mark 土曜講座「もっと知りたい!遠野の先人」第5回報告


日時:平成25年10月12日(土)10:00~11:30
場所:遠野文化研究センター「大会議室」
内容:「謎の小八戸氏~南部藩を救った影の立役者たち~」調査研究課長 小笠原晋
報告:
 平成25年度土曜講座後期最初のテーマは、小八戸(こはちのへ)氏です。小八戸氏とは、1676(延宝4)年、遠野南部23代義長が父直義の遺言に従って、弟の義也を分家としたことにはじまります。本家に対して「小八戸」、また附馬牛(つきもうし)に居館を構えたことから、「附馬牛八戸」と呼ばれていました。今回の講座では2人の当主を中心に取り上げました。
 小八戸5代義顔(よしつら)の時代は凶作や不作が続き、1777(安永6)年には浜上口銭(海産物課税)などに反対した遠野商人が騒動を起こし、これに各地の農民が合流して一揆が起こりました。義顔は、大槌、鵜住居、気仙から入る荷物について1年分1300貫文を年々遠野南部家から直接藩に弁上し、百姓から一切取らないこととして一揆を収めました。
 小八戸7代義濤(よしなみ)の時に「伝承・田名部取り返し事件」が起きました。1807(文化4)年、時の盛岡南部36代利敬(としたか)は、津軽藩への対抗意識から、家臣に無断で老中堀田摂津守に対して「田名部5千石を幕府に献上する見返りに当時10万石だった録高を20万石に格上」することを請願し、内諾を得ました。
 しかし田名部の領地を失い、20万石の格式を保つということは、藩の財政破綻を意味していました。翌5年、幕府は利敬の出府を命じます。利敬は初めて重臣に事情を話し、自らの軽率な行動を悔いました。議論の結果、藩主は病気ということにして、義濤が名代として出府しました。
 白無垢無紋の下着を身に着けた義濤は、老中列座の中「田名部は遠野南部家の祖先が朝廷から忠誠の賞として拝領した主君にも自由にならぬ土地であり、思いもよらないことです。」と堀田摂津守に弁解しました。堀田は利敬の請願書を示して義濤に迫りますが、その中に主君の名を署名した箇所を破り取り飲み込んで、平謝りしました。
 松平伊豆守、出雲は義濤の捨身の忠誠心に心を打たれ、激昂する堀田摂津守をなだめ、この一件は不問にすると取り決め、義濤を引き取らせました。
 私は講座を聞いて、一揆を武力で押さえつけずに収束させた義顔はすごいと思いました。名君といわれたことにも頷けます。義濤は藩の為に自分の命と自尊心を投げた菅田はまさに武士だと思いました。また体面を潰された堀田摂津守に少し同情しました。
 市街では遠野市産業まつりが開催されていたため、残念ながら参加者が少なかったのですが、みなさん講義に熱心に耳を傾けて下さいました。

講座の様子です

次回の土曜講座は12月14日「フロンティアの世紀~外山開拓の祖・及川源次郎~」です。
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カテゴリー 市民講座