mark 【口語訳遠野古事記】御蔵の造営と御城の火事

Pocket

一 坂の下の御蔵屋敷は、御城代が遠野を治めていた頃は欠ノ下茂左衛門が住んでいたそうですが、直栄様が御引移になったときに、米内仁兵衛に下され、その後石倉丁へ屋敷替えを仰せ付けられ、旧屋敷はお取上げになり、御蔵屋敷が建てられたそうです。   これ以後に御立て直しがあったのでしょうか、これまであった御蔵屋敷は落ちぶれてしまったので、宝暦十三年に新しくお建て替えになりました。  直栄様が御引移になった始めの頃に、遠野旧士の浪人・宇夫方清左衛門が召し出され、下郷の御代官を仰せ付けられ、その子・長右衛門と父子二代にわたり、知行所の綾織村での在宅を許されて勤めていましたが、下郷の御百姓が年貢米を上納する蔵は自分の屋敷へ建てて、御蔵奉行も一緒に兼職し、横田町で払い下げられた米は村々の御伝馬で運び、盛岡屋敷で正月に使う御節米も、鱒沢村から自分の屋敷へ人手を呼んで搗かせ、下郷の御伝馬で宮森へ運んだそうです。長右衛門は壮年の頃から医術を好み、半井流の医道を稽古していました。その頃は医者に不自由する時代だったので、盛岡御屋敷の家臣様方が御病気になるたびごと、しばしば呼ばれていました。御代官と同役の及川内記は小友村に住んでいましたので、綾織の御蔵に遠く急な御用に差し支えるので、長右衛門屋敷の御蔵を横田へ御引き移したと伝えられています。坂の下御蔵はこの時のことでしょうか。 一 義長様の御代は、知行地一万二千五百石の他に預り高もあったので、経済状態は潤沢で、御納戸の財産、御金銭、御米穀など御家中や在町の人々へ御貸付けした出納を、奉行・四戸清左衛門と手伝いとして佐郷屋甚五右衛門へお命じになりました。清左衛門が住んでいた元町丁に御蔵屋敷を建てて、貸し付けの返還時期になると回収した元利の米穀を納めていましたが、数年後には納める俵物が多くなり、御蔵が手狭になったので、砂場丁多賀明神の下に別当の少納言という山伏が住んでいた屋敷をお取上げになり、新しく御蔵をお建てになりました。路地の右方へ御俵物を、左方へは盛岡・遠野で御入用の御囲肴(※保存用の乾物か)やその他いろいろな道具を入れ置いていました。義論様の御代の始めにお預かり高を御返上し、また、様々な支出が多く、御貸付けの米穀も段々と減ってこの御蔵を使うこともなくなり、御修理も御面倒だったため、元禄の末になって御取壊しになりました。御蔵の跡地はお料理番の石ヶ森瀬兵衛の屋敷に下されましたが、病死した際に後継ぎの子どもがなく家は断絶し、それ以来、毎年菜園の貸地になさっています。 一 坂の下になる御新蔵は、信有様の御代に建てられました。享保年中の夏は気候不順だったため、この天気が続けば今年の秋は凶作になるだろうと、多くの人が不安に思っているとの話をお聞き及びになり、領民の渇命の憂いを御救いになるための備蓄として、麦を三斗五升俵で百五十五駄余りを御側銭(※信有様の私的なお金)でお買い上げになったほか、五十駄を御勝手方で買い上げるようお命じになりました。しかし、その後に気候が良くなり凶作にならずに済んだので、以前に凶作のご心配のために私的なお金でお買い上げになった御麦は御用人へお預けになり、御勝手方でお買い上げになったものは御勝手方にお預けし、領内で希望する人へ御貸出しする旨を御代官へ仰せ付けられました。毎年御貸付けの御元利の返還の俵物が段々と多くなってきたので、新しい御蔵を建てて御納めしていました。