mark 【口語訳遠野古事記】 阿曽沼氏の敗北と首謀者の処断

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 鱒澤・上野・平清水は大喜びして、遠野殿が最上から帰ってくる知らせがあったなら、道の途中へ伏兵を置き不意をついて攻撃し横田へ足を入れさせないように討ち取ろうと相談しました。そのころ遠野の近在で出世を望み仮住まいしていた浪人たち(葛西浪人など)を取り込んで人数を増やし、戦の準備をしている最中に、遠野殿が近々横田へお帰りになるという知らせが届きました。
 かねてからの計画通り、鱒澤左馬之助・平清水駿河・小友喜左衛門は五輪峠のこちら側へ伏兵を備え置き遠野殿が来るのを待っていました。遠野殿主従は少しもこのことを知らずに帰り道を急いでいましたが、人首村近くに来てこの変事を聞きました。どうしようかと考えている間に、雑兵は言うまでもなく、臣下の中にも逃げようと目を泳がす者も現れはじめたので、遠野殿は兵士たちに向かい、「お前たちは私のために身命を惜しまず戦うとはいえ、長旅の疲れもあるところに、新手の敵に対して勝利し遠野へ帰ることはできないだろう。ここは一旦臆病の恥を受け入れ命を大事にし、後日必ず遠野へ戻ろうと思う。いずれ忠義の旗を揚げ出陣するときに集まれ」と暇を出しました。自分自身は気仙郡へ落ち行き、舅である世田米修理のつてで伊達政宗へ加勢の助っ人を頼み、二、三度遠野境へ攻め込みましたが、鱒澤・上野・平清水は地形をよく心得ている場所での戦いであり、自分自身の進退がかかった大事な戦いなので防衛の勢いがありました。対して政宗の加勢は地形に不案内な寄せ集めの兵士なうえ、自分たちには関わりのない戦いであるので、戦闘の度ごとに敗北し勝てませんでした。再度助っ人を頼んだのですが叶わず、仕方なく遠野へ帰る願いを捨て、政宗の家中となりました。子孫は仙台にいるといいます。こうして遠野は南部氏のものになりました。

 鱒澤左馬之助は戦場で討ち死にしたので、息子の忠右衛門が父の後継ぎとして所領を継ぎ褒美の加増を合わせて二千石、上野丹波も元々の知行地二百石に加増を合わせて二千石、平清水駿河はもともとの知行地六十石に加増を合わせて千石を貰い、丹波は右近、駿河は平衛門と名前を改め、横田の城代として栄華を謳歌する新しい暮らしを始めていました。  しかし、鱒澤忠右衛門は利直様のお気に障る不義(※利直の娘を離縁した)があったので身の危険を感じ出奔しました。江戸にいるらしいと知らせがあり、上野・平清水に命じて探し人を遣わして連れ戻し、小軽米氏へ預けたのち切腹、幼い息子の千代松も殺すよう命じられたため家は断絶しました。  平清水平衛門は慶長末(慶長20年、大阪夏の陣の頃)に江戸屋敷留守居役仮御番頭を勤めていました。その頃、南部家の家士・北十左衛門が大阪城で豊臣方に加勢して戦おうと考え出奔し、上方へ向かう途中で江戸に立ち寄った際、平衛門の娘を妻に迎えていたため、別れの挨拶をしようと密かに長屋を訪れました。平衛門は門出の祝儀として鶴の吸物でもてなしました。これを後日利直様がお聞きになり、公儀へ敵対する者との密会を不愉快に思われて切腹を仰せ付けられ、この家も断絶しました。  その後、上野右近が一人で城代を勤めていました。しかし、右近の後継ぎは病死し、彼自身も首が腫れて膿む難病にかかって苦しみながら死にました。右近の知行地二千石のうち千五百石が減らされ、残り五百石は孫の與三郎へ下されましたが、その後どんな不調法があったのでしょうか、また知行地の半分がお取上げになりました。その子どもが家督の時に知行地がすべてお取上げになり、代わりに小扶持(給料、給料相当の米の場合もある)を頂くようになりました。今も盛岡御家中に家名は残っているそうです。
◎コラム~「鶴の吸物」~  「鶴の吸物」はお正月や祝いの席で出される特別な料理で、今生の別れになるかもしれない十左衛門の餞別にと、平衛門の心遣いがうかがわれます。しかし、南部家の家紋は二羽の鶴が向かい合う「向鶴紋」。主家を離反した人物へ、家紋の鶴の肉を供応することは「南部家に翻意あり」と見なされても仕方のない行為だったです。  鱒澤・上野・平清水は仕えていた阿曽沼家を見限り南部家へ下った、裏切り者という見方もできます。一度は褒賞を与えて迎え入れたように見える南部利直ですが、伊達領との境である遠野を、この三人に任せたままにしたくなかったのかもしれません。
カテゴリー 口語訳遠野古事記