mark 【口語訳遠野古事記】南部直栄様の遠野入部

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 上野・平清水が城代を勤め栄華を誇っていた頃、忠義を裏切る彼らの悪行を遠野の人びとはみな憎み、かつての領主に起こった不幸をとても労しく感じ憂いていました。時機を見て一揆を起して二人を討ち亡ぼし遠野殿が帰って来られるようにしたいと心底憤り、命令や決まり事をないがしろにしていました。
 さらに上野の死後に新しくやってきた城代たちは遠野の風習や文化をよく知らないため、人々の心に合わない政治を行っていたことも有り、また南部家の本拠地である三戸と遠く離れていたので、ますます自分勝手な振る舞いをしていました。市が立つ日には七七十里を辿って集まった商人たちへ理不尽な喧嘩口論をしかけ、その騒ぎで商売物を踏み散らし、あるいは人を殺してよそへ逃げる者、女や子供をさらって売り払う者、牛馬を盗んで他領へ逃げ行く者、金持ちの家へ押入り俵物・金銭・家財などを強盗する者、放火をする者などが絶えませんでした。城代も心を尽くしてあれこれと話し合ったりもしましたが一向にうまく収まらず、物騒な様子は次第に利直様にも聞こえるようになりました。三戸から遠方であることといい、仙台藩との境の地であることといい、城代だけに任せていては安定した統治ができるところではないと考えた利直様は、寛永四年(1627)二月二十五日に御一門である八戸弥六郎直義様(後に直栄と称す)を三戸の城へ招きました。遠野の物騒な様子などをあれこれとお話しになり、「この通り遠野は人々の気性が荒くて政治が難しいところだと聞きている、あなたに遠野へ移ってもらい滞りのない政治をお願いしたい。先祖代々住み慣れた八戸を立ち退くことは家臣たちも迷惑に思うだろう、あれこれと大変だろうが遠野へ移ってほしい」と仰せになるので、強くご辞退申し上げたのですが、それでも是非是非頼みたいと再三言葉を重ねられ、直栄様が頷きもしないうちに遠野へ領地替えの祝いだと利直様から御盃が下され、仕方なく了承することになりました。
 遠野城下へ出張していた家臣たちは早々に引き払うようにと三戸からお達しがあり、三戸や盛岡へ引っ越す者もあり、あるいは城下に住居がなく知行地に家を持っている老人や病気の人は、嫡男を引っ越させて自分は二男と共に遠野に残る者もあり、あるいは今後武家奉公のつてがない人で侍身分を返上し百姓になる者などもいました。

◎コラム~盃のやりとり~
 南部家当主の利直が注いだ盃を飲み干すことは遠野への知行地替えを了承することを意味します。逆にこの盃を拒否することは、当主への反抗と受けとられかねないので、直栄は盃を受け取り遠野へ行くことを了承せざるをえなかったのです。
※八戸弥六郎直義(直栄)
 根城南部家二十二代。二十一代清心尼の娘婿で、八戸から遠野へ所替えになり、遠野一万二千五百石の領主となった。

 寛永四年(1627)(宝暦12年まで136年)三月九日に直栄様は八戸を出発し、十二日に遠野へ着きました。直栄様の遠野入りに合わせて、八戸から遠野へ引っ越した家臣たちは次のとおりです。

三月六日 遠野御城受け取り人:御家老・岡前宮内、御給人屋敷受け取り人:坂本苗蔵、町受け取り人:町奉行・服部図書、御目付・米内仁兵衛、悪虫若狭が八戸を出発。
 同七日 御台所役小笠原喜兵衛が八戸を出発。
 同八日 遠野御城の御祈祷のために東善寺・成福寺が出発、道中の宿割役:御徒衆木村藤次郎も同じく出発。
 同九日 御供騎馬:御家老・比巻澤市兵衛(後に松崎大学と称す)、御家老・中舘兵部丞、御伝臣・作田主水、御文証附・西澤三郎左衛門の四名は毎日お供、橘甚兵衛、工藤四郎左衛門、長崎藤兵衛、四戸伝内、小笠原六蔵(当時十三歳、後に九右衛門と称す)新田正兵衛(後に右京と改名)、類家勘左衛門、澤里主膳の八名は日替わりでお供した。このほかにも乗縣御共として御目付目内澤内膳、小笠原三之丞、道中に直栄様がお休みになる部屋の宿払いとして奥寺惣右衛門が同行。
  同日 根城(八戸の城)の御城引渡し人:新田九左衛門、西澤権八、小笠原忠右衛門は残り、受け取り人工藤主膳へ引き渡しが済み次第、即日のうちに八戸を出発。

 のちほど八戸から遠野へ引越した家臣は、新田弥市殿、中舘勘兵衛殿、中舘金四郎、小向掃部之助、澤里弥次郎、飛内弁慶、小笠原右市(一郎の祖先)、小笠原次郎右衛門、小笠原佐平治、小笠原助左衛門、工藤九左衛門、中居林兵部、鳥谷部弥右衛門、十日市平兵衛、正部家作兵衛、金浜右衛門、金浜掃部之助、田中丹都、脇山角内、橘半五郎、野澤民部、大橋平左衛門、高坂雅楽、松田雅楽、塗田子民部、川野治兵衛、田面木左内、工藤右市之助、石懸小三郎、松橋茂右衛門、河原木平左衛門、是川孫作、米内惣左衛門、久保田勘右衛門、南舘外記、大慈寺、善明寺です。

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