mark 【口語訳遠野古事記】家臣屋敷と桜馬場

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一 八十四、五年前までは、坂の下丁上手の番屋の向かいに惣門がありましたが、土手は柵で囲われており御塀はありませんでした。砂場丁から坂の下へ行く道路口には惣門も御塀もなく、土手に茨の垣根を結い付けているだけで障害になるものがないので、他郷他領の乞食も鉦打坊主も抜け参宮の子供たちも勧進にやってきました。その頃、松前夷だろうか、田名部の夷だろうか、全身に毛が生えた乞食夷が小弓に小矢を取り添えて、度々やってきたのを幼少の頃に見て殊の外恐ろしく思いました。「それ、夷が来た」と言うの聞くと駄々をこねて泣くのを止め、部屋の隅に逃げ隠れしていたと私の母が話していました。母は坂の下丁の中舘金左衛門の娘です。 一 西町から御坂へ上がる右側の畑は直栄様お引越しになられた前後の頃には誰が住んでいたの屋敷なのでしょうか。私が若いころに老人に尋ねても聞くことができず、古い記録にも残っておらず、そのため分かりません。元禄の中頃に橘儀右衛門に下され住んでいたところ、享保年中に坂の下丁下手の惣門際の右の中舘豊松の上げ屋敷(※取り上げられた屋敷)を工藤相馬へ下され、石倉丁から引き移ったとき(いまは清水傳右衛門の屋敷)、相馬の屋敷を儀右衛門へ下され、石倉丁へ引き移り、元の屋敷はしばらくの間、武者溜り(※武士が集合するときに使う広い場所)として使っていましたが、掃除などが手間なので近頃、金濱弥三右衛門への御貸地となっています。 一 御城の御曲輪の所々の空地や経谷ヶ沢へ漆の木をたくさん植え置いたのですが、数年を経て古木枯れ木が多くなり、御用漆も不足になり、実生は木陰では成長しづらいので、享保年中に末崎和右衛門が申し立て、杉の種を配布し、役に立たない漆の木を伐り払い、段々と杉苗を植えていったので、現在のように成長し杉林になったのです。 一 桜馬場は、寛永十七年の春に新しく建てる御普請を大奉行の小笠原九右衛門が仰せ付けられ、長さ三町の土手に松と桜を植えておられましたが、この年より宝暦十年まで百二十三年が経ち、桜は段々と古木になって朽ち倒れ、今は三、四本が残るだけです。松は年ごとに枝葉が茂ったので、若木の桜を何度か植え置いたけれど松の木陰になって成木しませんでした。先の御普請から数年後、馬場弥左衛門を経谷ヶ沢から下御同心丁裏への引き移りを仰せ付けになったとき、屋敷が狭かったため、馬場を詰め屋敷と通路に御割り出しなさったそうです。  馬場の左側に平地があり、世間では丸馬場と呼んできました。ここには乗用の三歳馬を十五頭繋ぐ御馬屋があり、毎朝の訓練が仰せ付けられていました。    付箋に  一 明和三年戌年の春、丸馬場へ新しい御馬屋を御造立になったとき、御本丸にあった御厩はこのとき御取壊しになりました。場所は御茶之間口の向いにあたり、下御台所へ行く右側の地形早き(※傾斜のある、という意味か)所です。この御厩の御普請を担当したのは、大奉行の川原木小兵衛です。 同じ場所の南側の隅に杉やひばを植えた古い木立の中に馬冷やしの水溜地があり、私が若いころ、毎年水面に落ち浮かぶ木の葉やごみの清掃を仰せ付けられた際に、見ると、水底に切り石を敷いていました。馬場から丸馬場への入り口の左側の土手に長さ二間、幅一間の大きさの御馬御覧の御仮小屋があり、その裏手には牡丹・芍薬・高麗・薄玉・瓔珞など色々な草花、紅葉、柳などが植えられた御花園がありました。今は古木の一本柳のみ昔の形見に残っているそうです。私の祖母の話によると、直栄様が御引移になった始めの頃は、藩の御境の争論や他領他郷のならず者たちが紛れこみ、難しい問題が絶えない場所だったため、たいてい遠野におられたため段々と治安もよくなり、その後は利直さまの御頼みがあったため、御用席(※家老職)の職を勤められていたときも、毎年遠野へお出ましになり、遠野領の政事や御境の見回りをなさったそうです。そういった時に休みを願い出るときは表だって申し上げるのではなく、御家老中へお届けになるだけで、御手回りの家臣の方々だけで一緒においでになり、ゆっくりとお過ごしになったそうです。義長様が成人なさると、父子様は隔年でお出でになったそうです。直栄様が御引移になったとき、御家中の三十石以上の家臣と寺院は役馬(※軍用馬)を持つようにと仰せ付けられ遠野にご逗留の際には桜馬場でたびたび役馬をご覧になったそうです。義諭様はまだ幼いころに家督を御継ぎになり、十一歳の時に遠野へお出ましになったきり、十八歳でお亡くなりになりました。利戡様も御当家を御相続されてから二、三度お出ましになっただけだったので、御家老衆が桜馬場で毎年役馬の御改(※見定め)をしていましたが、元禄年中に凶作が続いた頃、三十石をいただく御家中の役馬や寺院の役馬の飼育の見通しがたたず難しいため免除されましたが、四十石以上の役馬は例年と変わらず御改めがあり、御馬御覧の御仮屋も享保の始めまではありました。しかし享保年中に大守様が御家中の収入のうち四分の一、三分の一、五分の一と御借上げになることとなったので、遠野南部家の御家中からも同様に借上げになったので、五十石以下の役馬の飼育は当分の間免除されました。宝暦五年の大凶作のときには、御家中の大身も小身もともにとても困窮したので、みな役馬飼育は免除されました。

カテゴリー 口語訳遠野古事記