mark 土曜講座「もっと知りたい!遠野の先人」第2回報告


日時:平成26年10月11日(土) 10:00~11:30 講師:調査研究課 学芸調査補助員 樋口真衣 内容:逆説 遠野騒動―鱒沢左馬助は謀反人か?― 報告:  後期土曜講座第2回は、遠野騒動を引き起こした鱒沢左馬助について探りました。 鱒沢氏は当時遠野を治めていた阿曽沼氏の9代光綱の次男守綱から始まり、守綱は兄守親から鱒沢村、小友村の半分を知行して鱒沢村上町館(鱒沢館)に住みました。浅沼氏を名乗っていましたが、世間では鱒沢殿と呼ばれ、遠野で一番の有力な家臣であったと言われています。  宝徳2年(1450)鱒沢守綱の弟、宇夫方守儀が居館としていた谷地舘が隣国葛西氏の家臣金成政実に襲撃されます。この際、遠くは達曽部や大迫からも応援が来ますが、本来家臣を守るべき阿曽沼氏の動きについては記されていません。この頃から阿曽沼氏に対しての不満が募り始めたと思われます。  初めは阿曽沼氏の分家として始まった鱒沢氏ですが、次第に両者の勢力争いがおこります。天正年間(1573~1592)になると葛西晴信から阿曽沼広郷にあてた書簡の中で、鱒沢氏には油断するな、と何度も書かれている所から阿曽沼氏と鱒沢氏の緊迫した関係が窺い知ることが出来ます。  天正18年(1590)、秀吉による小田原攻めに参陣しなかった阿曽沼氏は、その制裁として遠野の領主権を奪われ、南部氏の附庸となりました。この時遠野は北から南部氏、南から伊達氏という強大な一族に挟まれます。鱒沢左馬助の時代、遠野を狙う両者は阿曽沼氏と鱒沢氏の勢力争いに加担し、阿曽沼氏には伊達氏が、鱒沢氏には南部氏がつき、次第に抗争は激化します。  慶長5年(1600)秋、関ケ原の戦いが勃発すると南部利直の命により阿曽沼広郷の跡を継いだ広長も兵を率いて徳川方の最上義光応援のため、山形に出陣します。広長は左馬助に先陣を命じましたが、左馬助は仮病を使って拒否したので、「最上から帰ってきたら処分する」と怒り、横田城の留守を家老上野右近、平清水駿河に任せ出征しました。  鱒沢左馬助はその隙を狙い、自国の反乱制圧のため帰国して花巻に戻った南部利直に遠野献上の謀を申し入れ、大いに喜んだ利直は所領の褒美を約束しました。 遠野に帰った左馬助は、留守居役の上野右近、平清水駿河を説得し味方に付けます。さらにその後、城に残っていた家士たちを残らず集め謀反を唆し、ただ1人を除いて南部氏への忠心を誓う血判書に連判させ、遠野を阿曽沼氏から奪いました。(遠野騒動)  この騒動を知らない広長は山形から帰る途中で、遠野から広長の妻子を世田米に送り届けた分家の西風館大学から顛末を聞き、世田米に逃げ延び、舅の世田米修理を頼って伊達政宗に助成を頼み、遠野奪還を狙いました。  鱒沢左馬助は最初の次奪還戦である平田の戦いで討ち死にしますが、その後2度の奪還戦に敗れた広長は遠野奪還を諦めそのまま仙台に留まることになり、約400年に及んだ阿曽沼氏による遠野統治は幕を引きました。  その後遠野は南部領になり、鱒沢左馬助の息子忠右衛門は五百石から二千石への加増を言い渡されました。忠右衛門にはさらに利直の養女を妻として与えられましたが、粗略に扱ったため新妻は三戸に帰ってしまいました。このことで立腹した利直は忠右衛門に切腹を命じ、その息子千代松も殺され鱒沢氏は一国の主になることはなく、悲劇的な最期を遂げ滅亡しました。  最後に鱒沢左馬助は主を裏切った謀反人ではあるけれども、私利私欲に目が眩んだのではなく、如何にして遠野が生き残れるかを考えた末の行動だったのではないかという考察で講座は締めくくられました。  この日は市街で遠野市産業まつりが開催されていたのですが、前回の講座と同様にたくさんの方が参加し、質疑応答では鱒沢館等の鱒沢氏に関わるものについて知っていることを話してくれました。

講座の様子です。


上町館(鱒沢館)


次回の土曜講座は11月8日(土)「宮守の畜産振興功労者 伊藤門内」です。
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