mark 【第二回土曜講座「伊能嘉矩と日本考古学のあけぼの」報告】


日時:平成29年6月17日(土)10:00~11:30
場所:遠野市立図書館1階視聴覚ホール
講師:黒田篤史(遠野文化研究センター文化課 主任兼学芸員)
内容:「伊能嘉矩と日本考古学のあけぼの」

報告:
 平成29年度第2回土曜講座を6月17日に開催しました。
 講座では、伊能嘉矩の業績や、日本と遠野の考古学の始まりについて、当文化研究センターの黒田学芸員が、写真付きのレジュメや伊能が収集した土器や石器の遺跡一覧表などを使って解説しました。また、伊能と柳田國男などの考古学に関わる重要人物、そして考古学上の出来事を示した年表をもとに、それぞれの関係や歴史的な流れを解説しました。
 まず考古学という学問はいつ、どのような人物によって確立されていったのかという解説がありました。世界的には18世紀末から19世紀にかけて確立した学問で、日本においては明治初期「好古」と表現されました。伊能が10代の頃、世界ではアメリカの動物学者のエドワード・シルヴェスター・モースやオーストリアの外交官・考古学者のハインリッヒ・フォン・シーボルトによって、考古学的な調査・研究が行われました。
 伊能は明治21年(22歳)の時、「岩手学事彙報」に、岩手県尋常師範学校時代に二戸を旅行した記録を寄稿しました。まだ日本人の考古学者がいない時代に、考古学という言葉を使っていることが注目すべき点です。
 そして明治26年(27歳)、東京帝国大学の教授坪井正五郎から考古学を学びます。このことが、人類学にのめり込む人生の転換点になりました。坪井は日本考古学の確立とその普及に尽力した人物でした。当時は人類学の一分野として考古学がありましたが、坪井は「考古学は1つの学問分野として確立されるべきだ。」という考えを持っていました。
 明治28年(29歳)に台湾に渡り、10年間先住民族の調査・研究を行いました。そして明治30年に台湾初となる発掘調査、台北の圓山地区にある新石器時代の貝塚を発見し調査を行いました。
 遠野に戻ってからは、台湾研究を進める傍ら郷土史研究にも力を入れ、柳田國男や佐々木喜善、ネフスキーなどの民俗学者とも交流し、「遠野物語」の成立に影響を与えました。佐々木喜善も考古学に関心があり、15歳前後の時に自ら収集した考古遺物のリストを、明治35年「古考古物號記」としてまとめています。山口集落で見つけた土器や石器の話を、デンデラ野の棄老伝説の由来を説明するために、柳田國男に語ったことが、柳田の先住民に対する考え方と一致し「遠野物語」112話に記述されました。明治43年には遠野史談会を設立しました。そして大正3年頃まで、遠野で最も熱心に考古学的調査を行っていました。
 伊能は大正12年に「岩手県上閉伊郡石器時代遺物発見地名表」を出版します。現在は各都道府県に遺跡台帳というものがありますが、遠野市の部分は伊能の成果がもとになっています。伊能は史跡の保護も推し進めた人物であり、このような伊能の成果が、現在の埋蔵文化財の保護にも生きていると黒田学芸員は見解を述べました。
 最後に伊能が収集した約180点の土器を、受講者のみなさんと囲み、いつの時代のものか、どこで出土したか、どのように使われてきたものか、手に取って話し合いました。伊能直筆のラベルが貼ってあるものもあり、資料の遺跡一覧表と照らし合わせて見ることができました。受講者としていらっしゃっていた佐藤倉造先生から、伊能家に下宿していた時の思い出話を聞くこともでき、講座で理解を深めた後に、伊能が収集したものを実際に手で触れることで、伊能の生きていた時代を身近に感じる講座となりました。

DSC_0008 DSC_0021

カテゴリー 市民講座