mark 【口語訳遠野古事記】一日市町「うなん」の事


一 一日町の「うなん」(※宇迦神社)について、古説の申伝えに、寛文年中の頃(年号不明)の4月初めの昼、石倉丁小笠原善右衛門(現在の工藤四郎右衛門屋敷)から出火とあります。その時刻、風が荒れ狂い、火先が定まらず、方々へ飛び火しました。焼けた家の燐家でも焼けない家があり、下小路丁も類焼しませんでしたが、一日市町の上や、穀町、大工町辺りまでは30~40軒が類焼しました。この時御堂も焼失して、古い棟札もなくなったため最初に勧請された年月も願主の名もわかりませんが、昔からあった小さな祠であったと伝えられています。
 私が調べてみたところ、遠野の先の領主が護摩堂舘(※松崎町)に住んでいた時、一日市町はその城下近辺にありましたが、鍋倉城へ移った際こちらへ引き移したという古説がありました。これを考えると、町屋敷を割出す以前、この社は田畑の中か、野原などにあったものを、他所へ遷さず、そのままにしておいたものでしょう。町屋敷になって以後、町屋の軒を潰して勧請するのがよいとは考えられません。私の考えのとおりなら勧請されたのは遥か昔であったろうと思われます。
 こんな質問がありました。神書(※神道に関する書物)に「うなん」という神の名は見当りません。神なのか仏なのか、どうなのでしょうか。わたしはこのように答えました。当町に限らず農村部にも同名の社があります。いづれに関しても神か仏か区別している話を聞いたことがありません。前から俗人の別当が社の傍らに住んでおり代々御堂を見守っていますが、その区分を伝え聞いていないということです。なおさら、最近ではその屋敷へ別の人が移ってきて別当を勤めているため、いずれにつけても永きにわたりその事情は、わからないでしょう。
 宝永2年、御堂が再営した時の棟札には宇那大明神とあり、その後、享保15年に御堂を再建した時の棟札には運満虚空蔵とあります。神でも、仏でも、当町に往古からある産社(ウブスナ)ですから、尊敬されるべきものと思われます。前々から町内の者たちが毎年3月にお湯をあげるのはもっともなことでしょう。

【伊勢参宮の事】
一 義長様の御代までは、御家中の諸士が伊勢参宮の際、御暇を願い上げれば許可され、参宮していました。その中には、金子を余計に持参し参宮にかこつけ、京都・大坂・西国筋へも見物に回り、長く帰国を引き延ばす者もいました。義長様がこのことについて腹を立てていた時、鷹木道庸(後に梁田仲庵と称す)が参宮のため御暇願いをしたところ、「先だって、伊勢に参宮した者の中で、それにかこつけて自分の楽しみのために逗留の日数を長くして帰国を引き延ばし、主人への奉公を疎略にする無調法者がいる。そのうち内々に必ず叱りつけたいと思っているが、参宮についての無調法のため今は容赦しているところである。今後、伊勢参宮のため、暇を願う者は非番の日数のうちで行き来するべきで、それが出来ないと思うならば、盛岡・遠野にも伊勢神宮の神明を勧請しているお宮はあるのだから、そこへ参宮しても志は達することが出来る」と仰った。しかし道庸は、「伊勢神宮の神明へ立願成就のお礼で参宮したいというのは長年の思いであります。非番の期間内で行き来します」と願い上げ、確かに当番の日が来る前に帰国しました。このように、義長様は伊勢神宮への参宮願いを禁止されませんでしたが、それ以後、御家中から御暇願いはなくなったという老人の話をききました。

【神木、折れる事】
一 延享3年4月5日、経谷ケ沢稲荷山の神木である栗の木が根元から5、6尺上の所で折れました。6月12日、御用御屋敷の稲荷山の神木の桜が折れました。同14日、お城の大手門前のさいかちが折れ、同17日には多賀山の神木のさいかちが折れました。この4本はどれも古い木なので、自然に折れる時期が来たのでしょうが、強い風も吹かないのに、同じ年の内に間無く続いて折れたのは奇怪で、珍しいことなので、多賀の社で4社の神々へお湯を差し上げたところ、神楽獅子の舌が裂けました。いずれ当地に不吉なことが起きる前触れのお告げかと皆大変心を痛めました。そのため、3つの寺が御祈祷を仰せ付けられました。そうしたところ一向に凶事はありませんでした。これこそは神の守護であるということでしょう。

