mark 【口語訳遠野古事記】宝暦5年の飢饉のあらまし


一 宝暦5乙亥年2月から秋まで、東北の風(※ヤマセのこと)が次々に絶えず吹いて、雨がしきりに降りました。降らない日も、空は曇り日の光を見る事は稀でしたので、土地は乾く間もなく、山の畑も砂地の畑も谷地田のようにぬかっていました。農民の蓑傘には茸が生え、耕耘(※コウウン 田畑を耕して雑草を除去すること)にとても労力がかかりました。
土用中(※陰暦6月中旬から・陽暦では7月下旬から)も冷風に雨が交じり暑気は薄く、一日中帷子(※カタビラ 夏用の麻・木綿などで作った単衣)を着た日は2、3日で、他は綿入りの袷(※アワセ 裏地を付けて仕立てた着物)ばかり着ていました。老人や虚人(※キヨト 虚弱な人)は、夜中に厚綿の寝具を重ねても、明け方には冷気で目を覚ましました。
このように気候が甚だ不順だったので、7月下旬に稲の穂が稀に出ましたが花は見えませんでした。早生の粟・稗も一つの穂の中に実ったものは10分の1程で、全体が青く例年より成長が若く見えました。天気が良くなり暑気さえ来れば大概は稔るだろうと気を付けて待っていましたが、冷気が募り、8月16日・17日の朝には霜が降りました。御城下から上鱒沢の辺りまでは強く影響は見えませんでしたが、皆困った様子でした。御城下から上は、霜が強くあたりました。上下郷ともに山に近い所は多くが青絶(※アオダエ 米雑穀が稔ることなく青立ちの状態になること)と三御代官(※上郷代官、下郷代官、佐比内代官)が訴えたので、上下郷・宮守・佐比内に見聞の役人を遣わすと、大変な大凶作と見届けたため、盛岡御城へ下記の通り報告しました。
    口上之覚
 拙者(28代義顔)知行所遠野、当年不作の上、去る16日・17日両明け方の霜で田は青絶、
 翌春の種の分も実りかねているという報告が御座いました。
 畑の作物は3分の1も実っていない状況で御座います。これにより、検分の者を派遣したと
 ころ、これに相違ないことを確認したので、この段を訴え申し上げます。以上。
 8月26日             八戸 弥六郎

【「宝暦の飢饉」の作柄】
一 過ぎた昔の元禄8年、同15年は、寛永年中巳・午年以来の大凶作であると、当時の世の人は話していますが、当年はそれ以上の凶作で、亥・子・丑の3年、身分の上下を問わず全ての人が、地獄に片足、この世に片足踏み込んでいるような状況でした。どうにか危ない露命をつないでいる大困窮の様子のあらましを以下に記します。
 一 田には5月20日前後から6月中旬まで植え、9月末より刈り始め、霜月初めまでに刈り
 終わりました。
  綾織村も岩川という品種の稲は3分の1程の実入りで、晩稲はしゐな(※殻ばかりで実の
 無い籾(もみ))ばかりで実が入りませんでした。上鱒沢村で新しく開いた田は肥やし不足の
 堅田(※カタダ 水を落として土が堅くなった田)ばかりでした。三筋(※三助の誤り)という
 稲は3分の1程の実入りで、その他は綾織と同様でした。上郷は横田村の太田、新里村の
 宮ノ目、糠前村の千苅田の早稲は3分の1程実が入りましたが、種籾になるような稲は稀
 でした。
  この他の村々では、実が入っているように見える早稲も一つの穂の中に実は2、3粒ある
 かないかでした。なおさら、晩稲には1粒も実が入っていませんでした。藁も役立つ様には
 見えず、そのため殆んどは馬屋に敷かれました。
  少し実が入っている稲をハセに掛け置きましたが、雨が続き、かつまた、10月14日に洪水
 があり川近辺のハセが押し流されてしまいました。この水難に遭わなかったハセの稲も乾
 かないため、濡れたまま稲こきしたところしゐなのような籾一束から小桝1升前後しか米が
 取れませんでした。これをするす(※磨り臼)で挽きゆり板(※千石通し)にかけると、実が
 入っているものは汁椀の蓋で1つあるかないかで、その多くは折れ砕けており粒米は稀で
 した。その米の形は例年より小さく色は青く、中程にくびれがありました。それを杵で搗くと
 砕けて粉になってしまいました。
  蒸米にして、するすにかけると、砕けるのは少なくなりましたが、これも杵で搗くと砕けるの
 で、いずれも杵を当てず挽臼で粉に挽いて、稗粥に交ぜたり団子にして食べました。例年よ
 りしゐなは柔らかいため、籾と一緒に挽臼で粉に挽き砕きました。
  早稲の糯稲はうるち稲より実入りがありました。するすで挽くとうるち稲よりは砕けない
 が、杵で搗くと砕けました。それを餅に搗くと一向に粘りがなく、練ることが出来ず、噛むと
 崩れて美味しくありません。強飯(※コワメシ おこわ)にしても粘りがなく味がよくありませ
 んでした。

