mark 【口語訳遠野古事記】猿ヶ石川の由来と御検地、小八戸氏

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遠野の猿ヶ石川の由来を語り伝える世俗の古い話があります。昔は、内裏へ下仕えの役夫が諸国から大勢登り、三年ずつ勤めるのを千人夫といいました。また、士族・庶民の区別なく生まれつき気立てが良く見目麗しい十四、五歳の少女を、一ヶ国から十人ずつ召し登らせて官女衆の側仕いにして、三年の間に和歌・糸竹などの音曲を見習い、聞き習い、実際にやって習い、その器量が優れたものは長く内裏に留め置かれ、才覚のない女はお暇を下されて故郷へ帰ったといいます。昔から歌人として名を得ている小野小町は出羽の国、和泉式部は陸奥国和賀郡より登った女であるという言い伝えがあります。その時代の事なのでしょう。奥州閉伊郡山田村から登った左内という役夫が、清滝という宮仕いの官女を見初め、忍ぶ恋に焦がれて、彼女に近づく方法を求め探して、密かに一首の歌を贈りました。   雨ふらて うゑしさなひも かれはてん 清滝落ちて 山田うるほせ   (①雨が降らず、植えた早苗も枯れ果てそうです。清い滝よ、ここに落ちて故郷の山田を潤してくれ。②求めるものが得られない恋に飢えた私の命は枯れ果てそうです。清滝よ、私の求めに答え、この心を潤してくれ) 女の返し歌は、   及なき 雲の上なる きよ滝に 逢んとおもふ さなひはかなし   (手の届かない身分違いの私を手に入れたいと思うなんて、①あなたはなんて気の毒な人でしょう。②あなたは可愛い人ね) 男がまた贈る歌、   かけ階も 及はぬ空の 月日たに きよきけかれの 影はへたてぬ   (①梯も階段も届かない空の高みにある月や太陽さえ、光は清らかさも汚れも区別しません。②たしかにあなたは手の届かない高い身分の月や太陽のような方ですが、月や太陽の光は身分の上下の隔てなく照らしてくれるものですよ) 女の返し歌、   よしさらは 山田に落て 清滝の 名を流すとも 逢うてたすけん   (①それならば、山田に落ちたと清滝の名が広まろうとも、枯れかけた早苗を助けてあげましょう。②それほど想うというなら、いいでしょう。身分違いの左内と恋に落ちたと私の名が世間に広まろうとも、あなたの思いに答えて枯れ果てそうな命を助けてあげましょう)  それから人目を忍ぶ夜の逢瀬を何度も重ね、清滝は身重の身となりました。夫婦は内裏を忍び出て、男の故郷を目指して東国へ逃げ落ちました。故郷へ辿り着くよりも先に東国の村里へ、二人を探し出す取り調べをせよという厳しい御沙汰が下されているという噂を聞き、故郷の山田は言うに及ばず、どこにも(ある本には、どこであろうと人の住む里には)身を忍ばせられる隠場所がなく、塀を廻り込むように隠れながら(ある本には、塀を廻り込みながら)遠野東禅寺村の奥山深く分け入り、岩窟を家として(ある本には、しばらく忍び)住んでいるうちに、女は身重の体に重い病を受け、ついにはこの世を去ってしまいました。左内は泣く泣く亡骸を葬り、塚の印に建て置いた石を麓から見上げれば、猿か、石かと(ある本には、疑わしく)見えるので、塚の傍から湧き出る細い谷川を猿ヶ石川と呼んできたと申し伝えています(ある本では、言い伝えがあります)。 一 ある人がこのように問いました。 昔、盛岡御城工事のときに、遠野からも御人足が大勢従事し、大奉行に新田茂左衛門殿や男澤半右衛門殿などが仰せ付けられたといいます。その頃私たちも若輩で盛岡へ参り、数十日逗留し毎日難儀いたしました、と、村の年老いた百姓が語っていたと申し伝える話を聞いたのですが、その時の殿様の御名前も年号も、石高あたりに何人の人足を従事させていたかということも聞いておりません。盛岡御城の築城の始まりは、南部二十七代信濃守利直様の御代、慶長六、七年の頃と申し伝える話があります。その頃の工事のことでしょうか。 このように答えました。  私も詳細な話を聞き伝えてはいないのですが、古い話から推し量って考えるに、利直様の御代の工事ではないでしょう。二十九代大膳太夫重信さまの御代に、盛岡御城の周りの土手数か所に破損があったので、御修理工事の御伺いを公儀へ仰せ上げられ、御老中様方より願いの通り工事をしても良いという旨の延宝八年(1680)十月二十一日付の御奉書の写しを拝見致したことがあります。