mark 【口語訳遠野古事記】歴代の御戒名と新たな町づくり

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一 将軍家でも諸大名でも、ご逝去された後にその方の生前のことを申し上げる時には御実名ではなく御戒名で呼ぶのは世の中の習わしでありますが、この書面では、遠野南部家代々の事を記すのに御戒名を書かず御実名を書いています。そのため、御実名を知らない後世の人が「どなた様の事だろう」と不思議がることもあるかもしれないと、直栄様より以後の御戒名を次の通りに記します。 一 直栄様  大乗院殿鉄州源船  延宝二年正月晦日 七十四歳 直栄様がご遠行(逝去)なされた頃までは、当時の風俗として御当家の御戒名に院号はなかったので「鉄州様」とだけ御家中の者たちは申し上げておりましたが、義長様がご遠行なされる頃になると、世間では院号を用いるようになったので、「大慈寺光徳院殿」と号されました。そのため鉄州様の御戒名にも院号を贈りお付けしたそうです。ただ数年「鉄州様」と申し上げていたので、おそらく院号で御呼びした者はいないのではないか、という老人の話を聞いています。そういった理由なので、昔は御家中の御戒名はいずれも「禅定門」とだけ号し、現在のように信士・居士といった戒名は稀なものであったといいます。私が若い頃までは、寺院の卵塔(僧侶の墓)に禅定門の石塔があるのを見たことがあります。 一 義長様  光徳院殿日山恵公  元禄元年六月二十八日 四十八歳 一 義諭様  観照院殿徳眼義公  元禄十二年五月二十一日 十八歳 一 利戡様  要徳院殿玄将機公  正徳二年六月二十一日 三十歳 一 信有様  定涼院殿仁君智通  享保二十年六月四日 三十四歳 以上 一 直栄様が八戸からお引き移りになられた頃は、坂の下・砂場・石倉に侍屋敷がありましたが、離れ離れにあり軒数も少なく、八戸からの御供衆や後から引っ越してきた諸士のための家屋敷が不足していたため、役職をいただいている者の他は知行地の百姓の家を借りて、御城当番のときに在郷から通い行き来して勤めていたそうです。その後、坂の下・砂場・石倉へ新たな屋敷を割加え、屋敷を持たない者たちへ下され軒続きの町になったそうです。八戸から引っ越してきた諸士はいずれも遠野の地理に不案内なだけでなく無筆無算の人が多く、いろいろな仕事に差支えがあり、また遠野領内の治安が静まらない時でもあったので、御譜代衆だけでは御城の警固も心もとなく思われていたので、御奉公を望む当所の浪人や他領他国の浪人を召し抱えられました。新参衆へ始めは二十石ずつ下され、勤労次第で次々と御取立てになられた諸士は次の通りです。 一 及川善右衛門 下郷御境の警固の為に小友村に住むよう仰せ付けられ、組の同心十二人を束ねていました。 屋敷だけ下されていました。同心の召し抱えや世話を任されていたところ、二軒つぶれて十人になったそうです。善右衛門の子孫は代々今でも御境警固の為に小友村に住んでいます。 及川覚兵衛(後に中津山と称す)・及川半右衛門(後に男澤と称す)・板澤長作(後に菊池正右衛門と称す)・綾織清左衛門(後に宇夫方と称す)・駒木與兵衛・人首弥左衛門・下河原長蔵・菊池孫右衛門・菊池新四郎・菊池半九郎・横澤久蔵・荒谷帯刀・末崎彦兵衛・松田與右衛門・沼野太夫・佐郷屋嘉右衛門・外川新助・野田源四郎・秋舘久兵衛・福田蔵人・廣田太郎右衛門。 以上のように寛永十一年の御支配帳にあります。このほか段々と召し出された新参衆は数多くおり、また譜代の新旧の諸士の二男三男も召し抱えられたので、その屋敷を本町丁の馬場前後の二丁と下小路丁・東丁・欠の下丁・佐郷屋丁・新小路丁を次々と割出されました。直栄様がお引き移りになる以前からあった御足軽屋敷は、新田弥市郎殿の家中の屋敷として割出されたので、その頃世間では新田丁と呼びました。正保三年七月、新田家の知行が減らされたとき、新田家中の諸士で遠野南部家へ引き取られた者は次の通りです。 作田相模・河原木石見・是川彦右衛門・水越藤兵衛・松橋長兵衛・馬場右衛門・江刺家弥次右衛門・猪岡甚蔵・類家掃部之丞・石橋兵部・松橋治左衛門・長場弥左衛門・松岡如意・西村八右衛門・島森右近・馬場常閑・遊井名田與三右衛門・高橋弥五郎・七戸三郎右衛門・浅沼清兵衛・寺領附きの寺院は鱒沢長泉寺、同所善行院、小友常楽寺、同所山谷観音別当、平清水清来院等です。これらの者たちは禄高・家屋敷共に新田家に仕えていたときの通りになさられ、屋敷替えもお命じなさらずそのままに置かれ、丁の名前を西丁と称すようにと仰せられました。

カテゴリー 口語訳遠野古事記