mark 【口語訳遠野古事記】遠野城下

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一 古い話では、乱世の頃はどの国でも城内に牢屋を建てて囚人を入れていたそうです。遠野にも以前の領主の頃から御城代の頃まで、中御門の内側で、近頃御焔硝蔵が建てられた場所に牢屋があって、殺生場(※処刑場)は中舘屋敷の敷地の下、来内川の端にあったということです。直栄様が御引移りになってからもしばらくの間は元々あった牢屋をお使いになっていましたが、その後今の場所に移されたそうです。  今の牢屋も私が若いころまでは、四方に柵を廻し、柵の間には茨をおびただしく結い結んで置いていたのを見たことがあります。  御城代が遠野を治めていた頃は、犯罪者たちの本籍地の取り調べができず捨て置かれていましたが、直栄様が御引移りになられてから次第に詮議なさられ、大半を引き戻したので利直様は大いに喜ばれ、今後遠野の科人の処罰は三戸本家へ伺う必要はない、拷問死罪ともに遠野の役人たちへ申し付け執り行うようにとのご命令があったので、宮野目川原へ処刑場をお作りになったそうです。 一 坂の下丁の御用屋敷は、御城代の時代には誰が住んでいたのか分かりませんが、直栄様がお引越しされてきたとき、作田主水へ下され、その子新田内匠まで二代にわたり住んでいたそうです。その次に、中舘典膳の次男・十兵衛へ下され、その子十兵衛の代に宝永年中には中舘忠左衛門が上がり屋敷(※藩にお取上げされる屋敷のこと)へ屋敷替えを仰せ付けられ、十兵衛の元の屋敷をお取上げになり、御用屋敷と称し屋敷守を置いていたところ、最近になってご隠居様(※信彦様か)がお住まいになるようになりました。 一 同所の左側に空屋敷があります。御城代の時代には誰が住んでいたのか分かりませんが、直栄様が御引移になって以後は十五匹立(内五匹は御小荷駄用)の馬小屋があって、御馬別当と馬調教師たちが交代して昼夜詰めていて、坂の下丁で馬の調教や乗馬訓練をしていました。御城の御馬屋にも馬がいて、この頃は、御家中の諸士の中で馬好きな若者たちは、御馬別当から馬を借りて、乗馬の稽古をしていたので、馬達者の衆が数多くいて、二男三男も馬の調教のために召し出されて出世する者が数々続いて出ましたが、元禄の末に御馬の数が減りこの御馬屋を取り壊し、御城の御馬屋にだけ御馬を置くようになりました。 一 御馬屋の御門前から中御門の端までの御坂は、以前から左右共に御塀で、中御門の下から御蔵の傍へ流れる水払いの堰(※排水のための堰)は、箱樋を伏せ置いておりましたが、享保年中に御塀の代わりに生垣になさり、箱樋もやめて、普通の堰になさったそうです。 一 大手口にある来内川の土橋(※丸太に土をかけて橋にしたもの)は、以前は欄干のついた板橋がかかっていました。宝暦四年に大洪水があり、橋が落ちたのでその「うち再建しよう」、と工事までの間に仮の橋として土橋をかけておいたところ、翌年は大凶作で身分の上下関わらず困窮したので、工事を延期しましたが、いずれ橋を建替える御心積もりはあるものと承っておりました。最近以前のように板橋が完成しました。(同十四年の春に板橋になりました。この時初めて桔橋(※はねばし、可動式の橋のこと)にするように命じられました。)  新町の道路の土橋も、以前は大手門と同様の板橋が有り、享保七年の六月の大洪水に落ちた際に、追って再建するとまでと仮に土橋を掛けたのだそうです。   付箋に  明和四年の春まで、新町で土橋に差置かれていましたが、同年の夏に以前の如く板橋にする工事を御命令になられたとき、大奉行河原木小兵衛が御元締め役を町奉行と兼職しました。 一 直栄様お引越し以後、坂の下丁の中舘金右衛門屋敷と橘治五助屋敷の間に、新田九左衛門(知行五十石、藤五先祖)の屋敷がありました。清水傳右衛門屋敷の左方に久保田勘右衛門(知行五十石)の屋敷がありました(門口は砂場丁側を向いていました)。北側にある中舘彦四郎屋敷と小向六郎左衛門屋敷の間に、橘甚之丞(知行五十石、甚兵衛の先祖)の屋敷がありました。この三人の屋敷は仔細あってお取上げとなり、勘右衛門の屋敷は砂場丁の土手の敷地と傳右衛門の屋敷の間に割りいれられ、甚之丞の屋敷は左右の屋敷へ次第に割りいれるようお命じになったそうです。九左衛門の屋敷も左右の屋敷へ割りいれられたそうです。そのため、新田九左衛門、久保田勘右衛門、橘甚之丞の三軒の屋敷は一度に御取り潰しになったのではなく、順番に取り潰されたのだそうです。この丁は内丸といい、いずれも家主は五十石以上の上士なので、主君から仰せ付けがあったのでしょうか、各家の屋根は柾葺きで、表は門と塀を構えておりました。世の中が段々と困窮するにつれて、家の塀の修理も出来かね、最近になると、屋根はすべて茅葺になり、塀を簾垣に替えた屋敷もあります。

カテゴリー 口語訳遠野古事記