mark 「もっと知りたい遠野の先人」第3回『百專右衛門と新田開発』報告


日時:平成25年7月13日(土)10:00~11:30
場所:遠野文化研究センター「大会議室」
内容:「百專右衛門と新田開発」樋口真衣 調査研究科学芸調査補助員

報告:
今回の「遠野の先人」は資材を投げ打って踊岡野(おどろかの)を開拓した人、百專右衛門(ももせんえもん)です。
百專右衛門は天明3(1783)年釜石にて生まれ、幼名を卯吉といいました。翌年母が病死し、母方の祖父で、酒屋を営んでいた松田理右衛門に引き取られ、理助と改名します。さらに翌年父も病死し、資産を叔父理兵衛(母の弟)が管理運用することとなります。
その後理助は、着実に石高を増やし続け、文化13(1816)年従兄弟の大町家の分家となり大町市左衛門と改名します。そしてお番入りを命ぜられ、武士の身分へと取り立てられるのです。しかし文政3(1820)年本家大町家に「無調法之儀」ありとして、本家もろとも断絶しますが、後に新地10石を下され、家名を「百」、その後名を「專右衛門」と名乗る事が許されます。
早くから開拓の志のあった專右衛門は天保3(1833)年に新田開発の許可を受け、踊岡野の開拓事業に着手します。堤を築いて水を溜め、新田を開き、ため池に沿って家を建て、そこに農民を移住させました。家の周囲に桑、漆、コウゾ類の植樹を奨励し、その土地の粘土を採って陶器の試作も行わせました。しかし、翌天保4(1834)年に大飢饉が襲い、移住した農民は開拓したばかりの農地で生活することができず、新田開発は失敗に終わります。
その後專右衛門は藩に対する度重なる献金を行い、また新たな開拓を計画しましたが、お金を使いすぎることを心配した親類によって座敷牢に幽閉され、嘉永2(1849)年66歳で專右衛門はその生涯を終えます。
講座の後、なぜ專右衛門は藩に献金を続け親類に幽閉されてしまったのかという話題になり、両親を早くに亡くし、家も断絶してしまった自分を武士に取り立ててくれた藩に対する專右衛門の気持ちと、いくら貢いでも見返りが少ない藩に対する不信感をもつ親族との間に亀裂があったことが原因ではないかという結論になりました。また、当時遠野で婚礼の時に食べられていた料理の紹介や、專右衛門の親族の子孫の方が会場にいらっしゃったりと、今回も大盛況でした。

次回の土曜講座は8月10日「宮守の伝説作家 佐々木義蔵(ぎぞう)」です。
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