その後、御麦の一部を御米・御稗・金銭に替えて御貸付けをしていましたが、この備蓄が、宝暦五亥年に大凶作の時、御家中や在町の飢えに苦しむ多くの人々を御救いした根本となりました。 一 御本城の屋根は昔は茅葺だったそうで、慶安四年(宝暦十三年から百十三年前)の春に、西丁の河原木小兵衛宅(現在は金濱彌三右衛門の屋敷です)から出火しました。西風が激しく、その頃は搦手井の下から此方に杉岡安内・馬場弥左衛門・西村八右衛門と家が続いていた所へ火が吹付け、その火は作田庄蔵宅のある南舘へは行かずに御本城へ燃え移り、さらに火災は大手門方面へ向かい、福田蔵人・中舘勘兵衛の屋敷が焼失しました。そのほかの御曲輪屋敷は無事に残ったそうです。この時代の出火の火元はすぐさま入寺して無調法の申し立てを受ける風俗であり、また御城がご焼失した火元であったため、小兵衛は対泉院に入寺して切腹を仰せ付けられるのを待っていました。しかし、遠慮御免の儀(※寺での謹慎を解く命令)が盛岡本家から出されたため、勤めに出たそうです。御城の御造営の工事を急ぐため、しばらくの間は御仮屋同然にとの御指図で、屋根は柾葺きにするよう仰せ付けられたそうです。   その頃まで、倉堀丁向いの檜澤山は、夥しい檜の木立で良材が多く、麓には木地挽きが居て柾の曲げ物や椀などを作っていたそうです。昔は椀を五器と呼んでいたので、五器商たちの住む所と申したのですが、後の世の人が「五器石」と呼ぶのは誤りであるという古説があります。  その御造営で使う材木は、大半を檜沢山から切り出したそうです。このとき、経谷ヶ沢の屋敷の主へ別所に引き移しを仰せ付けになり、旧屋敷は御取壊しになったと申し伝えています。この御造営の時代は檜柾が安価で、御家中の家蔵の多くは柾屋根であったそうです。しかし、あちこちの檜山を段々と切り尽くし、享保年中の頃から次第に柾に不自由するようになり、高値になったため、御城の屋根の御葺き替えの御柾代が毎年過分な負担となっていました。そのことを、金ヶ澤の孫十郎という百姓が聞き及び、享保十八年の春に申上げたことには、「お屋根を茅葺になさるのでしたなら、梁より上の諸々の細工は私たちの入会地のもので以て仕上げられます。天井の御材木の切り出しや萱は私どもの村へ仰せ付け下さいますように」と願い上げました。その願いの通り仰せ付けられ、火事で燃え残った建物の屋根を全て茅葺にする工事が済むと、孫十郎へ褒美として屋敷付の五石分の永代非課税の土地を下されました。   慶安四年の御造営以来、御立て直しもなく、そのままの御屋体を時々御修理していたようには見えますが、長い年月が経っているので、御本丸・御台所の建物は共に甚だしく荒廃していました。宝暦十二年に御台所、同十三年に表奥の御座敷も残らず御修復の工事が仰せ付けられ、完成しました、    付箋に、  一 御本城の御塀は前々から掘立柱で、板の囲いに矢玉の狭間を切っていました。宝暦四年七月の山洪水のとき、柱を建てた地面が崩れ去り、所々の御塀が倒れてしまいましたが、その間数(※倒れた塀の長さ)が少なくなかったのですぐに立て直すことは難しく、しばらくの間は簾垣にしておきました。しかし翌年は大凶作で工事が延期になっている間に、残った御塀の柱の根が朽ちてしまったので、明和二年に残らずすべて、石を据えた土台に柱を建てた太鼓壁の御塀となりました。ただ、大手御門へ向かう左右は宝暦十二年の春に以前の通り板の囲いの御塀にしておいたため建替えの必要がなく、このときはそのままにしておいたそうです。御建て直しの時の大奉行は側用人・男澤安作、同じく仁田弥三兵衛です。

カテゴリー 口語訳遠野古事記