mark 【口語訳遠野古事記】藩境塚

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   南部領と仙台領の藩境塚を築き始めた事について
 南部領と仙台領の境界について、度々問題があったので、双方で話し合いをし、境を決め、仙台藩の老中から南部藩の老中への使者・河島豊前が持参した書類は次の通り。
   《境目申合せ覚え(境界の協定書)》
一 田瀬・かくま沢(学間沢/覚間沢)・すりこ場、長者屋敷通りと境を取り決めました
一 人首の境は、五輪峠頂上と取り決めました
一 立花(江刺)の境は、土橋の端と取り決めました
  この三か所は南部藩の方が申した通りであり、境目を取り決め作ることとしました。
一 気仙赤坂山は陸奥守(仙台藩)領の者が申すように、峰の頂上に境目を取り決め作ることとしました
一 相去、鬼柳(北上)の境は、平野のところは、貴領の者からは、またなかね、炭塚が境であると、また陸奥守領の者は平野が途切れる所(和賀川)を境だと申すので、互いに以前の代の境はさて置いて中間の場所で区切り、新しい境を立てようと取り決めました
 附)鬼柳・相去の境の山中について、貴領の者は駒ヶ岳山頂のお堂の北半分、下は八森峯(鉢森峰)頂上までと申しており、陸奥守領の者は夏油川が境と申しております。これも以前の代の境はさて置いて、中間の場所で区切り、新しい境を立てようと取り決めました。ただし、お堂の北半分は貴領、南半分は当領とお堂については取り決め、駒ヶ岳から流れる水は貴領であっても陸奥守領であっても、水を使う際は話し合い、半分ずつ水を引くように取り決めました。以上。
                 松平陸奥守内  
寛永十八年(1641)十二月三日    河島豊前
 小枝指 権兵衛殿
 石亀 庄兵衛殿
 儀俄 重右衛門殿

このように決まっても、仙台領江刺・気仙、遠野領五輪・赤坂山で境争いがあり、翌十九年(1642)の六月に、双方から検分役を出しあい、境を決め、同月十七日から境塚を作り始め、同二十一日に作り終えました。この時双方から立ち会った検分役は次の通りです。
盛岡より	小枝指権兵衛、石亀庄兵衛、重茂與三左衛門
遠野より	松崎大学、福田蔵人、菊池孫右衛門
        小笠原九右衛門、新谷帯刀、同子久右衛門
        及川善右衛門、同子内記、水越藤兵衛

仙台より	河島豊前、富田四郎兵衛、伊木安右衛門
        千葉十右衛門、笹町七郎右衛門
人首より	沼邊玄蕃殿役人 鈴木勘兵衛、川村嘉左衛門

  以上のような人たちが立ち合い、五輪峠で境界争いの議論をしました。遠野の古人(村の役職名、土地に詳しい者でここでは境目の証人)・外山采女、人首の古人・大内沢の内匠が出て話し合いましたが、采女は言い方がおぼつかないようでした。はっきりと決まらないまま夕暮れになったので、双方引上げ、翌日は采女の代わりに遊井名田番所の與三右衛門が出て争論しました。人首の古人・内匠が「双方の境は鷹清水である」と申せば、與三右衛門は「それはとんでもない間違った言い様だ。鷹清水は昔からこちらの領内に決まっている。その証拠は、織田信長様の時代に遠野の領主・遠野孫次郎殿から白鷹を献上なされた。その白鷹はこの鷹清水に巣を作っていたので鷹清水と言ったのだと、当地の老人たちが代々語り伝えている」と申したので、遠野古人の申し出の通り五輪峠を境とすることに決まりました。
 その次に、板橋の近所の堀切という所で、遠野の古人・平清水の右馬之丞、人首の古人・庄司相の四郎兵衛が出て話し合いました。「この堀が双方の境に間違いがない」と四郎兵衛が申せば、右馬之丞が「あなたの覚え間違いだろう。遠野城代を毛馬内三左衛門が勤めていた頃、他領へ運ぶ商品などを検める置き場として堀を切った所で、昔からの境ではない」と申しました。右馬之丞が申した出た通り、板橋を境とすることに決まりました。
 その次に新谷で赤坂境を決める時、遠野の古人・新谷の源五郎と気仙の古人・小股の内膳が出て話し合いました。「もぢが滝が境だ」と源五郎が申したのですが、言い方がおぼつかなかったため、内膳が申した通り赤坂山の峰が境に決まりました。
 この通り、双方の境の取り決めが終わり、境塚を五輪峠から築き始めました。この時立ち会った奉行は次の通りです。
 一 六月十七日、学間沢より五輪峠右方の塚は、江刺勘ヶ由殿の役人・高屋佐馬之丞、歌垣勘右衛門、遠野より小笠原九右衛門と及河(※川)内記が立ち会いました。遠野に一つ、江刺に一つ、人首に一つ塚を築きました。
 一 五輪峠左方の塚は、人首から沼邊殿の役人・鈴木勘兵衛、川村嘉左衛門の二人が出て塚を築き、これから順番に一つずつ、(盛岡藩と仙台藩)双方が交互に塚を築きました。
 一 物見(種山)から赤坂、笹森、新谷の境まで、遠野からは奉行の新谷帯刀が立ち会いました。



  
カテゴリー 口語訳遠野古事記