mark 土曜講座「もっと知りたい!遠野の先人」第8回報告


日時:平成26年2月15日
講師:調査研究課学芸員兼主査 前川さおり
内容:山奈宗真とヤエ~郷土を拓いた夫婦の絆~
報告:
 今年度最後の土曜講座は明治に生きた殖産興業の指導者山奈宗真(やまなそうしん)を、妻のヤエから見た視点で探りました。
 宗真は弘化4年(1847)に遠野南部家家臣・奥寺長右衛門捷之(かつゆき)の長男として生まれ、幼名を惣馬といいました。父から「産業に従事を専務とせよ」と常に教え諭され、自ら蚕を買って飼育し繭6斗1升を育てたと伝えられています。慶応元年(1865)に惣馬は現在の宮古市小国の三浦武の長女ヤエと結婚します。慶応3年(1867)に父捷之が他界すると、家督を継いで山奈宗真と改名しました。
 宗真は、家禄を失った士族の生活を立て直す為に全財産を売り払って小国の白見山に牧場を開きましたが、狼の被害に遭い閉鎖に追い込まれます。しかしくじけることなく明治9年(1876)に白見山の近くの立丸峠に再び牧場を開牧します。経営は順調に進み、事業拡大の為に附馬牛の大野に官山の土地を借りて牧場を移転しました。アメリカから乳牛を買い入れ、明治16年(1883)には岩手県内では先駆けて牛乳屋をはじめ、経営はヤエに任されました。ヤエは宗真の留守中に台風が牧場を襲った際、一人で牧場を死守しました。

当時宗真が導入したデボン種の牛

 牧場を営む傍ら宗真は、女性の就労と新たな産業として養蚕を推進するために明治18年(1885)に製糸場を設立します。経営は順調でしたが、この成功を妬む者の誹謗中傷に遭い、明治23年(1890)に閉鎖に追い込まれます。悪いことは続き、先の牧場が明治27年(1894)に閉鎖を命ぜられます。彼の先進性は当時保守的な気風が強かった岩手県において理解されることが少なく、苦難の連続でした。しかし彼は貧しい民衆が自立して平等に暮らす世の中を目指し決して立ち止まりませんでした。
 宗真は凶作対策の為に寛永18年(1641)以後の凶作年表を調査し記録に残します。また明治11年(1881)感応院境内付近に農業試験所を開設し、様々な品種の当時珍しかった準野菜の栽培を試みました。明治15年(1882)には馬耕伝習所を設け普及に努めました。
 その後明治29年(1896)に起きた三陸大津波の被害調査の為に総延長約700㎞の三陸の海岸線を、49歳で約40日間歩いて踏査しました。津波の被害を調査し、産業・経済の復興につながる糸口を見出す必要があると考えたためです。そして宗真は明治42年(1909)に62歳でこの世を去りました。またヤエは大正13年(1924)に75歳で夫の元へ旅立ちました。
 激動の人生を送った彼を支え、共に戦ったのは妻のヤエでした。明治11年(1878)に宗真が立丸牧場の開牧を岩手県令の島惟精に願い出て「資本はいくらか」と尋ねられた際に、彼は「家族が仲良く団結一致することが資本です。家族が力合わせ働くことこそ数万の資本に勝るのです。」と答えたそうです。
 大慈寺にある二人の墓は「比翼墓(夫婦二人の墓)」となっています。比翼とは、雄雌それぞれ目と翼が1つずつで常に一体となって飛ぶ伝説上の鳥で、仲睦まじい夫婦の象徴として古くから知られています。夫と共に夢を語り合い、働き、生き抜いたヤエと宗真は正に一心同体であり、かけがえのない「比翼の同志」だったのでしょう。

宗真とヤエの「比翼墓」

今回で今年度の土曜講座は終了です。来年度の土曜講座にもご期待下さい。

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