また、遠野御人足の大奉行である新田茂左衛門・男澤半右衛門なども、延宝年中(1673-1680)にいた人たちなので、あれやこれやと考えるに、この時の工事ではないかと思います。石高あたりの御人足がどれくらいだったかということは聞き伝えておりません。 一 私が十五、六歳の頃、年老いた百姓の話に、昔は遠野にも御検地がたびたびあったそうです。その中でも天下棹というのは棹部分が長く、百姓の迷惑にならなかった、と聞いたことがあります。その他の御検地は田地不相応に棹の長さが伸び縮みするというので、要領のいい百姓は、棹打ちの役人へも御奉行衆へも袖の下という秘密の謀により上田の土地も伸ばした御棹で測り、謀の思いつかない要領の悪い百姓の土地は下田であっても縮んだ御棹で測られたと語るのを聞いたのですが、御検地の年号も何度あったかということも尋ねる興味をもたない年頃だったので、聞き捨ててしまい老後になってから後悔していました。その後、太閤様の御代、文禄三年(1594)に、日本国中へ御検地が仰せ付けられ、御役人が派遣されたとき、大奉行・羽柴下総守、岡野下野守、伊能兵庫頭、朽木河内守、一ツ柳対馬守、新庄土佐守、(このほか一人姓名知れず)、右七人の署名がある古い記録を見つけました。この御検地が天下棹と言い伝えられてきたのでしょうか。これは遠野殿(※阿曽沼氏)の時代のことで、遠野が南部様の御手に入れられる以前のことです。この次の御検地は何度あったのか分かりません。私の曽祖父である長右衛門の覚書に、万治三子年(1660)四月遠野御検地のとき、宇夫方家の知行地の綾織・鱒沢二ヶ村五十石から打出高は五石一斗八升九合とあります。この御検地は大守様から仰せ付けられたものだったのでしょうか、それとも遠野南部家から願い出たのでしょうか、伝わってはいません。延宝三卯年(1675)九月の御検地は、義長様御代であり、大守大膳太夫重信さまへ願い出て、自らの知行地へ御検地を仰せ付けられ、打出し高の内二千石を弟の頼母義也へ下したいとの願いを仰せ上げられました。盛岡から御検地の御役人が遣わされ、遠野上下郷・上下宮森村・志和郡上下佐比内村・二戸郡女鹿村・奥友村・岩手郡平舘村・巻堀村・合わせて一万千五百石の御本高より打出し高三千百八十三石余りのうち、二千石を八戸頼母へ分地として遣わし、残高千百八十三石余りは、自ら進んでお願いした検知の出高なので、お取上げなさらず、義長様へお預け地とするとの仰せがありました。この時の御分地は、  一 六百七十一石七斗八升五合  付馬牛村の内  一 四百三十八石九斗九升    東禅寺村  一 八百八十九石二斗二升五合  平舘村 この通り遣わされたそうです。 天和三年(1683)に頼母様が御遠行なさり、御嫡子の竹之助様が御家督となりましたが、翌貞享元年(1684)八月に四歳でご早世なさりました。御家督を継ぐひとがなくなったので、北九兵衛殿の御二男の伝之助様へ知行高の半分の千石をもって御家を御相続するよう仰せ付けられました。半分の千石は遠野南部家の御預かりとなり、御預け高二千百八十三石余りに年貢をかけていましたが、元禄元辰年(1688)六月二十八日に義長様が御遠行なさりました。義論様が御幼少で御家督を継ぎ、同年霜月に御家老・北九兵衛殿(義論様の外祖父)との相談の上、御先代の頃に預かった御預かり高を残らず遠野南部家から申し出て返上することとなりました。村々は、下宮森村・下佐比内村・女鹿村・奥友村・平舘村・巻堀村の六ヶ村です。     付箋に  一 天和三亥年(1683)六月十二日、頼母様二十五歳にて御卒去、御嫡子竹之助様三歳の御幼年でしたが、残された遺領をそのまま御相続なさるようにと仰せ付けがありましたが、翌貞享元子年(1684)六月三日に弟君の権次郎様が二歳でご早世、同八月十九日に竹之助様が四歳でご早世になりました。御相続の御人が無くなったので、楢山五左衛門殿御息女おゆふ殿を義長様の御養女とし、この養女へ誰か相応の婿養子をもって竹之助の家督を相続させるよう仰せ付けを下さるようお願いなさったところ、北九兵衛殿の御次男伝之助殿をもって名跡を継ぐよう仰せ付けがありました。しかし双方まだ幼いため、貞享三寅年(1686)三月二十六日、おゆふ殿十三歳、伝之助殿十四歳になり、向かい屋敷へ御引移りになりました。ただしおゆふ殿は養女で身分が上であるため、当日の朝食に屋敷に入り、伝之助殿は昼過ぎに屋敷へお出でになったそうです。

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