【遠野殿時代から当世までの寺院の事】
一 遠野御城代治下の御城下の寺院は、妙泉寺・善応寺・伝勝寺だけが古い記録にあり、村の寺院の有無は見当りません。古老の話によると廃寺が6寺あったということです。遠野殿時代の領内に、たった9寺であったとは思えません。考えますに、遠野殿が気仙へ没落した後、気仙の軍勢がたびたび国境に攻め入り、兵乱に陥った時、村々の寺院は放火で焼けてしまったり、敵方が陣屋に用いるため寺僧を追い出したり、あるいは、命令に背いたとして殺害し、そのため無住寺となったのでしょう。
 南部様が遠野領を手に入れても無法者が絶えず、世の中は物騒で皆の心は静まりませんでした。そのため、廃寺を執り立てようとする志のある僧侶も信者もおりましたが、再興の願いを遂げられず、年月が過ぎてしまったのでしょうか。
 古説に、昔遠野で寺院の無い村里の死者を葬る時、仏持ちの俗人に頼み、所持している仏を棺の先に立てて、葬っていたと伝えられております。その仏は阿弥陀様・釈迦観音・聖徳太子などの尊像であったそうです。廃寺の本尊が風雨に晒されて朽ち損じるのを、近所の世俗の人が見るに忍びなく、自分の家へ仏を移し置いた人の子孫を仏持ちと呼んだのではないでしょうか。現在の寺院の中には世俗の家にあった仏を本尊として安置しているところもあります。
 直栄様が遠野へ御移りになると、領内は段々落ち着いてきました。それ以後は廃寺を再興することもありました。また、そのころは公儀が新寺を建てることを禁じる時代では無かったので、寺院から遠い村々は新寺を建立することもありました。そのため、現在は御城下にも村々にも寺院が多数できました。諸材木が自由に求められ、世間が豊かな時節なので、建立の古い寺院より、最近再営のため建築された寺院はどれも内部も外見も様子がよろしくみえます。これ以降は修復・再建時、諸材木は年を追って手に入れるのが難しくなり、世間は次第に困窮してきましたので、住持も檀家も苦労したと察せられます。

【廃寺の古説】
一 九重山(横田村)積善寺
 古老の話に、昔、キリシタンを厳しく取り締まっていたころ、諸国の寺院の由緒を調査し、無本寺(※本山・末寺の無い独立した寺)は取り潰すという御沙汰が聞こえてきました。無本寺の寺院は急いで同じ宗派の本尊を求めたり、他の宗派の末寺になったものも数多くあったようです。その後、この風説のとおり無本寺の寺院はいずれも廃寺を仰せつけられたそうです。この寺も、その際廃寺になったと伝えられています。
 東丁のはずれに会下(エゲ)という所があります。積善寺が栄えていた頃、僧たちが居た学寮の跡ということです。宗旨は天台宗と伝えられています。東丁が割出される以前、石倉丁から今の東丁への入り口の右側に十王堂がありました。東丁の屋敷が割出された時、左側の屋敷裏へ引き移されたそうです。この十王も積善寺にあった木像で、廃寺以後、風雨に晒されて朽ちていたものを、見るに忍びない人が、仮小屋同然の御堂を造り移しておいたものです。この十王の木像は、仏匠の細工とは見えず、俗人の粗い細工かと見えるもので、近所の童子たちが縄を結いつけて引き歩き、散々欠損していました。そのため、最近になって金浜勘次郎という人が、仏匠では無いけれども自分で新しく十王の像を彫刻して納めたということです。

一 鶏頭山(興光寺村)興光寺
 村老の古説によると宗旨は臨済宗とのことです。寛永年中の何世の住持でしょうか、小金を貯めている僧侶がいました。他領から贋金をつくる無法者が来て、その住持をだまし、必要な元金を出させ、仙人峠の洞窟の中で鋳造しておりました。その洞窟から大槌へ天然の抜け穴がありました。そこから新銭を配り出し、他領へ船で運んだことが露見し、その無法者が捕まってしまいました。詮議の時、興光寺の住持が必要な元金を出したことを白状したため、住持へ尋ねたところ、そういうことは知りませんと話されました。寺中を家探ししたところ、眠蔵(※メンゾウ 寝室・納戸のこと)に置かれた大木津(※大きな木櫃)の中に新しい小銭がたくさんあったので、無法者は重罪を仰せ付けられ、住持は三衣(※サンエ 僧侶の衣服)を脱がされ寺を追放されました。その後廃寺になったと伝えられています。贋金を鋳造した窟を今もって「銭ふき岩」と呼ばれています。

