mark 【口語訳遠野古事記】 新たな町づくり

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 かつては御家老衆が御同心頭の役職も兼務していたのでしょうか、直栄様が遠野へお移りになった始めの頃は、お供としてきた御同心二十数人を御家老の岡前宮内が指揮していました。この岡前家が落ちぶれてしまった原因は配下の御同心から起ったそうで、詳しくは『岡前記』という記録にあります。
 お供の御同心ばかりでは人手が足りないので、新しい御同心を段々と召し抱え始めた頃、御譜代の御同心へは手作地七石、新参の御同心へは五石ずつ下され、五十人を二組に分けて支配頭の二人へ各々任されました。その新参の御同心も小身(家禄の少ない)侍の二男三男で、現在のように一般人から御奉公に上がるよう願い出ることは許されない風習だったという老人の話を聞きました。たしかに私が若いころ、御茶の間詰め番を仰せ付けられ勤めていた頃までは、御茶の間番の御同心の中で、脇指を離さず傍に置き、用事があって表長屋へ出向くときは脇差を指して出る年寄を二、三人お見かけしました。昔の御同心はいずれも父親や祖父は侍として低い身分であっても代々続く家の出身であったため、侍としての矜持を失わず、脇指を身から離さない時代の風習を心得ており、私がかつて見かけたような様子だったのでしょう。御次の間の者たちが御用があってお小姓部屋から呼びかけるときも、「御番衆、御番衆」と衆の字をつけてお呼びしていました。いつの頃からか衆の字を除いて、現在では「御番、御番」と呼ぶと聞きました。これは、昔の御同心のように侍の家の出身ではなく、多くが侍以外の身分出身の者ばかりなので、自然と御同心の立場が低くなってこのようになったのでしょう。

!ポイント!
岡前騒動とは…
 岡前宮内は、直栄の遠野引き移りの際に遠野御城請取人となった人物。南部氏が甲斐国(現在の山梨県)から仕える家柄で、足軽奉行・軍奉行を勤める遠野南部家の重鎮でした。配下の失態がきっかけで始まった私闘を、家老である岡前が指揮したことから、騒ぎは遠野家中を二分する騒動へ発展しました。このことは盛岡南部家も知る所となり、岡前は切腹を命じられ家も断絶してしまいます。しかし、岡前切腹後も双方の陣営が燻り続け、第二次騒動も起こりました。
 大騒動だっただけにその後も家同士の縁組や付き合いに影響し、明治になるまで遠野では「縁結びは殿さまの御命令で決める」習わしとなったと言われています。


一 直栄様が遠野へお引越しなされてしばらくの間は、新参も譜代も御同心の住居は、現在のように軒を連ねる町はなく、皆拝領した土地に小屋を作って住んでいて、当番の日だけ横田城下へ出向き勤め、非番の日には農業をして妻子を養っておりました。その頃、私の先祖が綾織村に住んでいた屋敷の近所にいた矢切源右衛門という御同心は、気軽に家に出入りして親交があったので、お互い横田城下へ引っ越しても、二代目の源右衛門まではこれまでと変わらず互いの家を行き来していたのを若いころ見ておりました。
 その後、御同心として召し抱えられ仕事が多くなりそれぞれの領地に住まわせたままでは手間になるということで、御城下に軒を並べた屋敷を五十軒分の範囲を決めて、家づくりの工事をさせ、それぞれの領地から残らず引越しさせました。またその後、御同心の仕事が多くなり五十人では足りなくなったので、さらに五十人を召し抱え、それを二組に分けて、昔から仕えている御同心を小頭としました。盛岡御家来衆で浪人だった興津八郎右衛門(息子の八郎右衛門の代に姓を堀切と改めた)、人首平右衛門(孫の平右衛門の代に姓を大町と改めた)が遠野南部家に呼ばれ、支配頭を仰せ付けられ、穀町のとなりに新しい屋敷を割り出し、これを上同心町と呼びました。

