mark 【口語訳遠野古事記】人返し

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!欠落(かけおち)とは!
 軍役や重税から逃れるため、または犯罪者などが無断で他の領地へ逃げることを欠落といいました。欠落人がでると家族や町村役人が尋人となり探し出さねばならず、見つけられなければ罰を受けます。また、領主間で協定を定め、それぞれの領地で見つかった欠落人の受け渡しをする「人返し」も行われました。


 直栄様が遠野にお引越しされてから、仙台・遠野の双方の欠落者を藩の境で受け取り・受け渡したのは次の通り。

一 仙台御家来衆の伊達三河殿の奉公人である弥左衛門が遠野に欠落し、駒木村の縫殿の婿になっていたのを、人首の領主・沼部玄蕃殿から傍示打の(藩の境界から出された)書状が届き、寛永五年(1628)九月二十三日に五輪峠で伊達領に返しました。渡し人は一日市町の茂兵衛、受取人は渡辺次郎兵衛。

一 仙台領江刺郡栃内(口内、もしくは栃ノ木の間違いか)せれせれ川主殿(とのも)が遠野に欠落していたのを、藤田但馬殿から傍示打の(藩の境界から出された)書状が届き、寛永五年(1628)十二月十二日に五輪峠で伊達領に返しました。渡し人は及川善右衛門、受取人は渡辺作右衛門。

一 仙台領東山にある、おそ澤の久作が遠野に欠落していたのを、仙台老中から三戸の老中へ書状が届き、寛永六年(1629)七月二十七日に五輪峠で伊達領に返しました。渡し人は及川善右衛門、受取人は菅野筑後・大瀧藤左衛門。

一 仙台領の大眼十左衛門を寛永七年(1630)七月一日に五輪峠で伊達領に返しました。渡し人は横澤久蔵・及川善右衛門・河原木図書。受取人は仙台から門間作助、江刺から鹿野帯刀、人首から鈴木勘兵衛。

一 遠野領の又兵衛が仙台領江刺郡栃内に欠落していたのを、藤田但馬殿からお申し出があり、寛永八年(1631)六月二十一日に五輪峠で引き取りました。渡し人は江刺から矢内式部・鹿野帯刀、人首から志和左馬之丞、受取人は及川善右衛門・及川半右衛門・宇部清左衛門。

一 遠野領小友村鷹巣で馬泥棒があり、寛永九年(1632)三月二十四日に伊達武蔵殿からお申し出があり、五輪峠で引き取りました。渡し人は水沢から本田主計、人首から佐藤刑部。受取人は及川善右衛門・是川彦右衛門。

一 遠野の六日町に住む清蔵という者が、妻子を連れて気仙へ欠落していたのを、寛文十年(1670)十月二十一日に赤羽根境で引き取りました。渡し人は山田九郎左衛門・及川弥五八。受取人は小向忠兵衛・中津山太右衛門・小笠原孫四郎。

一 遠野領の仁蔵が気仙へ欠落していたのを、元禄八年(1695)二月十五日に赤羽根境で引き取りました。渡し人は沼倉助七郎、受取人は中舘金左衛門・田面木又兵衛。

  それから以後当年に至るまで、欠落人の受け渡しはありません。

 万治四年(寛文元年、1661)正月九日に花巻御城代である一方井刑部殿、松岡覚右衛門殿が直栄様の御挨拶にお越しになりました。直栄様へ仙台領への人返しのお話をなさり、この人返しがいつどうやって始まったのかをお二人ともご存じないとおっしゃるので、直栄様から次のようにご説明がありました。「元和七年(1621)六月十五日に仙台藩と盛岡藩の双方で人返しの定めの申し合わせなさり、六月十六日以降は仙台領へ駈け落ちして行った者も、南部領へ駈け落ちして来た者も、互いに欠落人の人返しをし、六月十四日より以前の者は、双方共に人返しはありませんでした。」そう仰るのをお聞きになり、お二人はすぐに年号を書きつけてお帰りになられたと、中舘古忠右衛門が覚書に記しています。
カテゴリー 口語訳遠野古事記