mark 【第2回土曜講座「幕末の快男児!江田大之進」報告】


日時:平成30年6月23日(土)10:00~11:30
場所:遠野市立図書館1階視聴覚ホール
講師:遠野市史編さん委員会委員長 大橋進
内容:「幕末の快男児!江田大之進~『遠野夜話』から」

 平成30年6月23日に第2回土曜講座を開催しました。今回のテーマは、台湾人類学の先駆者・伊能嘉矩の外祖父である江田大之進(1815-1884)についてです。
 電子黒板に映された大之進の肖像画を見て、「一度見たら忘れられないような顔。鋭い眼光、何が来ても怖くないといった顔ですね」と大橋先生。「いい顔していますよね」という赤坂所長の会話から講座は始まりました。
 まず江田家の出自について説明がありました。遠祖は上州(群馬県)出身の江田行義です。行義の子孫は江州(滋賀県)に在住していましたが、慶長3年(1598)江田勘助(義宗)の父の代に津軽に移住。勘助は故あって浪人となり、その後友人の紹介で、遠野南部氏に仕えることになりました。この江田勘助という人物は「遠野興学の祖」といわれ、遠野南部氏22代直栄(直義)に請われて家臣となり、遠野領内における学問教育の基盤を作った人物です。この江田勘助の子孫が江田大之進です。
 大之進(通称)は、幼名を勘助(勘助は江田家の通称)、名を重威(しげとし)といい、明治維新後、泉と改めます。字は子固、号は霞邨(かそん)です。11歳の時に唯是という侍のもとで漢籍を学び、4年で先生の立場になるほどの人物で、麒麟児と呼ばれたそうです。16歳の時、久子翠峰が遠野で私塾を開き、大之進は翠峰の門下で学びます。遠野南部氏家士の田口主一郎とその弟・工藤将芳とともに学び、「翠峰門下の三秀才」と称されました。
 久子翠峰は「遠野漢学中興の祖」と称された人物で、江戸生まれ、幕臣であったが激変する政治、社会情勢から身を引き、隠遁生活を選択。田口主一郎が、優れた学者であることを聞きつけ(他の説もあり)、遠野城下へ招いたといわれています。
 『遠野夜話』にいくつか大之進の武勇伝があります。大橋先生はその中の1つ、44話「江田大之進抜刀して主家の辱を雪ぐ」について取り上げました。この逸話の概要は次のとおりです。弘化元年(1844)(大之進30歳)盛岡北郊の茨島で軍事演習後、酒宴の隣室で盛岡藩士に遠野方の行軍を非難されたことに腹を立て、両者抜刀し路上で戦うという騒動を起しました。大之進は閉門家禄没収ということで、禄の半分を嫡子・謹平へ譲りました。その後大之進は、学問で前科を償うために安積艮斎の見山楼に入門します。安積艮斎は福島の二本松藩から江戸に出て私塾を開き、後に東京大学の前身の昌平坂学問所の教授になります。この逸話から、大之進は豪気で負けず嫌いで、この事件を契機に学問を究める志をたてていたことがわかると解説しました。
 江戸に出て見山楼に入門当初の逸話が、『遠野夜話』45話の「江田大之進机に凭(もた)れて眠る」です。勉学に疲れ机に凭れ熟睡してしまった大之進は、目を覚まして平然として漢詩を作ります。その詩は、なぜ自分は居眠りをしてしまったのかという反省や、盛岡での抜刀騒ぎの反省、尊王攘夷の動きの激しい時代に、自分の大きな役割に臨んで道を踏み外すことのないように努力することが一番であると詠んでいます。そして安積艮斎が大之進に贈った送別の詩も紹介し、その詩は「お前は一生懸命勉強して学問の源を訪ねた。あとは故郷に帰って勉強の指揮をとれ。」という内容でした。
 江戸遊学の時期についてですが、伊能嘉矩の著した『遠野夜話』によると、その時期は何通りか記述があり特定できません。江田氏の後裔である江田明彦氏の著した『伊能嘉矩の師 江田霞邨とその見山楼に学ぶ』によれば、江戸に行って見山楼に入門したのが、嘉永4年(1851)(大之進36歳)、遠野に帰って来たのが嘉永6年(1853)(大之進38歳)となっているようです。
 大之進は帰郷し、遠野南部家の郷校「信成堂」の創設を、田口主一郎、工藤将芳と共に主君・南部弥六郎に献策し、安政3年(1856)に完工となりました。工藤が中心となりまとめた「信成堂の記」には、激動の幕末期に国家の人材育成のためには文武二道しかないという教育方針が記してあります。大之進はまさにこの文武二道を実践した人物であり、現在裁判所前には信成堂跡の石塔があり、文武二道の教えが彫られています。
 当時江戸には文武二道を教える塾はなく、庄内藩の志士・清河八郎が安政6年(1859)に設立した清河塾「文武指南所」が最初でした。清河は大之進と見山楼で出会い、大之進から「文武二道」の大切さを熱心に説かれたそうです。清河は大之進に影響を与えただけでなく、大之進から影響を受けてこの塾を設立したのではないか、というのが大橋先生の推論でした。
 最後に赤坂所長は、「江田大之進という人物が、大橋先生によって掘り起こされて、誰も知らなかった姿が浮かび上がってきた。遠野という土地がこういう快男児を生んだというのが、大切な財産だと思う」と語りました。
 そして講話終了後、普段は公開していない博物館に所蔵している、大之進に関する資料を参加者のみなさんと囲み、当時の大之進の筆跡を眺めました。その中の1点で、「かがなえばいとも遥けし七十路の矩をもこさぬ今日ぞうれしき」と書いてある大之進の書があります。これは亡くなる3日前、70歳の心境を詠んだ詩文であり、大橋先生は「まさに「論語」の教えにある通りの人生であった」と締めくくりました。

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