことになりましょう。そうなっては心外千万でありますので、すぐにでも当家を立ち退き、山田の実家へ帰り、浪人になる覚悟でございます。この思いをご家老中へお伝え下さいますように」とお願いなさいました。また、遠野南部家の御家老衆も澤田殿へ申し上げました。「主人の願いが叶わず当家を立ち退かれた後に、当家の相続を別の人へ仰せ付けられたとしても、家中の者たちはお受けしない覚悟にございます。この意向を今すぐに御家老中様に対して申し上げは致しません。澤田殿への御内々の話でございます。」ということを申し述べました。 澤田殿がこの意向をご家老中へ詳しくお伝えしたところ、追ってお返事をなさるとの御家老衆が仰せられたのを澤田殿が聞かれました。その後数日経っても知らせがなく、利戡様の御心配の御苦労は深いものでした。正徳二年(1712)の春(宝永二年より八年)に以前より御借り上げになっていた鱒沢村の御用が済んだということで御返却になりました。御検地の際に出た打出し高も添えて返されたので、軍役高に加えて所務(※殿さまが自由にできる収入)にするようにと言い渡されました。これ以来、御当家の御知行高は一万二千七百十二石八斗七升二合になりました。   鱒沢村が御借り上げになる前後の様子について、私が若いころ世間の噂で聞いたことを記しているので、この紙面の中には間違っていることが多くあることだろうと思います。  一 直栄様より以来、御代々の盛岡御家中の不調法人を遠野南部家の盛岡屋敷で御預けになり、御詮議が済むと役職を解かれる者もあり、以前のように首尾よく復帰する者もあったそうです。数人の昔の御預け人の名前は忘れてしましました。また、永き(※終身)御預け人は遠野へ遣わされ、御家中へお預け置いたこともありました。その中に承り覚えているのは次の通りです。 直栄様御代、御家老石井伊賀守殿(知行二千百石)が永御預けを仰せ付けられ、遠野へ遣わされ新田正蔵宅に留め置かれていました。ところが、乱心し囲いを破って対泉院の門前まで逃走してしまい、ようよう取り押さえて事の次第をご報告したところ、切腹を命じられたため、正蔵の屋敷で切腹したといいます。ご検使は盛岡から遣わされたのかは伝わっていません。遺体は土葬で葬り、塚を築いたそうです。屋敷の南側の隅に、私の若い頃は塚が残っていたのを見たことがあります。 義長様の御代、盛岡御家中の妻籠甚右衛門殿(百石)が永御預けを仰せ付けられ、遠野へ遣わされ新田殿の元へお預けとなり、知行所の鵢崎村百姓屋の座敷に上番の給人一人と百姓一人ずつを付け置かれていました。軽い罪の科人だったのでしょうか、盛岡からの御指図により囲いえも入れず、近所の山川へ番人を連れて時々気晴らしにも出歩いていました。 しかしある夜、その家を忍び出で逃げ出したのを翌朝番人が見つけ、大いに驚き捜索人を大勢出して探させたけれども、行方は一向にわかりませんでした。その翌夜に綾織村の百姓屋敷の梨の木に登っているのを家主が見つけて取り押さえ、鵢崎村へ知らせ迎えの者に引渡し、本所(※預けられていた百姓屋敷)へ戻りました。 この事態を新田殿から御訴えになったため、鵢崎村へ横田から御役人が遣わされ、出奔の理由をお尋ねになると、「本当に他領へ逃げるつもりはありませんでした。忍び出た日の当番だった馬場民右衛門へ兼ねてから遺恨があったので、困らせてやろうと思い逃げました」と申しました。このことを盛岡へご報告すると、斬罪を申し付けるようにとお達しがきました。検使は遠野の御目付が遣わされ、斬罪に処されました。このとき新田殿は自ら遠慮(※刑罰の一種で自宅謹慎)を申し立てられました。番人だった民右衛門は、盛岡表から仰せ付けられたのか、それとも遠野から仰せ付けられたのか、切腹を、下番の百姓は斬罪を仰せ付けられました。その後、新田殿の遠慮は解かれたという老人の昔ばなしを聞き伝えております。 同御代の貞享二年(1685)、内堀民部殿(知行千石)が御預けになり詮議も済み、その後首尾よく御預けが解かれて復帰なされたそうです。  このときの御預け長屋は、高知(※たかち 高い知行をもらう身分の高い武士)の御人であっても、以前からある御預け長屋に留め置かれたそうだと伝え聞いております。その御長屋は、今の御槍稽古場のお長屋の辺りにあったそうです。元禄十五年(1702)に表長屋を御修復した際に、今の御預け御長屋に成し置かれました。 義論様の御代、星川惣十郎殿とその子息の宗助殿父子が、ひとまとめに永御預けを仰せ付けられました。遠野へ遣わされ、飛内市右衛門宅へお預けとなり、御同心ばかり二人ずつ番人として置かれていたところ、この父子について、遠野さまへ家来にするようにと仰せ渡しがあったので、三人御扶持と家屋敷を下されていました。その後、盛岡の御末方(※おすえかた? 奥女中たちのことか)からのお願いにより盛岡へ復帰しました。 同御代、報恩寺の住職である圓節和尚が永御預けとなり、遠野へ遣わされ小笠原由右衛門宅へ御預けになりました。番人は星川と同様に置かれていましたが、四、五年過ぎて罪が解かれて盛岡へ帰りました。 利戡様の御代、北川新左衛門殿が永御預けを仰せ付けられ、遠野へ遣わされ中舘金左衛門へお預けし、番人は年配の番頭一人、御給人二人、御同心二人が置かれました。五、六年が過ぎてから中舘殿(※家老の中舘)へ御預けし、東丁の家中屋敷へ移動し以前の通りの番人を付け置かれていましたが、そのうちに御預けが解かれて盛岡へ帰りました。 信彦様の御代の正徳年中(1711-1715)に、本馬孫九郎殿が御預けとなり、たびたび御会所において詮議がなされました。その後、盛岡屋敷で斬罪が仰せ付けられました。御検使は御町奉行・一条図書殿、御目付・服部孫四郎殿が御書付(※通達文書)を仰せ渡しになり、続いて御物書(※記録係)は大里弥七郎殿、御出太刀取り(※介錯人)は遠野南部家の御同心である奥友喜四郎が務め、随分と手際よく首を討ち申したということです。その場所は、御馬屋座敷の前に御幕を前後に張り、外警固には棒持ちの御同心、内警固には御先供(※行列の先に立つ役人)と御給人と棒持ちの御同心が置かれました。その頃私は若かったので、御給人の一人としてこの場の内警固に加わり、始めから終りまで見ておりました。直栄様の御代以来、御屋敷での死罪はこれが初めてだったという老人の話を聞きました。 信有様の御代、小足藤蔵殿(知行現米百石)が永御預けを仰せ付けられ、遠野に遣わされて小向市左衛門へお預けとなり、番人は北川殿と同じように置かれました。その後坂の下の御用屋敷の御勝手の間に囲い座敷を設えて置かれておりましたが、遠野南部家へ家来とするようにとのご命令がありました。三人扶持と家屋敷が下されましたが、その後出奔し行方知れずになりました。 義顔様の御代、石亀市郎左衛門殿が二人扶持を与えられ永御預けを仰せ付けられ、遠野へ遣わされて福田小左衛門へお預けとなり、番人は小足と同様に置かれました。その後、脇山武左衛門へ御預けとなりましたが、そのうちに遠野南部家の家来とするようご命令があったので、二人扶持と家屋敷が下されました。

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