mark 【口語訳遠野古事記】てんや与平次

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 一 昔、戦が盛んな時代には、敵国の様子を探る間者(スパイ)として、猿回しや手品・奇術の曲芸などする者を遣わすことがあったそうです。遠野南部家においても、そういった御用で召し抱えられていた者の子孫でしょうか、直栄様が八戸からお移りになられたあとを追って「てんや与平次」という人物が、妻と幼少の子を連れて遠野へ参りました。遠野に住みたいと希望するので、一日市町の下手に無税の家屋敷を下され、そこに住んでいました。
 当時は、ご先祖様の御法事を執り行う時に、ご仏前へお供えする御菓子類なども、遠野では手に入れるのに不自由する時代でした。与平次が八戸で「粒おこし」という菓子を作っていたのをご存じで、御城から仰せ付があったのでしょうか、それとも与平次自ら菓子作りを願い出たのでしょうか、ご仏前へのお供えの御菓子として丸い粒おこしをお重でひとつ、お寺へ持参し差上げました。また、本人が寺の台所に出向いてよく働いたので賄いの食事もいただいたそうです。お正月にはお台所へ年始の挨拶に登城し、丸い粒おこしと丸い平飴をかさねて差し上げ、お菓子・お酒・銭などを頂戴したそうです。御家中や在郷へも作った菓子を持って行き、その家ごとに相応の菓子代を貰いうけていました。
 そのほか、時によっては家内祈祷の札、馬屋祈祷の祀り札を御家中や在郷などに持って行き、祈祷料をいただいていました。妻は「守子」と称し、小箱を背負い、御家中や在郷を廻り、家ごとに「しらあ」というものを箱から取り出して手に持ち、何やら唱えながら祈祷を勤め、細い三角形の小札を家主へ渡し、祈祷料を頂いていました。「しらあ」というものは、軍用の采配のように、木串に色とりどりの布地を細長く裁断したものを沢山結びつけた物です。その木串の頭の部分にご神体があるということなのですが、数多くの布の中に包まれて、御神体は見えません。

 八戸から来た始めの頃は、お正月の廻し菓子と夫婦で祈祷の札を配ることで、それなりに生活できていましたが、だんだんと子や孫が多くなるにつれて、生活が苦しくなっていきました。そこで、年始にお台所をはじめ御家中や町を廻り、春田打ちという舞を興業する許可を頂きたいとお願いしました。これが許されたので、他の地域から同じような生業をする者を呼びつけ雇い、毎年正月七日、お台所へ参上し、老若男女の面と烏帽子を被り小鼓や太鼓を打ち鳴らし拍子をとり、豊作祈願の舞や終り万歳、皿回しなどをしてご祝儀物を頂戴し、御家中や在郷を廻ったときも家ごとに相応のご祝儀をもらい、生計を立てていました。子孫の代になると次第に暮らし向きが苦しくなり、拝領した屋敷を売り払い、裏町に住んでいました。宝暦五年(1755)の大凶作の年に一族皆飢え死にし、直系の子どもが一人だけ何とか生き残りましたが、あまりにも困窮したためお正月の廻し菓子も春田打ちの興業もできずいったん途絶えてしまいました。宝暦十二年(1762)の正月からこれまでのように、お台所や御家中へお菓子を献上し、春田打ちの興業を再開したいとお願いし、許されたので、以前のように町を興行して廻ったとのことです。

 この「てんや」という人は、僧や山伏ではなく、俗人のままで祈祷のお守り札を配っていました。札には穢れを払う神事で唱えられる中臣祓の文章が書かれているのが見えるので、禰宜や神主のようなものでしょうか。仙台にいる「てんや」には、神社や禰宜を司る吉田様から受領名を名乗ることを許され、「何々ノ守」と称する者もあると聞きます。「守子」というのは、日本の古い時代にいた倭姫命とおっしゃる皇女が、天照太神がご鎮座なさる場所を探し求めていたときに、神霊を御背負いになり諸国を御巡行されたということが古事記にあるといいますから、守子はこの倭姫命に倣い、古い風習を伝えているのではないでしょうか。

!ポイント!
 遠野のオシラサマに関する一番古い記述が『遠野古事記』のこの部分です。「しらあ」と呼ばれる采配のようなものを手に唱え事をし、お守りを渡していた様子が紹介されています。

 宝暦五年の飢饉は、冷害による凶作が同七年まで続きました。死者三千九人のうち「食物を求めかね」死んだのは二千五百余人と『遠野古事記』にあります。この前年には遠野を大洪水が襲っているので、疲弊した人々にさらなる追い討ちになったのでしょう。
カテゴリー 口語訳遠野古事記