mark 【口語訳遠野古事記】遠野御城張抜、競り駒、会所屋

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一、義長様の御代に天和二年七月、新田小十郎長政殿へ遠野御城郭の惣形を違いなく土図(※見取り図)をつくり、張抜(※立体模型)に作り献上するようにと仰せ付けられたそうです。実家の親族である弟の福田正兵衛政友と相談し、数か月間心血を注いで完成させた張抜を献上しました(張抜細工の棟梁は川原木治兵衛です)。御褒美として備前守光の御刀を拝領されたそうです。この御城の模型は四つの箱に収められ、盛岡御屋敷の御武具蔵へ納め置かれています。しかし、その御城の模型にも箱にも、小道具頭が管理するお道具帳にも、制作者の姓名年号月日の書付がありませんので、後の世になって制作者を知る人がなくなり、長政殿の芳名が世に埋もれてしまうことを惜しんでここに書き記しておきます。   長政殿は当代小十郎殿の高祖父にあたり、甲州流城取鍛錬で、その頃の盛岡御家中屈指の軍学者たちに影日向なく称賛される達人であったので、遠野御城の模型を作るよう仰せ付けられたのだそうです。弟の福田氏も城取りの達人だったそうです。 一、公儀より諸国へ御巡検使を派遣されるようになったのは寛永十年からです。そのときから遠野へもお越しになっていたそうです。この時のことなのでしょうか。一日市町から大手へ向かう入口の左右に御旅宿の御仮屋(※藩主や巡検使が宿泊する施設)が二軒建てられました。御用地として町屋敷裏をお取上げになり、屋敷の持ち主たちへは石倉町裏の畑を無税の代替地として下されました。このほかの一軒の御仮屋には、一日市町の又助の家(この屋敷に当時は作右衛門という者がいた)を御借上げなさられ、この以後も御巡検がお出でになった際はその度ごとに御借上げなさっていました。これ以後の又助は町役(※屋敷持ちに課された義務や負担など)を免除されるとのご命令があったのですが、その子孫は暮らし向きが苦しくなったため家屋敷を売り払い、同じ一日市町の別の屋敷へ引き移りました。しかし又助が自分の屋敷を貸し上げていた他にも様々な御用に際してよい働きをしたことを捨て置かれず、引き移った屋敷の町役御免はそのままにして、以前の屋敷を買ったものは町役を勤めるようにと仰せ付けられたそうです。寛文七年、延宝九年の御巡検衆も遠野へお出でなさりましたが、寛永七年からそれ以後もお出でにならないので、東側の御仮屋は取り壊し西側だけ残しています。 一、盛岡から毎年の掫駒(※せりこま。馬の競り)に御役人がお出でになる時は、以前から西側の御仮屋を御旅宿としていました。競り場は十文字丁の前後を違い簾垣で囲い、御仮屋と棟続きの町屋へ盛岡の御役人や遠野の御町奉行・御代官・御馬方の居並ぶ席を設けるようにし、普段は屋守(※管理人)を置いているだけでした。馬御用のある日は、昼のうちは御城から一日市へ御急用の際に差支えになり、かつまた、競りにかけられる馬の惣馬改めの時には、村々から連れてきた馬を一日市町へ集め置くので、他領他郷から行き来する人の妨げにもなります。そのため享保年中に裏町検断の屋敷のうち、下の方を御借り上げし馬御役人の御旅宿を建設し、競り場も惣馬改めの場所も裏町に御移し、十文字の御仮屋敷は廃止されました。 一、以前は会所屋(※集会所の意味だが、ここでは罪人の取り調べをする建物)のような施設はなく、御詮議の必要な科人は御町奉行宅で、重罪の詮議を受ける者は一日市町の西御仮屋で拷問も行っていました。正徳年中一日市町の屋敷裏を御用地にお取上げ地代金を下され、新しく会所屋を建てたのですが、宝暦四年七月に来内川の大洪水の時に建物の半分が流され、残った部分も倒壊してしまったので、近頃残らずお取り壊しになり再建もされませんでした。(同十四年以前のように建物を再建する工事のご命令が下されました) 私の母の話に、私たちが幼年の頃まで同丁の御家老・中舘古忠左衛門殿の御宅(当代の中舘彦四郎屋敷)にて、毒飼(※どくがい、毒を飲ませること)の罪人の御詮議に、木馬・錐揉・なんばん問いの拷問を行ったそうで、科人の苦しむ叫び声が手前の母屋にも聞こえてきて恐ろしく思ったと語っていました。この通り重い科がある罪人は、以前から御家老の屋敷で御詮議の拷問するよう仰せ付けられていましたが、御城の御曲輪にある御家老の屋敷へ罪人を引き上げて拷問を行うのは遠慮するべき事であろう、と御家老宅で行っていた御詮議を西御仮屋へ御移ししたのである、という老人の話を聞いたことがあります。  ある人からこんな問いかけがありました。「会所屋がなかった以前は西御仮屋で科人の御詮議の拷問なども仰せ付けられていたそうですが、両御仮屋は公儀御巡検衆並びに盛岡からの上使衆が当地へお出でになった時におもてなしする御旅宿として建てられたものです。その建物へ縄で縛られた罪人を引き入れ拷問を行い、御屋敷を穢したところでご接待することは上々様へご不敬の御失礼なことだと、その頃の御役人衆は一向に気付かず無遠慮にお命じになっていたことが段々と世間に広がって、外聞のよくない噂などが聞こえるようになったため、別の場所へ会所屋の築造を仰せ付けられたのではないでしょうか。真偽はいかがでしょうか。」  このように答えました。昔の御役人はなんの考えもなく科人の詮議の場を御仮屋でと仰せ付けられたのではありません。慶長五年九月、権現様が関ヶ原の御合戦で御勝利なさる以前は、江戸へ勅使(※朝廷からの使者)が御下向なさることはありませんでしたが、権現様が天下をお手に入れられて以来、毎年京都から勅使が御下向になるので、御逗留中のおもてなしの御旅宿にと新しく築造なされ、「伝奏御屋敷」と称していました。これ以前は諸役人による訴訟評決の御寄合は御老中の御宅で行われていたそうです。伝奏御屋敷ができてからは、通常は使われない空き屋敷に番人が置かれているだけなので、公儀の寄合所にするべきだろうと、訴訟評決のときにはこの屋敷へ諸御役人衆が集まりました。しばらく経ったのちの御役人衆の御評議で、「科人の中には傷を負っている者もあり、悪病に冒されている者などもあり、それを召し出して詮議を行い穢れてしまった建物を、朝廷からの勅使の御旅宿にしておくことは、天子様へのご不敬の御失礼である」と申し、かつまた、勅使の御逗留中は、御急用の評定や寄合を控えなければならず、御政事の差支えにもなるので、あれやこれやと寄合の場所を別地へ御移しするべきだろうということになりその造営の工事ができた時、「評定所」と呼ぶように仰せ渡されました。しかし数十年も人々は『伝奏所』と呼んできたので、いまだに「評定所」とは申さず「伝奏所」と言う老人がいるということが、近頃世に出た『落穂集』という書物に載っています。当地では西御仮屋で科人を詮議する寄合が行われたことは、江戸の伝奏所に準じて仰せ付けられたことであり、その後に会所屋を別地へ建てたことも、江戸の御評定所の例に準じて仰せ付けられたことと察せられます。このことに限らず、世間の風俗は昔と今とで変わることが数多くあることなので、みだりに昔の人の批判をするものではありません。

カテゴリー 口語訳遠野古事記