一 大慈山(小友村山谷観音)長福寺
 廃寺になった様子は不明ですが、観音堂の棟札には、次のように書かれています。奥州南部閉伊郡遠野小友山谷の大慈山長福寺観音堂は、斉衡元年甲戌の年(※854年)に慈覚大師によって草創されました。大師自ら十一面観音の尊像(高さ5尺余り)を彫刻して安置しており、以来、御堂が壊れるとその時の願主が再営して数百年途絶えることがありませんでした。
 元禄4年(開基より838年)正月17日の夜、御堂が焼失しました。この時、内陣の阿弥陀・薬師尊像、並びに重要な什器がことごとく焼けてしまいました。しかし、観音の尊像は灰の中にあっても焼けておらず、そのため、御堂再営の発起人である小友町平兵衛並びに小友村や他村の志ある百姓たちがお金や米を出し合って、建立を計画し、それが成就して同年11月に遷宮されたと言われています。社領は往古より段々に附いてきたという話です。

一 鞍迫山(鱒沢村鞍迫観音)福瀧寺
 村の里人が伝えている古説に、伝教大師(※デンギョウダイシ 天台宗の開祖、最澄のこと)の弟子である円仁(慈覚大師と称す)が諸国を回った時、仁寿2年遠野へ来て一つの御堂を草創し、自ら十一面観音の尊像(高さ9尺9寸)を彫刻し、安置されました。この寺の山号を「鞍迫」と号するのは、山の東西の峰が崢嶸(※ソウソウ 道がぎざぎざしている様)としており、凹型の鞍を彷彿させるのでそのように言われています。寺号は、御堂の傍らに湧き出る清い泉があり、その樋口から落ちる水は、あたかも京都清水寺の音羽の瀧と違わないということで、福瀧寺と称しています。
 建武元年の秋(開基より480年余り)、奥州の国司、北畠源中納言顕家卿が奥州宮城郡へ下向した際、当国の政事の御名代四名が四方に別れて巡行されました。その中の閉伊郡糠部郡には南部又次郎師行様(八戸南部家四代)が御下向されました。そのお宿で一夜の夢に老僧が出て来て和歌を詠みました。
   南より吹き来る風は長閑(のどか)にて萌え出るより栄ふ民くさ
師行様が「僧はどちらからいらっしゃいましたか」とお尋ねになると、「福瀧寺」と答えられ、そこでたちまち夢から覚められました。夜が明けて、「福瀧寺はここにあるか」とお尋ねになっても知る人はおりませんでした。それから徐々に下った道すがら、村ごとにお尋ねになりましたが誰も知りませんでした。遠野に到着した時、鱒沢村に鞍迫山福瀧寺という寺があると知り御参拝されました。そして寺領70石を寄進され、寺の門前から一町(※10m余り)の所に鳥居を造り、かつ、下馬所を定め置きました。
 この時から300年余りを経て、この寺は南部様の御領となりました。山谷金右衛門という侍が馬に乗ったままこの寺の門前を通り、下馬所でも馬に乗ったままでした。寺の僧たちが立って出てこれを制そうとしましたが、言うことを聞きませんでした。そのため、寺から僧侶が大勢走り出てきて馬上から侍を突き落しました。金右衛門は非常に立腹して、横田城へ行き、御城代の上野、平清水へ讒言したので寺領は没収されてしまいました。住持は何度も事情を明かして訴えましたが聞き入れてもらえませんでした。そのため、僧たちは飢えに苦しみ、少しずつ去り最後には廃寺となってしまいました。御堂の近所の民が寺の荒れていくのを見て憂い、忍びなく、御堂の周辺を時々掃除しておりました。その子孫が代々別当となり、俗人ではありましたが、観蔵坊と号して今に至るまで続いています。その住宅の屋敷は昔の福瀧寺の寺跡であるとのことです。
 万治2年10月18日に御堂が焼けて無くなった時、観音の尊像は猛火の中にありましたが、焼けませんでした。そのほか、古代より伝えられる宝物・経文・記録がことごとく焼失する中で、涅槃の像・十六羅漢が描かれた大幅の掛物二軸は不思議なことに火災を逃れて、別当家に今も伝えられているといいます。社領一石余りは作田氏よりの寄付であります。

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