mark 【口語訳遠野古事記】新たな町づくりと鍋倉城

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一 御城代が治めていた頃までは、一日市町と六日町ばかりがあるだけでした。直栄様が当地へお移りになられて以後、妙泉寺・善應寺を今の寺の場所へ引き移し、その跡へ町屋敷を割り出され、新町(しんまち)と称しました。六日町も北の方へ町屋敷を割り出さられ、その跡を御給人丁になさられたので、世俗では元六日町丁と呼びました。その後「六日」の二字を中略して元町と呼ぶよう仰せ付けられましたが、私が子供の頃までは老人は「元六日町」と言っていたのを聞いております。それ以後、一日市町の引き続きに町屋敷が作られ、世間では新町(あらまち)と呼びました。これは今の穀町のことです。その後に一日市町の裏へ町屋敷が作られ、世間では新町(しんちょう)と呼びました。今の裏町のことです。また、小友町は昔からあった町ではなく、金山が繁昌したときに、自他領の者が大勢集まり働いていたので、餅・酒・強飯・煙草・履物などを商売する者たちが町屋のように仮小屋を懸け続け買った場所であり、金山が閉山してからは、小屋場をそのまま町屋として人首への馬継所にしていただきたいと願い申し上げ、その願いの通りに仰せ付けられましたが、往来する人馬が少なく、町内の者たちの生活が成り立たなくなりました。そのため、市日を決めて市に来る人が集まるようにしたいと願い上げ、その通り仰せ付けられたのですが、昔から市があった町とは違い、新市であるため市の参加者が集まらず、町の賑わいにもならず自然と市は絶えてしまいました。 一 当地の御城は遠野殿の時代から「御城」と申してきたことを、寛文年中に公儀から大守様へ、盛岡御城から自他領の城下へ道法(※距離)をお尋ねになられた時の書状の写しは次の通りです。    奥州のうち、南部盛岡居城より方々の陸地海上の道程の覚書 一 盛岡私居城より江戸日本橋まで、百三十九里ございます。 一 同所より花巻城まで、八里二十二町三十六間。 一 同所より遠野の内横田の八戸弥六郎の城まで、十三里。 一 同所より、同名武太夫の城のある八戸まで、二十七里二十五町五十六間。 一 同所より仙台まで、四十八里ほど。    このほか他領各地の城下への道法は御本書に記されているが、数が多いので省略します。     寛文九年六月十九日    南部大膳太夫       北条 安房守殿 里の老人が申し伝えている話にこのようなことがあります。延宝年中のことでしょうか、遠野へ御巡検衆がご到着された際に、「ここでは領主の城を城と呼ぶか、舘と呼ぶか」と お尋ねになりましたので、ご挨拶人が「以前から城と申しております」とお答えしました。すると「二の丸、三の丸などもあるか」とお尋ねになるので、「家中の新田小十郎の屋敷を二の丸、中舘勘兵衛・福田正兵衛の屋敷を三の丸と申し伝えております。本丸は四方を塀で囲い、表門は四足門でございます。二の丸の周囲には柵を立て、四足門を備えております。そのほかにも曲輪に家中の屋敷が四、五軒ございます」とお答えしました。すると「塀に矢狭間を切っているか、堀もあるのか」とお尋ねになりましたので、「本丸の塀にも中の門の塀にも矢や鉄砲を撃つための狭間がございます。地形は高いところにある山城なので水堀はなく、空堀が二、三ヶ所ございます。また、大手口の外側に来内川という川があり、この川を掘同然の要害として用いております」と申し上げると、「返答の内容からも御城と呼ぶのはもっともなことである」と仰せになったそうです。それ以降も「御城」と呼んでおりましたところ、享保年中に大守の利視様から「舘と呼ぶように」と仰せがあり、それ以来「御舘」と称しております。この御命令はどのような理由があったからなのでしょうか、幕府へも「舘」とご報告したことを、大守様が後悔なさっているという噂がありました。 一 御本丸と澤里殿屋敷の間にある屋敷跡に作られた畑は、御城代が遠野を治めていた時代に、宮森助十郎という人が住んでいたといいます。直栄様が遠野へお引越しになられたときは、岡前宮内へ下され、宮内が滅亡してからは福田蔵人に下された土地でした。今の福田屋敷の場所に住んでいた工藤四郎左衛門と屋敷替えし、四郎左衛門の子孫が代々住んでおりました。寛保年中の四郎左衛門の代に住宅が焼失したため、その頃の石倉丁に空き屋敷があったので四郎左衛門へ下され引越しし、元の屋敷は澤里殿へ御預けになりました。この時の火事では、本丸の御馬小屋と澤里殿の御宅へも延焼するのではと、とても危なく見えましたが、どちらも無事で他に飛び火の類焼もなく、一軒の焼失だけで火は鎮まりました。 一 搦手の御門の上の左側の下に南北に細長い平地があり、当時は漆の木立になっていました。御城代の頃はどなたの屋敷であったかは分かりませんが、直栄様がお引越しされたあとは類家勘左衛門へ下され住んでおりましたところ、この家が断絶し、以来御菜園畑になさっているそうです。 一 新田殿の屋敷の北方の下の敷地に屋敷跡に作られた畑があります。御城代の頃はどなたの屋敷であったかは分かりませんが、直栄様がお引越しされたあとは、新田の一族である作田相模が住んでおり、以来代々子孫が相続しておりました。作田伝七の代に、禄高が少ない身分では御曲輪に住むのは困ると、正徳年中に内々にお願い申し上げて、佐郷屋丁へ新しい屋敷を下され、砂場丁に住んでいた菊池道徹の屋敷と取り替え引っ越したので、元の屋敷はお取上げになられました。 一 里人が伝え聞いたという古い話に、遠野領が南部様のものになり、利直様がご入部された時、二の丸(南舘のことです)の西方は山林に続き、要害として守りが固いように見えなかったので、草木を切り除き、新しく空堀を作ることを三戸へお帰りになる前に完成させるようにと御命令になりました。その場所を自ら指図し、毎日現場へお出でになり工事の指示をなさいましたが、地形がさる岩(※厳しい・堅固な岩場)であったため捗らず、夜中も提灯や方燈を灯して工事をしたので、堀の右方の山を世間では「あんどん森」と呼んだそうです。この御堀は蔵堀丁から東丁へ山越えに行き来する南舘の下、曲輪の白兀道(しらはげのみち)のことです。

カテゴリー 口語訳遠野古事記