mark 土曜講座「もっと知りたい!遠野の先人」第4回報告


日時:平成26年12月13日(土) 10:00~11:30
講師:調査研究課 学芸調査補助員 松浦友美子
内容:馬術の名人 四戸三平
報告:
 後期土曜講座第4回は江戸時代後期から明治時代まで生き、一和流馬術や心強流軍馬術などの免許皆伝を受け、馬術の名人として名を馳せた四戸三平に焦点を当てた講座を開催しました。
 三平は一日市町で酒造業を営む鶴野万吉の長男として生まれました。幼少の頃から荒馬にも臆することなく挑む豪胆さを持ち、13歳で遠野南部家の家士である四戸仁喜太夫から養子の申込を受け、四戸三平政之と名を改めます。三平は養父のもとで一和流馬術を、遠野南部家の家老である福田諸領のもとで心強流軍馬術を学び、16歳で免許皆伝を受けました。
 20代の時に江戸へ遊学し、得意とする馬術を諸大名や有力幕臣へ披露し名声を得て、江戸から盛岡藩に馬術指南役として取り立てられました。
 三平が31歳の時には伊達の丸山(現在の福島県福島市の大鳥城)の急峻な坂や江戸の芝・愛宕山の男坂を騎馬で登り切り、さらに名声を高めました。  第二次長州征討の時、三平は幕府軍の一員として松平氏に随行しました。さらに途中で軍を抜け京都に入り、かつて江戸で知り合った宇都宮藩士の目賀田雅周の仲介で山階親王・近衛前関白忠熙・内大臣忠房・万里小路大納言(博房)・会津藩主保科(松平容保)が臨席して、上亰川端会津侯馬場で馬術を披露し、後日山階親王から「その御馬の術古今無比である」の言葉とともに、書と反物が贈られました。
 明治になると三平は兵部省へ任用され、軍馬購入や馬術教官を務めることになりました。『四戸三平伝記』では「馬術購入官兼近衛師団馬術教官」であったと記されていますが、この頃には近衛師団は存在しておらず、前々身である皇室の警護をする「御親兵」もしくはそれが改編された「近衛局」の馬術教官であったのではないかと考えられます。
 当時の三平は湯島の自宅を兼ねた馬術道場を構えており、厩や稽古用の木馬があり、遠野から上京した人がいつも5~6人はいたといわれています。さらに明治4年(1868)には新しい道場を構えました。この道場では身分を問わずに教えており、「遊馬鞍術 日本一 四戸三平」と書かれた看板が掲げられました。これについて道場建設を申請する際の申請文に「皇国中より軍馬の達人、尋来候はば、業理手合いの上、私より上は手に候はば、名札取退可申、但、名札一見の上は致憤激、追々名人も相出可申左候得者、一縷励にも可相成と奉存候。」と記しました。
 晩年の三平について、墓碑には「先生病を以て致仕し、門を杜じて出でず」とあり、目が見えなくなったことで退官したことが伺えます。明治9年(1876)6月明治天皇の東北巡行の出発を上野広小路で見送った夜に亡くなりました。享年44歳でした。『遠野市史』『上閉伊郡誌』では盛岡で死んだとありますが、実際は湯島の自宅だったそうです。今は遠野の大慈寺で眠っています。
 その後、三平の弟子達によって遠野市上組町の駒形神社に四戸三平記念碑が建てられました。現在は遠野八幡宮境内へと移転されています。また、遠野八幡宮には三平が愛宕神社の登坂に挑む姿を描いた衝立が奉納されています。
 三平には馬術以外の逸話も伝えられています。『四戸三平伝記』によると、遠野南部家三十三代当主・南部義敦は、毎週日曜日になると三平の自宅を訪れるほど親しい付き合いをしていたそうです。義敦が突然体調を崩し三平宅へ移された時にも天皇侍医であった佐藤という医師や遠野出身の目沢祐徳という医師に診療を頼み、自ら枕元につきっきりで看護したといわれています。懸命の介護の甲斐なく義敦が亡くなると、葬儀などの一切は三平により丁重に行われました。葬儀費用として30円が三平に届けられましたが受け取りませんでした。
 雪が降り始めた12月でも今回の講座にはたくさんの人が講義を聞きに来ました。馬と関わりのある人も参加しており、馬に関する話や質問がたくさん出て来て、充実した講座になりました。

四戸三平のお墓です。

   

次回の土曜講座は平成27年1月10日「知られざる民俗学者 及川勝穂」です。 詳しくはコチラ 来年もよろしくお願い致します。

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