mark 【口語訳遠野古事記】 阿曽沼氏領主時代

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 古い話になりますが、奥州閉伊郡遠野の以前の領主は、藤原姓俵藤太秀郷の子孫で阿曽沼又次郎広親といって、文治年中(1185-1189)に奥州藤原氏が滅亡した頃から遠野十二郷を領地として、横田村の護摩堂山に城を築いて住んでいました。それから慶長のはじめころまで子孫が代々住んでいたので、世間では「遠野殿」と呼んでいました。
    十二郷の内、下六郷は達曽部・田瀬・鱒澤・綾織・小友・宮森、
    上六郷の村の名前は分かりませんが、大槌や釜石も遠野郷の領内でした。
 遠野の市の日には七つの街道の七十里の道をたどってやってきた人々が集まる、商売が盛んな地です。
    七七十里というのは、花巻・郡山(紫波町日詰)・大槌・釜石・気仙郡
    十八里(大船渡市盛町)・高田・岩谷堂(奥州市江刺区岩谷堂)へ続く
    七つの街道のことで、いずれも奥道という数え方で七十里の距離です。

 広親から何代目の子孫にあたるだろうか、孫次郎広里(本来は郷という字)の代に、領内の小友村生まれの白い鷹を一足、天正年中(1573-1585)に織田信長公に進上したことがありました。このことは『信長公記』という書物にも、「天正七年(1579)七月十八日奥州の遠野孫次郎白鷹一足これを進す」と記されています。この時信長公から届けられた御礼の手紙の文章が昔の人が口から口へ伝えて、段々と遠野の人に語られるようになりました。
   「これまで親しいお付き合いがなかったところに書状が届き、嬉しく思い
   ます。さて、白鷹はこれまでたくさん貰っていますが、これほど雪のように
   白い鷹は今まで見たことがなく、珍しいものを頂いたと嬉しく思います。
        七月二十日   信長
                 遠野孫次郎どのへ」
 この領主の代に、先祖から代々住んでいた城に破損があって、同じ横田村の鍋倉山に新しく城を築き横田城と呼び、護摩堂山から引っ越したそうです。引っ越しした年月は分かりません。

 広里の息子の孫三郎広長の代までは、低い身分とはいえ祖先から続く独立した一国の領主として一つの旗印のもと、天皇が政治を行っていた頃から続く、時の武将に直接仕える家柄でした。しかし、豊臣秀吉公が天下を統一したとき、小田原攻めへ軍勢を送らず、また使者を送ることもせず、大変な無礼だということで家禄を没収し武士の身分も取り上げられそうになりました。そのとき、秀吉公の信頼厚い部下である蒲生飛彈守氏郷は、遠野殿と同じ祖先をもち普段から便りを出しあう親しい付き合いをしていたので、そのよしみで執り成してくれました。氏郷のおかげで所領を認める御朱印状はいただけましたが、小田原攻めに参陣しなかった罰として、今後軍役の際には南部大膳大夫信直の旗下に入り命令を聞くようにと言われてしまいました。慶長五年(1600)、奥州会津の城主である上杉景勝が謀反を企て、隣国の最上出羽守義光の領内へ軍勢を差向け攻撃したため、最上に近い諸侯へ救援の軍勢を出すよう徳川家康公の命令がありました。南部信濃守利直様(信直様の息子)へも出陣命令が届いたので、利直様から遠野殿へも出陣の催促がありました。遠野殿は家老の上野丹波・平清水駿河へ留守中の領内警固を命じ、兵を率いて南部氏の軍勢に引き続き最上へ陣を張りました。その後に南部領の和賀・稗貫地方で一揆が起り大変な騒動になっているとの知らせが届いたため、利直様は最上殿へその旨を伝え、領地へ軍勢を連れて帰ることになりました。しかし遠野殿は南部氏とは別の隊だったため、そのまま最上の戦場へ残りました。
 さて、これより前のことになりますが、遠野殿の一門に鱒澤左馬之助という者がいました。阿曽沼本家と仲が悪くなり、将来自分がどうなってしまうのか不安に感じた左馬之助は、南部様を頼り密かに後ろ楯になってもらおうとしていました。遠野殿が最上へ出陣していると聞き、留守中に遠野領を南部様のものにして、たくさん褒美をもらい、栄華と安寧を永く子孫へ残そうという私欲から謀反を企てました。利直様の御陣所である花巻へ行き、遠野を奪う計画を申し上げると、利直様は喜び機嫌よく話を聞き、「大いに励み南部家のために忠義ある働きが成功すれば望むだけの褒美を叶えよう」という約束を貰いました。左馬之助はすぐさま横田へ帰り、留守役の家老の上野・平清水へ謀反の一味に加わることを同意させました。家中の諸士へも「南部殿への忠義の働きに励む者にはたくさんの褒美があるだろう、もし命令に背く輩がいたら、妻子もろともさっさと他領へ追放してしまえ」と申し渡せば、心の中では同意できないと思っていた人も従うよりほかなく、謀反一味の連判状を書いて差出しました。
カテゴリー 口語訳遠野古事記