一 町御同心十人に、手作地を三石ずつ下されて召し抱え、御町奉行へ預けられました。

一 義長様の代に、盛岡南部家ご当主である南部信濃守行信様が相撲好きで力士を大勢召し抱えらておられました。行信さまから義長様へも力士を召し抱えるようにと内々のお達しがあったので、村々から筋骨丈夫な若い男を十人選んで稽古をするようお命じになり、御城にたびたび呼び出して相撲を上覧されておりましたが、その後盛岡の殿さまは相撲見物をお止めになりました。遠野南部家では、力士たちはこれまで刀を持つことを許可されて大小を腰に指し、殿様へもたびたびお目にかかり、名前も御存知でいる者を、今さら以前のように侍以外の者として扱うのもどうかとお考えになり、御筒持ち御同心として取り立てることになりました。耕作地を六石ずつ下され、中居林茂太夫、松田忠右衛門(現在の御用人です)の二人にお命じになり、この十人と御町奉行組十人の屋敷を、新町の上横丁の左方へ割り出したそうです。

 遠野南部家で相撲取りを召し抱えられたとき、新町で検断を勤めていた多左衛門が行司の作法をよく心得ているらしいとの話をお聞きになり、検断の役職は嫡子に渡し、行司を勤めるようにと仰せ付けられ、帯刀を許されて小島氏と共に呼び出されました。遠野の力士たちが御城に呼ばれるたびごとに多左衛門も一緒に登城し、殿さまの上覧の際にも御前に出て神妙に行司を勤めておりました。また、多左衛門の両親の出自や出世の願望もお聞きになっていましたので、力士たちを御筒持ち御同心として取り立てたとき、多左衛門に三人扶持を下され御給人格としてお取り立てになりなりました。遠野破損奉行として勤めあげたのを、私が若いことお見かけしました。この多左衛門という方は大崎家中の浪人小島氏の子だそうです。生まれつき背が高く体も丈夫で、腕力も十人分以上あったので武士奉公を志願し、剣術・棒術・抜刀術・捕縛術・柔術などの心得もあり、仙台領の様々な城下を仕官先を探して巡り歩いていた頃、近くの相撲場に行き相撲を取り、行司の作法もよく見て覚えていたのだということです。仙台領では武家奉公の縁がなかったので、遠野へきて芸事の指南をしながら町に二、三年仮住まいしていましたが、仕官の望みは叶わないので侍として生きることを一度諦めたそうです。町場に家を買い、芸事の師匠として暮しを立てていたところ、新町の検断が病気で亡くなったので、町内の人びとが多左衛門を新しい検断にしてくれるよう願い上げ、役目を仰せつかった多左衛門が検断を勤めていたそうです。

一 八戸から連れてこられた大工は四、五人おり、耕作地を七石ずついただき御城の食事を作る台所の所属として朝夕の賄いの食事をいただいていました。二、三年が過ぎると、お暇を頂戴し故郷へ帰る者もあり、遠野に残った二人のうち、一人は病死し跡を継ぐ息子もいなかったので家は断絶しました。もう一人の大工の喜右衛門の息子で喜蔵という者は、荒削りなところはあるものの、亡くなった父親の跡を継ぎ耕作地もそのまま譲り受け大工町に住んでいました。この男はたびたび変わったことをするので、世間の人は「つくり喜蔵」とあだ名を付けて、道で行き合うのも嫌がられる老人でした。頬髭が白く背も低く、私が若いころまで生きていて、道を歩いているのを見かけたことがあります。この喜蔵が病死したとき、子どもはまだ幼く家業も勤めかねたのですが、八戸時代から仕えている譜代の家の子であるため不憫に思われ、これまでの耕作地の半分を家屋敷と共に下されました。しかし四、五年後にこの子どもも病死してしまい家は断絶しました。八戸から来た大工たちが故郷へ帰ってしまってから、遠野の大工・木挽き・畳刺しなどの職人が次第も数人召し抱えられましたが、お台所の所属というわけにもいかず、町御同心の屋敷の並びに家をいただきそちらに移りました。そうはいっても、以前お城のお台所所属であった頃と変わらないことがありました。昔からの職人も新参の職人も、毎年正月元日・三日・五日・七日・十五日・二十日に登城し、御菓子や餅・濁り酒などを近年まで頂戴していました。
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