mark 【口語訳遠野古事記】藩境塚(2)

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   板橋から箕之輪までの塚の数
一 板橋に一つを遠野側が作り、大森に一つ人首側が、同じ所にもう一つを遠野を側が作り、箱石に一つ人首側が作り、物見山の下に一つ遠野側が作り、田瀬の尾根道より上に一つを遠野が作り、田瀬の尾根の上に二つを人首側が作り、せき取場(関谷場)に一つ人首側が作り、みのわ(箕の輪)に一つを遠野側が作り、みの輪(箕の輪)から似澤野(荷澤)まであり十の藩境塚の内訳は次の通りです。
  みのわ(箕の輪)の向かい側の淵に一つ、上あつさ川の長根(頂上)に一つ、赤坂洞頭に一つ、すり鉢の峠に一つ、きわた沢の峠に一つ、野山(山なし沢とも言う)の頂上に一つ、似澤野に二つ、笹森峠に一つ、狼岩の長根(頂上)に一つ、かわ坂長根(頂上)に一つ、その中腹に二つ。
 板橋から五輪峠まで八つある藩京塚の内訳は次の通りです。
  御仮屋場に一つ、川下し峠に一つ、同じ場所にもう一つ、くきの柴長根に一つ、種ヶ澤に一つ、板橋の手前にある長根の笹森に一つ、とちう(戸中)長根の右方にあるけなし森の峠に一つ、板橋の渡り向に一つ、これは人首領とちう(戸中)村に下る道の左脇である。五輪峠のこちら(遠野)側の左方に一つ、
 この通りの境塚を築き終えて、盛岡・仙台の検分役が互いに境の絵図を交換しました。

   五輪峠の御境絵図に仙台衆が書いた注釈
 和賀郡のうち鮎貝村、江刺郡のうち人首村の山境について、貴領(南部)の者からは五輪峠を、当領(仙台)の者からは鷹清水が境であると申しておりましたが、去年の申し合わせの際に双方で人を出して話し合い、貴領の者が申した通りに五輪峠を境とすることに取り決めました。五輪峠から板橋までは、五輪峠から続く山の峰を境とすることに決め、境塚を築かせました。板橋から気仙の関屋場までは、去年の申し合わせの際には話し合いませんでしたが、双方から人を出し相談の上で境を立てました。関屋場から箕輪は本境に境塚を築かせ、絵図に朱印判を押している通り、今後相違ないものです。
  寛永十九年(1642)六月二十二日    富田四郎兵衛元顯 判
                     伊木安右衛門吉重 判
                     笹町七郎右衛門重俊 判
                     河島豊前頼泰 判
小枝指権兵衛殿
重茂與三左衛門殿
石亀庄兵衛殿

   荒谷(※新谷)村赤坂御境絵図に仙台衆が書いた注釈
遠野のうち新谷村、気仙世田米のうち小股の山境について、当領(仙台)からは赤坂山の嶺切に、東は篠森の通り、西は箕輪の道切が境であると申し上げ、御領分(南部)からは箕輪のもぢが滝が境であると申されましたが、去年申し合わせをしたように、双方から人を出して相談し、当領の古人が申した通り赤坂山の嶺通りに取り決めました。境塚を築かせ、絵図に朱線を引き印判を押している通り、今後相違ないものです。
  寛永十九年(1642)六月二十二日    四人連判
三人殿

  延亭四年(1747)十月十日、遠野御領御境古人が預かる場所について、御奉行・松田忠右衛門、中居林茂太夫が盛岡へ奏上した書状の写し
一 五輪より板橋まで     小友村 采女
一 板橋より定任(※貞任)長根まで   同 勘右衛門
一 定任(※貞任)長根よりまたか峯まで   来内村 三四郎
一 またか峯より赤羽根峠まで   平倉村 長吉、長作
一 赤羽根峠より乱保屋まで   細越村市右衛門
一 乱保屋より仙人三ッ股まで   同村 六兵衛

寛永年中(1624~1628)、南部仙台御境塚を築き始めたとき、双方の古人が争論したことが古い記録にあります。その後古人は中絶したのでしょうか。
元禄年中(1688~1703)に盛岡御勘定から遠野御境についてお尋ねがあり、古人たちをこちらに寄越すようにと申し渡りました。御境の近所の村の有力な百姓の中から御境についてのあらましを承り伝えてきた者たちを古人として盛岡へ遣わされたそうです。それ以来、定役の古人を置くようになったとのことです。けれども、直栄様が遠野へお移りなされた以後、御境奉行の定役はなく、利戡様の御代宝永五年(1708)に、御用人・福田作兵衛、四戸仁右衛門、松橋長兵衛へ御境奉行を兼務するよう仰せ付けられました。翌六年(1709)の春に作兵衛が御境を見回っていたとき、御代官の一人が御物書きとして付き従っていました。このとき古人たちの様子を聞けば、平清水の勘右衛門だけが先年まで地方七石を下されていたのですが、仔細があってお取上げとなったということでした。そのほかの古人たちは役職手当をいただいていないということだったので、御境での御用が済みお帰りになられてから、古人たちへ役料をお与えになることをご相談申し上げたところ、もっともなこととお考えになられ、一人へ地方二石ずつをお与えになりました。その後、御用人衆は御境奉行の職を免じられ、御物頭小向次郎兵衛・男澤権八へと役目を仰せ付けられ、それ以来代々御物頭が勤めるようになりました。

   他領との御境までの距離
一 横田から赤羽根妻ノ神御境まで二里半十七丁、御境から仙台領気仙上有住まで一里。
一 横田から新谷横大道御境まで五里十八丁、御境から仙台領駒田まで一里。
一 横田から五輪峠御境まで五里十八丁、御境から仙台領人首まで十八丁。
一 横田から遊井名田御境まで五里。

   上記四か所のほか、他領へ通じる隠し道
一 板橋水ヶ峯人首の途中へ出る道。
一 大洞大葛の細道。
一 来内の蕨峠の大道、上有住にある西山新田へ出るこの道筋の山村というところに番所がある。
一 長畑の細道、西山新田へ出る。
一 早坂の道。
一 三斗畑の道。
一 小枝越、上有住にある舟作へ出る。
一 尻高澤道、同所秋丸へ出る。
一 栗の木峠の小道。
  この九つの隠し道は、先年(年号月日は分かりません)盛岡の高橋九右衛門殿がお出ましになったとき、確認して御書上げになられたと古人たちが申し伝えています。
  
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