一 粟は、横田から上鱒沢辺りで、しげた・赤粟・白粟等の早生の粟は凶年の割には実入りがあり、一束からかつさ(※不稔粟)が小桝で2升ほど、上郷では1升くらい取れました。

一 稗は、横田から上鱒沢辺りで、かつさが3升から2升5合程取れ、上郷では2升以内でした。晩生の稗は上下郷ともに実が入らず糠ばかりで、稀に実があっても芥子の様に粒が小さく、粥に煮ても粘りがなく白湯に砂を入れたようなものでした。挽臼で挽き砕き、粥にすれば粘りが少しありました。

一 大豆は例年の5分の1程取れましたが、粒は細かく、種大豆を選んだ後の屑のように見えたそうです。しかしながら、味噌にはなりました。晩生の大豆は霜にあたり実はありませんでした。小豆は霜の降りる場所にはなく、畑の早生は実が入りましたが粒が小さく、晩生の小豆には実入りがありません。

一 蕎麦は、霜の降りる場所になく、凶作年としてはそれなりに実がありましたが、蕎麦殻の突き出た部分が高く、粒は細かかった。

一 大根も例年より相当悪かったが、所によってはそれなりの収穫でした。しかしながら、大根を運ぶ駄数は思った以上に減ったそうです。

一 うり・茄子・きゅうり・ささげ・とうがらし等の菜園物も冷たい雨が多かったため熟すのが難しく、段々に腐ってしまい、種に取っておけるのは稀でした。とりわけ、たばこの種は全く取れず、子年の春は菜園物の種に不自由するでしょう。

一 栗・はしばみの類も実入りは悪く、商売にも不自由しました。梨はどこでも多く生りましたが、例年より味が薄く美味しくありません。

【米穀値段、御納米高】
一 米穀の値段 8月11日は米2貫800文、粟42文、大豆25文。
同16日の朝霜によって、今日は米4貫200文、粟65文、大豆32文。
21日より以後、市日ごとに高値になり、極月(※12月)26日の諸物価は、古米90文、同白米110文、新米85文、古粟92文、新粟80文、大豆52文、小豆75文、大麦45文、小麦53文、蕎麦45文、稗43文、こぬか17・8文、めぬか5文、稗ぬか6文、めのこ(※昆布を細かく切ったもの)28文、きらす(※おからのこと)12文、干葉30文、大根1本4・5文、わらびの花65文、味噌100文で600目。
 一 御蔵御物成米(※オクラオモノナリマイ 領主直轄地からの年貢米。)
     103石6斗4升4合    永代荒当毛無差引(※長期間、米雑穀がとれない荒地、
                                   差し引かれたこの土地の石高)
      111駄3斗1升5合   志和佐比内村御納米
    2,037石3斗7升     当毛無差引(※今期の作物損失分の石高)
     305駄片馬2斗5升9合 上下郷宮守村御納米(内46駄あまり未納)
       御納米合せて460駄片馬1斗6升5合
        去る戌の年以前は、大概2,700・2,800駄程納められる処、当年は以上の通り
        であります。御家中の諸士もこれに准じており、また一向に収入のない者も
        ありました。

一 子の正月11日、御蔵から市場へ出回った米価は1駄8貫150文、市日では、古米7貫320文、新米5貫160・170文、粟110文、稗38文、餅米85文、大麦42文、大豆57文、小豆70文、蕎麦42文。これ以後段々高値になったそうです。

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