mark 【口語訳遠野古事記】桔橋(はねばし)工事

Pocket

一 昔は猿ヶ石河に橋はなく、六日町裏の木の下に船渡し場があって、対岸の宮ノ目と行き来していたそうです(木ノ下と云うのは三ヶ月堂松の尾の社の辺りのこと)。その頃は本町丁の下に飛内右内、小原治太夫の屋敷と、その裏にあたる六日町の屋敷はなく、船場へ通じる道になっていたそうです。そのときに船をこぎ出す所を舟場といいました。この川が洪水の時は舟の往来が止まり、下郷への交通に差支え人々が迷惑していたそうです。私の曽祖父である宇夫方長衛門が綾織に住んでいたので、時々行き来ができなくなり迷惑していたので、「何とか橋を掛け、人々の交通が滞らないようにしたい」と若いころから思案していましたが、通常の橋のように柱を建てる橋場がありませんでした。そこで、熊野参詣に行った時、諸国の橋に無柱の橋はあるだろうかと気を付けていましたが見当たらず、その後数年絶えず橋の工法を試行錯誤していました。 六十歳の夏に、山蜘蛛が綱を渡して巣をつくるのを見て新たな工事方法を発明し、愛宕岩堂の麓へ橋を造営する計画をたてました。大出山の大きな材木を切り出す者への昼食、大工・木挽きの食事代、手間賃、釘や鎹などの鉄製品の代金、その他の雑多な金銭や橋の完成祝いのご祝儀にかかる諸費用にいたるまで私費でまかなうので、諸材木の代金と運搬費、工事にかかる人足だけをお貸しくださるようお願い申し上げたところ、その願いの通り仰せ付けられました。大工棟梁は御扶持人の十左衛門で、発明した橋の掛け方についてよく説明し工事に取り掛からせました。この工事に働きに出る人足たちは、「橋の板を渡すときにきっと足を踏み外して川の深みへ身を沈め、あたら命を亡くす者が数多く出るだろう」、「父母・妻子・兄弟に悲しみの涙を流させるような悪業の罪を作らせる長右衛門殿の涙の橋へ今日も工事へでなければ」と口々に罵り、人足以外の人々も「昔から舟渡しで事足りていたところを、十の内九も成功する見込みのない橋工事を計画して人殺しをするのか」と、老若男女が陰口をたたいていました。なおさら願主の長右衛門は「工事中に人足に怪我があるだろうか」「もしこの橋が完成しなければ、この橋場で腹を切り他人に顔向けできないだろう」と心を決め、寝食をも忘れるほど人足の配置の心配りに気をもみ、あちらこちらの神仏へ橋の完成を人よりずっと丹精に祈願しました。そのため、人足に怪我もなく、思い描いた通り完成して「桔橋(はねばし)」と名づけました。渡り初めの祝儀が済んだとき、ようやく安心できたと語っていたそうです。橋の噂は他領他国へも段々と広がり、「南部遠野の城下近くに柱の無い新しい橋が掛けられているのを見物しよう」といって、あちらこちらから見物にくる人々が二、三年は橋場に絶えなかったそうです。  この橋を見本にして大迫町の桔橋をはじめ、信州木曽路の桔橋などもできたそうす。前に述べたとおり、この橋工事は長右衛門から願い出て掛けたので、近頃のように自他郷の村々から舫(もやい※無尽的な金融制度)の掛け金で行った事業ではなく、長右衛門の私費の金銭・米・諸経費の勘定記録は長右衛門の自筆で書かれており、残された記録の写しは次の通りです。    覚え   一 米十八駄片馬一升  代金に〆て二十九切     内、七駄は鱒沢村舟渡の式部からのもの。二駄は綾織村御百姓二十三人からのもの。この米の使い道は次の通り。   一 二駄片馬  大木材の切り出し時の食事用   一 餅米一駄  橋祝いの経費   一 七駄    木挽き(※角材や板材を製材する職人)と手伝いたちに四十日分の食事用   一 八駄一升  大工の食事用と濁り酒・昼食・橋祝い    金銭の経費   一 六切と三百文     木挽きの手間賃   一 十四切と三百五十文  釘・鎹の代金   一 十一切と七百八十文  大工の手間賃    橋祝いの経費   一 九百文   橋三か所へ懸銭   一 二百六文  祝儀用の撒き銭   一 五百文   妙泉寺へ初穂料   一 二百文   大村禰宜へ初穂料   一 一貫文   大工・十左衛門へ橋祝いの祝儀として   一 七百文   大工七人へ、同じく   一 一貫五百文 酒   一 一貫五百文 その他の購入経費として     金は〆て六十切、銭は〆て十巻九百三十六文    米銭代金にして     全て合わせて七十二切三十六文 元禄の中頃か、大迫町の桔橋の造営の工事は、大迫御代官支配所だけでは出来かねたので、大迫へ続く道筋を行き来する他郷の御代官へも、禄高百石につき幾らくらいと工事費の掛け銭を負担するよう仰せ付けられました。遠野の桔橋の工事には、行き来する他郷へも掛け金をだすようにするべきだということで、取立て差出すようにと仰せ渡しがありました。以来、当地の橋も自他郷の掛け銭でもって工事を仰せ付けられるようになりました。遠野の桔橋掛けはじめから行われた修復や掛け直しは次の通りです。  この橋が初めて掛けられた寛文六年から十六年目、延宝九年に御修復がありました。大奉行は御物頭・中舘金左衛門、下奉行は工藤權左衛門。延宝元年より十三年目、元禄六年御修理がありました。大奉行は御物頭・清水傳右衛門、下奉行。   これより十五年目、宝永五年になって、橋が荒廃し人や馬の行き来が危なくなったので、下御同心丁の外れに仮の土橋を懸けて往来するようになりました。桔橋が掛けられた寛文六年から、仮土橋が使われるようになった宝永五年まで、四十五年が経っています(※実際は四十ニ年)  宝暦(※宝永の間違い)七年に橋を新たに掛け直しました。盛岡から大奉行として中河原半平殿、下奉行として野村宗八殿、駒ケ峰七郎右衛門殿が遣わされました。この年から十三年目の享保七年に御修復があり、大奉行として内田伊五右衛門殿、下奉行として御大工小頭・和右衛門が盛岡から遣わされ、修繕工事にあたりました。   同年六月に大洪水があり、橋が大破し御修理がなりかねたので、先年のように御同心丁の外れに仮の土橋を懸けて往来していました。 享保九年に新たに掛け直しがありました。大奉行は遠野方の御物頭・脇山武左衛門、下奉行は十日市兵衛、澤里岡右衛門。これより十六年目の元文四年に御修復がありました。大奉行は城彌三右衛門殿、下奉行は御大工小頭・和右衛門が盛岡から遣わされました。この年から五年目の寛保三年に御修復がありました。大奉行は内城治五右衛門殿、下奉行の御大工小頭が盛岡から遣わされました。 寛延二年に新しく掛け直されました(享保九年の掛け直しから二十七年目です)。大奉行は盛岡から関津太夫殿、下奉行は遠野方の御給人・島森倉之進、四戸作右衛門があたりました。これより十五年目の宝暦十三年、盛岡から御大工小頭が一人遣わされて橋板だけの修理を仰せ付けられました。

カテゴリー 口語訳遠野古事記