mark ※最終回【口語訳遠野古事記】飢渇人とその救済策十日


一 以上のように田畑が凶作で米穀が高値となったので、霜月中旬(※宝暦5年12月中旬)から諸士・在・町の飢渇人が次第に訴え出てきました。以下は、翌年の夏までに御救いの穀物を与えられた人数のうち、諸士や足軽を除いた総人数を盛岡御城に報告した御書付の略書です。

  私の知行所は先達て申した通り去年は作毛不熟で、それにより現れた飢渇に及んだ者への手当記録が以下の通りです。
 一 横田村のうち 42軒  但し3歳以上の男女274人
 一 毎村     同断   同断
 一 六町     同断  同断
 一 職人     同断  同断
 一 修験のうち  同断   同断
 一 八戸勝之進の知行所、附馬牛村東禅寺村のうち 
同断   同断
    軒数〆て1234軒
    人数〆て7477人

以上は申し出次第12ヶ月分の食糧を追々渡した人数でございます。
 領主のほかに、在・町で飢渇人共に施しを行った者が9人います。それにより救済された人数が御本書に記録されていますが両者とも省略します。

一 ・・・・何町・・・・ 
一 ・・・・何村・・・・

 穀町〆て108駄片馬6升5合(※80石3斗5升5合)
 銭 〆て96貫200文(※1両=約4貫 24両200文)
 塩 〆て26駄片馬1斗(※19石7斗1升)

 
 以上の者たちはこの節施しを願い出ましたので、書付けの通り申付けました。しかしながら去年の末は、秋から粗食であったためでしょうか。病死する者も多く、とりわけ近頃は衰弱した者も見られます。知行所の役人達を遣わせ一層の手当をするよう申し付けました。この件で申し訴えることは以上です。
 5月18日  八戸弥六郎

 上記の飢渇人達には御救いの御米・雑穀あわせて918駄、片馬(※679石6斗9升)が与えられました。しかし巳の3月上旬、宗門改には死者・3009人と記されたと聞きました。その人数のうち、飢饉中も食べ物に困ることなく普段通り食事をしていたが病気にかかり亡くなった人が大体500人。そのほか2500人あまりは御救穀の他に自力で食物を得られず、食攻め(※兵糧攻め)という凶年の強敵を防ぐ術が尽き果て、命を落としたようです。
 また今日の飢餓に苦しみ、父母妻子を捨てて自分ばかり行方をくらませた者や、妻子諸とも家を立ち退く者もあり、かれこれ亥の暮れから丑の3月上旬までの失踪者は男女合わせて494人、死馬2000匹あまりであるとのことです。餓死を免れ生き残った人々もいますが、九死に一生の危うき目に遭いようやくのところで命を保った彼らの苦を察すべきでしょう。
これにより子の春は多くの百姓が渇命に苦しみ、残しておいた五穀を冬のうちに食い尽くしてしまったため田畑の作付けができない者が多くいました。また、種物の貯えがあっても食に事欠き、鍬を振り上げる力もない状態です。そのため普段であれば1日で済む作業が3、4日かけてようやく終わるような有り様で、種を蒔き付けるだけでその後の手入れにまで手が回らず、そのまま捨て置く者も多くいました。
また今日の飢えを防ごうと、踏む足下は弱くとも杖を支えに野山へ繰り出し、草木の根葉を掘り摘むのに余念がなく、垣内(※カクチ 垣根の内側)の畑も手入れせず捨て置く者もいました。昨年の秋は粟・稗の収穫を期待し、種麦を持つ者も普段より遅く蒔いたため尚更種の貯えがありません。やっとのことで種を手に入れた人々はより遅い作付けとなり、生えた芽は薄く精気が弱い麦苗であるうえに、この2月の大雪で過半数が朽ちてしまいました。
 以前は100束刈り獲れた畑からは30程度の収穫しかなく、殊更実入りが芳しくありません。収穫量が不足しているため、秋に穂が実るまで食物も絶えてしまうと人々は嘆きました。 
秋に至り、例年の如く手入れを行った者の粟・稗は、刈り数も以前より10も20も増え、収穫量は余るほどでありました。しかしこれは1ヵ村に1人、2人いるかいないかです。
 また刈り付けても手入れが行き届かず、ようやく一番草を除草しても作割ばかり行っていた畑の粟・稗の刈り数は例年の半分ほどで、収穫も一束からかつさ(※不稔雑穀)が小升1升5合あれば上出来といいます。
蒔き捨て置かれた畑は雑草が野山のように生い茂り、その中に混じって日陰の粟・稗もこの年の気象が良かったため、去年の秋よりは実りが良好でした。少しでも色づいた穂を選んで切り取り食したそうです。大豆・小豆・蕎麦・大根等も、蒔き付けた作物は手入れ相応に収穫できました。
 田はこの春の種もみの発芽が散々な具合で、水に浸しておいた種も役に立ちませんでした。苗不足のため他領他郷から売りに来る苗を、早稲・晩稲(※オクテ)の区別なく買い求めました。しかし手入れが粗略である田に次々と植えたため、秋の出穂は芳しくありません。例年より刈り数・収穫量ともに不足していますが、昨年の秋に比べればよい状況であるため、御蔵御納米は以下の通りとなりました。

 一 610駄片馬8升3合(※451石8斗5升4合) 上郷
 一 607駄1斗7升2合(※449石3斗5升2合) 下郷
    内上下郷未進米189駄あまり(※139石8斗6升)
 一 199駄片馬9升4合(※147石7斗2升4合) 宮守
 一 214駄6合(※158石3斗6升) 佐比内
   合わせて1631駄3斗5升5合(※1207石2斗9升5合)

【遠野領飢饉検分書き上げ御訴書】
一 御城下の近所には田畑ともに荒地は見受けられませんが、その他の土地は地主が餓死したり出奔したりと、一向に鍬を入れず荒地が多いため、検分に諸村を訪れた役人は調査記録を盛岡御城へ提出しました。その写しがこちらです。

  
一 高1万2712石8斗7升4合の内、荒地は4966石8斗2升6合
上記は昨年の秋に作毛が不熟で種籾もよろしくない。交易で得た籾は土地に合わず、しっかりと植え付けることができなかったため、このような石高となりました。また、上手く植え付けた田畑も人手が不足して手入れが行き届かなかったのも原因の一つです。以上。
閏11月13日  八戸弥六郎

この書面の他、世間の困窮した様子は筆紙に及び難いものですが、大体の事を別書に記しておきましょう。
 この3冊全てに記した書面のほかにも見聞きした古事は数多くありますが、私は天性記憶が薄く、かつ老耄(※ロウモウ 衰え弱った老人)ゆえの物忘れ、思案する気力が衰えたため、心に浮かんだ雑事のみを書き集めました。本来であれば草稿から文章の列を改め分類するべきでしたが、それも煩わしいのでそのまま写したのがこの遠野古事記です。

〇この回をもちまして金曜夜の読書会は終了となります。長い間ありがとうございました。

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